爆撃下・・・・私の8歳のとき  もう やんだっちゃ


     
 8歳時の私の記憶は朦朧としていて断片的なのですが、そのいくつかの場面(シーン)は強烈によみがえってきます。 1945年7月10日の空襲までの、6月、7月の仙台には連日、空襲警報が出されていました。突然大音響とともに下から突き上げる振動が家を包みんだことがあります。私は玄関先で恐怖のあまり身がちじみ中庭につながる戸にしがみつき離れることができなくなってしまった時もありました。当時家族7人、みんな着衣のまま、いつでも避難できるように寝ていました。私はかすかなサイレンの音や飛行機の気配にもすぐ飛び起きて目、耳、口をふさいで打ち伏せになるように習慣付けられ、それは敗戦まで続きました。
7月9日は空襲警戒警報があり、やっと解除されほっとしたようです。そんな矢先、真夜中の0時をきして米軍の爆弾、焼夷弾投下が始まりました。

(まぶたに浮かぶシーン) 
記憶は玄関先3mくらいのところに掘られた防空壕に抱きかかえられたどりついたときから始まります。焼夷弾の集束弾なのか大音響が近くで響きました。狭い防空壕の中は6人の家族がひしめき息苦しく、鼻先の土の異様なにおいに早く出たいと思いながら我慢していました。外にいた父はこのままでは危ないと思ったのか、母とわたしと2人の兄姉を外に出し、避難するように促しました。 
外に出ると、空は焼夷弾と照明弾で真っ赤に染まり、真昼のように明るく、サーチライトが米機を追っていました。申し遅れましたが、私の家は仙台駅から程近い東六番町小学校のそばにありました。100m先の花京院の方向に火の手が上がったので避難方向は反対側の東照宮に向かって宮町を通って逃げることになりました。

避難時のシーン
自宅門口の水槽で水をかぶせられ、毛布(?)1枚を4人でかぶり、B29の波状攻撃を避けるように通り沿いの軒先に身を潜め、収まると又歩き始めるのです。各家から飛び出して来た人たちで一杯で、混雑の中で、はぐれないにしっかり母と手をつなぎあっていました。宮町の裏の 北5番丁や車通り周辺も虫食いのように焼けたのですが、恐怖心のためかそれとも眠かったのか異様さしか思い出すことができません。やっと東照宮の境内林の草むらに身を隠し、空襲が収まるのを待つことになりました。50mぐらい離れた真っ暗な森の中でかすかな光(たぶんタバコの火なのだろうか)が見えた瞬間、周りはひそひそと騒ぎ始めました。「スパイがいる。上空の敵機に合図を送っている」。ここも危険な所になったのです。朝見ると潜んだ場所は変電所脇で、この方がはるかに危険だったのですが。醤油瓶1本だけもって、或いは鍋の蓋だけもって、ある者は靴片方だけ持ちはだしで逃げてきていました。
しばらくして、爆撃が収まり、家に戻るため宮町に来ると 不発弾があるとか、燃えているところがあるという情報でかなり迂回してやっと家に戻ったようです。近所と私の家は健在、でも家中、水をかけたため、びしょ濡れでした。旧制中学生の兄が動員先で「空襲時は逃げるな、残って消火に当たれ」、と厳格に教育されていたのか、必死になって家中水をかけたようです。日頃家の庭の洗濯物を見つけて、敵機からみえる撤去せよ半鐘を鳴らしていた(消防?)団長は僕らと同じように逃げていました。火の見櫓は隣のキリスト教教会境内にありました。

7月10日 昼には疎開  焼死体を見ながら 
朝、古川町〔現大崎市〕から心配した叔父が、木炭で走るトラックで仙台郊外まで救援に駆けつけ、焼けくすぶる街なかを通って我が家にやってきました。直ちに疎開だ。ここに居ては危ない、まず小学生2人、〔私と兄〕を連れて父母とわかれて家を出るのですが、トラックにたどり着くまでの道筋は、今にして思えば地獄絵でした。花京院をへて市電通りに出たとき、姉が通う女学校も含め見渡す限りの焼け野原でした。
市役所までの両側は焼けくすぶっていて熱風で息苦しく歩くのが困難でした。斉藤報恩会のそば?を通ったときいくつかの焼死体が道ばたに無造作に並べてありました。県庁側には筵?をかぶった焼けた死体がありました。長兄がちょっと前まで入院していた県庁脇の第1陸軍病院(衛戍病院)は既に丸焼け、東2番町の市立病院、東1番町の三越デパートと、目指す市役所庁舎以外みんな燃えつくし、まわりはくすぶっていました。市役所方面から県庁裏手を通りますが、ここも焼けていました。昨夜からの恐怖の連続にあったのか8歳の男の子は何故か長ずるまでそのシーンはうろ覚えのように封印されたままでした。

