トランシルヴァニア山脈を越えると景色が変わる


首都ブカレストから古都シギショアラを経由


広がりゆく田園風景の中を北上する列車


マッチ箱のような赤い屋根の駅


ホームの片隅は菜園になっている


洗濯物が干されている


髭を生やした置物のような駅長


手に持った旗が降ろされる


通り過ぎる人生


目指すはウクライナとの国境近く


マラムレシュ


ルーマニア北部、古き良き時代が残るエリアだ


その中心に位置するサプンツァという村まで行く


列車の終点はバイア・マーレ


バスに乗り換え、峠を越えるとシゲットマルマツィエィ


すでにマラムレシュ地方だ


問題はそこから先


「SAPANTUA!」


大きく書いた紙を掲げ、道に立つ


白い雲が流れる


あくびしてパンをかじって2時間


俺の前に錆びた車が止まった









通り過ぎる車に親指を立て続けて2時間


なんとか乗り込んだ後部座席


初めは家族連れの車なのかと思った


半身を前後にズラし合っても肩が触れ合う車内は微妙な余所余所しさ


車は道端に止まり


ひとり降りふたり降り


車を降りた人はドライバーの横に行き、ひと言ふた言


なにか言葉を交わしている


空席が出来るとまた止まり


ひとり乗りふたり乗り


どうやら自分は乗り合いタクシーに拾われたようだ


窮屈な車内は身動きが取れず、金銭のやりとりは確認できなかった


まっすぐに伸びる道


さすらいは地平線を追いかける


いくつかの集落を通り過ぎた


村を貫くメイン・ロードの真中で車は止まった


「サプンツァ」


穏やかな笑顔だけを残し、ドライバーは走り去った


俺の手には差し出したユーロが握られたまま


「ありがとう」を意味する言葉は、まだ覚えていない


サンキューに日本語を重ねた


首都ブカレストを離れてから5日目


サプンツァにやって来た


大きく伸びをする


ひばりがさえずっている









まずは今夜の宿探し


ざっと歩いてみたかぎりサプンツァに宿は一軒


小奇麗なホテルで、食事も此処で食べるしかないようだ


宿泊料金を聞いてみようと声をかけるが応答がない


まあ、分かったところで払える金額ではないだろう


この村では民家に泊めてもらうことにする


メイン・ロードを外れ、畑仕事をしているおばさんに声をかける


大きな荷物を持った外国人


傾げた首と頬に合わせた両手の仕草だけで意図は伝わったようだ


おばさんが指差した方へ更に歩く


バーバ・マリアの家にお世話になることになった


食事も3度用意してもらえる


3世代で暮らす賑やかな家族


バーバがジャガイモを剥き始めた


ストーブの上では鍋が歌っている


温かいのは暖房のおかげだけではないだろう


ヴァイオリンを弾きながら親戚がやって来る


楽器を持ち、歌い、人に酔う









村を歩く


家の前では老女が糸を紡いでいる


羊毛の束を括りつけた棒を左手に持ち、くるくると右手を回しながら糸にしてゆく


談笑する叔母さんたち


頬かむりは既婚女性の証


ブラック&ホワイト


刻まれた年月を被う色彩に何らかの意味はあるのだろうか


ふくらんだロング・スカート


皮をなめして紐を通した靴


うず高い山が近づいてくる


2頭牽きの馬車の上、山のように積まれた麦わら


その上に男がいる


マラムレシュでは馬、牛、ロバが労働力であり移動手段だ


時々尻尾のように振られる長閑な鞭






















































フランティーズ?


イタリアーノ?


