コール

 

(9) 東京優駿

 とうとうこの日がやってきた。英次や加橋だけでなく、競馬にかかわる人また競馬ファンも楽しみにしていた 特別な日である。
 1番人気は、皐月賞3着ながら、東京コースの長い直線が、この馬の持ち味である末脚が生かせることから メイジライアンがなった。2番人気は、皐月賞馬のハルタイセイである。この馬は、南騎手から平成の天才 ジョッキーと言われた竹(たけ)騎手に乗り変わっていた。3番人気に、アイリスカミカゼである。英次の コメントが新聞紙上で良く書かれたが、母親の血統から2400メートルはもたないと言う見解だろう。
 今回のダービーは、もう1つのイベントが隠されていた。それは、メイジライアンに騎乗する横谷騎手と ハルタイセイに騎乗する竹騎手は2世ジョッキーとして有名である。その2人が、共に人気馬に騎乗するので 2世ジョッキー対決とまで言われていた。
「英次。おい英次」
 どっかで聞き覚えのある声だ。
「えっ!」
 英次は、我に返り、声のする方に顔を向けた。
「どうしたんだ。ぼーっとしていたぞ」
 同期の岡倍は英次のそばにやってきた。
「いろいろなことを思い出していたんだ」
「勝利ジョッキーインタビューの内容でも考えていたんじゃないのか?」
 岡倍は、大レース前なのに、英次をからかう余裕があった。それに対し、英次は終始無言のままだった。 これが、1500勝している騎手と300勝しかしてない騎手との違いなのだろうか。
 係員が発走台に乗り、発走の合図である旗を大きく振った。それと同時に、ウィナーズサークルで構えていた 。陸上自衛隊の吹奏楽部がファンファーレを演奏し始めた。
 演奏に合わせて、ファンは一緒になって拍手し、また、物凄い歓声を上げ、それと同時に、奇数番の馬から ゲートに誘導される。そして、英次とカミカゼもゲートに誘導された。
 なかなかゲートが開かない。この数秒が数分にも数時間にも感じられ、だんだん苛立ちが積もってきた。 英次は、大きく深呼吸をして目を閉じて自分を落ち着かせた。その瞬間。
『出ろー』
 発走の合図が、英次の後ろから聞こえた。それと同時にゲートが開いた。
『第56回日本ダービーのスタートです。各馬一斉にスタートしました。出遅れた馬はこれと言って 1頭もいません。なにが先頭に行くのでしょうか。黄色い帽子アイリスカミカゼが先頭に立ちました。 そして、サハリンペレーなどが続きます』
「いいぞ。カミカゼ」
 英次は、好スタートから1コーナーを回るまでに、一気に先頭に立っていた。
『そして、オレンジの帽子はハルタイセイは5番手の好位置をキープ。そして、赤い帽子メイジライアンは 中段よりやや後方について第1コーナーを回ります』
 英次は、第2コーナーを回った時、やや外へ馬体を持っていった。2ヶ月続いた東京開催で芝コースの内側 はダートコースのように荒れ、カミカゼのスピードが殺されてしまうと判断したからであった。
 そこで、グリーンベルトと呼ばれる、内ラチから3メートルほど離れた、芝生の綺麗なところを走るように 心がけた。
『向正面に差し掛かり、もう1度、先頭から見てみましょう。先頭は、12番高野のアイリスカミカゼ。3馬身 遅れることサハリンペレー。そして、3番手に竹豊騎乗のハルタイセイ。そして、内から20番カムイブシ。 そして、8番エートジョージ15番オオガネタイフウ9番ロングボーイが続きます』
 1000メートル通過が59秒8、ちょっとハイペースである。しかし、カミカゼは軽快に逃げた。
『第3コーナーを回って、高野英次とアイリスカミカゼがまた、他馬を引き離しにかかった。ハルタイセイ は2番手。メイジライアンはまだ中段にいる』
 英次はこの時、コースロスをなくすために、カミカゼの左の手綱を徐々に緩め、内ラチ沿いによせた。
 残り800メートル、つまり勝負所である。ハルタイセイを先頭に後続馬の仕掛けに入ったが、2F続けて 11秒8のラップを刻まれては、差は縮まらなかった。彼等は英次の術中にはまったのである。
『第4コーナーを回って、先頭はアイリスカミカゼ。2番手にハルタイセイとカムイブシ。そして、5馬身 ほど遅れて、4番手にメイジライアン以下が続きます。東京の500メートルの長い直線が待っている』
 英次は手綱を緩めるだけで、手綱をしごいたり、鞭を入れることはしなかった。それは、カミカゼのスピード とスタミナを信じ、坂を登り終えた時か他馬に並ばれた時のどちらかの場合に「GO」サインを出そうと 思っていたからである。
『残り200メートルのハロン棒を過ぎました。アイリスに右鞭が入る』
「頑張れカミカゼ。もう少しだ」
 英次は、そうカミカゼに語り掛けると鞭と手綱を動かした。
『アイリス逃げる。カムイブシが2番手、メイジライアンが大外から飛んできた。しかし、アイリスカミカゼ 。アイリス。アイリスが先頭。メイジライアンが2番手に上がったが届かない。アイリス先頭。アイリスカミカゼ が逃げ切りました。』
 英次は、ゴール板を過ぎたが後、大きく息をするだけで、派手なガッツポーツなどは一切しなかった。
『1着にアイリスカミカゼ。2着にメイジライアン。高野英次、まだまだ若い者には負けてられない。 アイリスカミカゼ、皐月賞の雪辱を見事この日本ダービーではらしました』
 英次はクールダウンの途中、他のジョッキーから「おめでとう」などの言葉を掛けられたが、耳に入ってこなかった。
 他の馬が次々と引き返す中、英次とカミカゼは、向正面入口でただ立ち尽くし空を見上げていた。
「みんなが待っている。そろそろ行こうか」
 英次は、カミカゼに話し掛けると、ゆっくりとダクで引き返してきた。その時である。競馬界にとって 奇跡が起こったのだ。
『タ・カ・ノ。タ・カ・ノ』
 英次とカミカゼを待ちわびたファンが「高野コール」を巻き起こした。英次は、嬉しいような照れくさい ような気分になっていた。そして、ファンに左手を大きく突き上げて答えるのが精一杯だった。この時、 始めてダービーを勝ったのだと確信し、早く1人になって喜びを噛み締めたかった。
 そして、それからカミカゼと英次の姿をターフで見ることは2度となかった。

(10) 幸運の意味

 カミカゼは、レース後に左前足の屈腱炎が分かり、福島県にあるいわき温泉での休養に入っていた。そして、 その2ヶ月後に引退を発表した。
 カミカゼの引退に対し、加橋も担当厩務員の佐藤も寂しくはなかった。元々足元が弱く、そんなに数が使える 物でもなかったとコメントをだしていた。
 英次もカミカゼの引退が決まると騎手を辞め、調教師試験を受けるために、加橋厩舎の調教助手として、頑張る 決心をした。そして、カミカゼの子供がデビューする4年後にみごと調教師に合格した。

 英次の巻き起こした「高野コール」は、いまでこそ大レースのお約束となったが、自然発生したコール は英次だけであり、カミカゼの作った2分25秒3というダービーレコードは未だに破られていない。



お  わ  り 

1996年作 SUGAR F