(次のシーン)はこうです。
救援の木炭で走るトラックの周りには、乗ろうとする人たちでいっぱいでした。既に荷台は人や積荷で山のようになっていました。やっと積荷の上に引きずりあげられて乗ることができました。北仙台から七北田街道を通り、王城寺が原 (戦後米軍に接収された演習地。アジアでの戦争に備えた野戦演習地。沖縄米兵の証言)から古川に向かって砂利道を走るのですが、ぐっすり眠ってしまった私は途中走るトラックの荷台から何度も振り落ちそうになり、上と後ろから、横から首筋や手を握る大人たちに救われたそうです、が途中はほとんど記憶にありません。走り始めたとき、乗ろうとする人たちを置いてきぼりにしてクラクションを鳴らして走ったと兄は言っていました。おぼろげに記憶に残ります。途中歩く避難者が延々と続きますがトラックは人々を蹴散らすようにして走ったといいます。

8月15日
天皇の玉音〔敗戦〕放送 は縁故疎開先の中新田町 [現加美市] の母のおじの家で聞きました。みんなは正座していました。私は遠巻きにしていました。
おじが、なんだ負けたのだと声を上げたようです。2人の息子を兵隊にとられた叔母は黙っていました。私は何がなんだか全く理解はできませんでした。ただ親が迎えに来るぞという思いにいたったのかは明確ではないのですが何故か明るい気持ちでした。学校で飼っていたウサギが心配の小学5年生の兄はすぐにも帰りたい思いだったようです。疎開期間途中一人で仙台に帰りこっぴどくしかられた兄でした。8月20日過ぎにやっと母がやってきました。仙台に帰るのは危ない。米軍がやってきて皆殺しになるからと、親戚一同が私たち兄弟を帰すまいとしていたようです。母は死ぬときは家族一緒だといいはり、反対を押し切って連れ戻すことになったと後で聞きました。別れるとき親戚たちが泣いていたのも進駐軍に皆殺しになると本気で思っていたからでしょう。中新田駅から仙台東照宮下駅まで、軽便〔ミニ機関車列車〕で3時間近く揺られて帰仙したのですが家では兄姉全員が待っていました。兄弟姉妹で手をつないで輪になって家中の座敷の中をくるくる走り廻ったこと、コレが今だに瞼に刻印されています。よほどうれしかったのか、今も平和のありがたさを噛み締める私の財産になっています。

  敗戦後の自宅付近

○ 米軍が進駐してきました。先頭に機関銃をすえたジープが走り十数台のジープ、トラックが家の前を過ぎていきました。空に向けて空砲も撃ったと他から聞きました。占領開始の威嚇を狙ったのだと思います。私にはカーキ色で赤の縦線の入った軍服をまとった米上官がかっこよく見えました。
近くにある仙台駅の半分は、ペンキが塗られたのか瀟洒な米兵専用駅になり、金網越しに覗き見ることができました。列車は冷暖房つき。日本の列車は、デッキ や窓から体を出すほどの込み具合。その差は歴然、敗戦国の姿でした。米占領軍兵舎が置かれた榴ヶ岡(旧陸軍四連隊。ここには2等兵の兄がいて母と慰問に行ったことがあります。殴られて顔が無残に膨れていた。ここからガタルカナルやアリューウシャンや北支さらにビルマなどに派遣され転戦し多くが死んだ。兄の同窓会名簿は約半数が戦死か無記入)。国鉄線路をまたぐX橋の道路周辺はMP憲兵が厳重な警護。交通整理に当たっていた。
駅は戦災孤児や、家を焼け出された人たちの住処になっていました。線路下のガードも家を焼け出された人たちの住処になり、通路は避難者を避けてひとりがやっと横になって通る程度に狭くその状態がしばらく続いていました。

○ 米軍は私の自宅前の東六番町通りに沿って常盤木丁にある遊郭地に向かって大型トラックをゆっくり走らせ、買春用(トラック)にしていました。トラックから
当時パンパンといわれた売が降り立つのを何度も見ました。自宅そばの教会の庭はパンパンといわれた売春婦と米兵のあられもない場になりました。遊び場だった教会の庭に子供が行くと風船が投げられ追い払われました。風船はコンドームとはしらない付近の子供たちの宝物になりました。

○ 当然私は家の外に出ることが厳禁となりました。米兵たちがジープから子供たちにチュウインガムを撒き始めました。私は門の隙間から道路をそっとのぞいただけだったのに、父から罰として蔵に閉じ込められてしまいました。真っ暗な蔵の中で泣きじゃくった覚えがあります。門を開けて米兵が一人で入ってきたこともありました。女性を探しにきたのです。裏通りの各地に売春宿ができはじめ日本人の円タク斡旋屋が間違ってつれてきたということです。親は不在で小学生2人が棍棒と擂り粉木を持ってきて姉を守ろうとしました。大人が誰もいないと気づくと出て行きました。姉はとっさに隠れたようです。