どう見てもヨーロピアンではないだろうに


この村で外国を意味するのはフランスでありイタリアのようだ


簡単な英語さえも通じない


熱心に話しかけてくるじいさんがいる


怒っているかのように唾を飛ばす赤ら顔


繰り返される「ウクライナ」という単語だけが唯一理解できた


ウクライナへは、この村から北へ数キロ


距離だけなら近所とも言える近さだ


越境は簡単に出来るのだろうか


じいさんは道路を横切り、民家の敷地に入ってゆく


ついて来いということなのだろう


続いて木の塀をくぐる


雑草が茂った庭


日当たりの良い場所には洗濯物が干されている


その横に無造作に置かれたペンキの剥げたベンチ


短い平均台を2台並べたように細い木で造られている


腰掛けたじいさんが自分の隣をバチバチと叩く


そこに座る俺


小屋に向かって何やら怒鳴るじいさん


すぐさま女の怒鳴り声が答え、赤いジャージ・パンツを穿いた小太りのおばさんが現れる


無造作に括った髪


化粧気のない顔


ささくれ立ったテーブルに、ふたつのショット・グラスが置かれる


グラスには透明な液体が満ちている


民家にしか見えなかったが、酒を出す店なのかもしれない


じいさんはひと息で飲み干し、テーブルにグラスを叩きつける


俺を突き刺す無言の視線


「飲め」という意味なのだろう


ひと息であおる


ウオッカだ


「ウクライナ」


満足そうに頷いたじいさん


二杯目は俺の奢りだ


運んできたおばさんの尻をじいさんが撫でる


共に変わらない表情


何ごとも無かったように無言で立ち去るおばさん


繰り返されたやりとりなのだろう


俺に向かってウインクするじいさん


「ウクライナ!」











目を開けると抜けるような青空が見えた


視界いっぱいに広がったブルーが鋭角的に引き裂かれている


天を突き刺すように伸びる槍


その先端には小さな十字架


草むらに寝転び教会を見ていた


いつしか眠ってしまったようだ


それにしても見事なフォルムだ


全てが木で造られているなんて


青空に雲が流れる


時が止まる


そびえたつ教会が、自分に向かって来るような錯覚を覚えた


地球が廻っていると思った


風に乗った綿帽子が通り過ぎた
























きれいなものが好きでよく働きました


私の織物は村で一番でした


子供達はよく面倒をみてくれました


私は79歳まで生きました


木に彫られた墓標が立ち並ぶ


青く塗られた板には故人の人生がカラフルに描かれている


「嘆き悲しむよりも、楽しく思い出して欲しい」


スタンさんが墓標に描いた思い


1935年から現在まで受け継がれている


私は絵描きでした


たくさんの絵を描いて人々を楽しませました


私は小川の近くに住んでいました


今は別のところにいますが、皆さんも同じところに来ますよ


永遠が口を開ける


生と死が溶け合う


人生が肯定的に刻まれる
















労働を終えた家族を乗せた馬車


長いシルエットを映し出す赤土の道


淡い夕陽が家路を包む



山に囲まれた小さな村


夕餉の煙が上る


灯り始めた家々の明かりは少ない


それだけ電気が貴重なのだ


日々の暮らしに映し出される心


ささやかであることの偉大さ


外気は冷えてゆくのに温かさを覚える


麦わら帽を被った影が近づいてくる


ひとり歩く老婆だった


凛と伸びた背筋


担いだ鍬


夕方は、いつの間にか夜へと変化を遂げている


風景は黒く塗りつぶされてゆく


人間の時間は終わりだ


家に帰ろう


マラムレシュの我が家へと戻る


食卓を囲む家族


パンとスープ


足元に丸まった猫


赤レンガに守られた小さな団欒


1歩外は闇だ


闇が支配して世界は調和する


漆黒のブランケットに包まれた命


闇の中でやすらぎ、輝きを取り戻す


静寂は深まり、星空は冴えわたる


大地は冷やされてゆく


朝には盛大に霧が発生する


しっとりと濡れた大地に老婆が鍬を入れる











彼方から吹いてくる風


雲をかきわけて、あふれだす太陽


季節ごとに移ろう花の色のように


国境を越えて


ここまで来た


過ぎた記憶の中の夕焼け


思い描く未来の朝焼け


食卓の上で光と闇が踊る


キッチンの影で偶然と必然が戯れる


今日も俺は空の下にいた


あなたの上にも同じ空があった


その事実だけを抱きしめて


明日へ










ひくい林を抜ける


そこに潜んだ小さな闇を抜けるたび


天国のような風景が広がる



永遠が口を開ける


永遠は精神の中に


そして暮らしの中に存在する


誰もが1日の孤独を費やし


今日という日の墓標を立てる


旅は人生のひとつの選択ではなく


人生そのものだ