○ 待っていたのは空腹でした。私は低学年だったので家に帰ってから食べました。母が着物など売って芋などに変えていたようです。よくかい出しにいっていました。学校では米軍放出の腐ったにおいのするミルクがアルミの蓋の上に注がれました。私は吐き気を我慢して飲む場合と捨てるときがありました。先生の指示で小学5,6年生は食べられる雑草を摘んで登校しました。雑草入りどんぐり粉パンが配給されました。私はとても食べられず捨てたのでひどくしかられたことがあります。

○ 日系二世の米兵が教室を廻り戦争に関する掲示物をはがしていきました。教科書には墨が塗られました。校舎は焼け出された女学校も使うようになり2部授業になりました。(学制が変わってからは3部授業にもなりました)。この女学校には姉も通っていて同級生には迫りくる火に追われて逃げ場を失って広瀬川に飛び込みなくなった友人、包帯だらけになってくるもの、先生も火傷をおっていたといいます。

○ 敗戦の混乱は人々の心を蝕んでいきました。私の通学のズック靴も傘も学校の帰りにはしばしばなくなり、やむなく私ははだしで学校に通うこともありました。大人が学校に入ってきて盗むということでした。

○ 私の名前がハルオのせいか、ハローハロー(チュインガム)といって米兵を追いかけていた子供たちに、私はチュウインガムとはやし立てられました。私にとって屈辱のあだ名でしたが当時の世相を反映していました。

62年ぶりに 元寺小路 岩本外科病院跡地に立って
駅に程近い元寺小路に戦前岩本外科病院がありました。私は赤ちゃんのときに手がくるぶしのようになる大火傷をしていました。国民学校入学の前にくるぶしを切開して指を出す手術をしていました。その病院と周辺が7月10日集中的な焼夷弾を浴びたていたのです。ベッドの上の患者と付き添いのベッドの下にいた親を不発弾が串刺し貫通するなど 周りは阿鼻きゅうかんだったと伝え聞きました。70歳になった昨年私はその前に妻と立ちました。もう岩本病院はありませんでした。確か近くにカソリック教会があり、外国人たちが隔離収容され、中庭をぐるぐる引き廻されていたのを通院途中みた記憶がかすかに浮かんできました。私を執刀してくれた医者や看護士はどうだったのか。私が手術した病室は、思いはぐるぐる廻りました。教会にいた人は?きっと逃げ切ったに違いない。でももしかして空襲の日の昼この病院に程近い斉藤報恩館の近くを通ったときに見た焼死体の中におられたのではないか。絵にいえない悲しみがこみ上げてきました。

追記
戦争はすべて狂気です。私は戦災直後父に連れられて家から広瀬川を越えた川内まで焼跡を歩いたことを思い出します。行けども行けども焼け野原。
よくもこんなに燃えたものだ。
米軍は日本の家屋は木と紙でできていることに目をつけて市街地の周囲に大量の焼夷弾を落とし火災を起こし逃げ道をふさぎ、しかる後に中心部を爆撃し破壊
し尽くし多くの市民を殺戮しました。そのやり方は東京空襲後日本各地の都市空爆に適用されたという。仙台も、千葉市も。戦後この功績で日本政府から勲章を授与された米司令官ルメイ(ヨーロッパ戦線で武勲を立てて回されたきたといわれる)の立てた戦略だったのは今では明らかです(NHKテレビでそれと分かる報道があった)。日本の真珠湾奇襲攻撃、重慶市民への無差別爆撃  南京虐殺など さらに東南アジヤ諸国への日本の侵略、非道な加害が先行したことに続く日本の都市への攻撃でした。

日本の敗戦が既に明確となったときに戦後世界の覇権のためにアメリカはヒロシマ、ナガサキに原爆を投下し21万人(これまで38万人)を殺傷しました。
今なお23万人が放射能後遺症で苦しんでいます。その1ヶ月前に仙台空襲で1000名を超える命が私のそばで散りました。
一方敗北が明白にもかかわらず国体護持のため"もう一戦交えてから"という聖断で戦争を引き伸ばし3月10日の東京大空襲での10万人の犠牲者を始め全国各地の33都市への爆撃を許してしまいました。市民の犠牲者は沖縄を含め数十万人をこえ都合330万人の犠牲者を持って戦争は終わりました。
日本軍の手によるアジアの2000万とも言われる犠牲者一人一人にそれぞれの生活と人生があり親がおり子供がおり友達がいました。その犠牲の上に世界に向けた平和憲法が生まれました。私の学び舎だった川内も伊達の武家屋敷から 第2師団司令部、そして接収された米軍キャンプにかわり米軍基地から「武器よさらば」した平和な大学キャンバスにりました。注11。
63年間戦争に直接手を染めなかった日本。尊い犠牲の上に私も平和のもとに生きることができました。しかし戦争責任をあいまいにしてきた日本。戦争のむごさを忘却していく日本。軍事費5兆円の日本。海外で武器を使うことを合法化しようとする日本。今を生きるものの「戦前」責任が問われ始めています。崩れぬ平和のために今の世代が何をすべきか、私らに問われています。

(0~22年在仙台 執筆時72歳 現在79歳 在千葉 高橋晴雄)



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