寺さんに出会ったのは2004年4月27日
メキシコ南部の町、サンクリストバル・デ・ラスカサスでのこと
その後、南米を巡るルートが重なり数々の町で会った
亡くなったのを知ったのは俺がイランのエスファハーンにいる時だった
2006年1月17日に旅先であるミャンマーにて死去
以下の文章は寺さんの旅の様子を伝えるため
御子息に宛てて書いたメールである
寺さんに初めて会ったのはメキシコのサンクリストバル・デ・ラスカサスでした。
2004年4月27日、自分が泊まっていたカサカサに寺さんがやって来ました。
落ち着いた大人の旅人。
宿はドミトリーがメインなのですが寺さんは唯一ある個室を選びました。
この時のことで良く覚えているのは、やはり麻雀です。
夕飯を終えると、さてという感じで始まります。
寺さんは少しだけ浮いたり沈んだりと2着になることが多かったです。
収支もゼロに近く「自分は接待麻雀ですから」と良く言っていました。
そんな様子から堅実な打ち方をするのかなと思っていましたが、
自分が面子に入らなかった時、後ろから覗いてみると、
実はかなりアグレッシブな打ち方をしていました。
中南米での特別ルール「中南米(北)」を上がりかけたこともありました
(「中」「南」「北」を集めると役満というかなり強引なもの)
10日ほどのめり込んで寺さんは少しだけのマイナス。
自分はガッツリ勝たせていただきました。
朝食はインスタント(袋)ラーメンを毎日のように作っていました。
卵をひとつ。
塩分を取り過ぎないようにと付属の粉末スープは一切使っていませんでした。
ヨーロッパでアパートを借りていた時も毎日ラーメンだったと言っていました。
寺さんは卵を1ダースまとめ買いしていて切らしたり買い忘れた人に良く譲っていました。
台所には自炊をするためのそれぞれの食材を置くスペースがあるのですが、
そのうち寺さんの場所には「寺商店」と看板が出ました。
夕飯時はみんなで作るシェア飯になることが多かったのですが、
寺さんは米炊きの水加減や火加減をチェックしていたように記憶してます。
そうそうラジオを持っていてそれで22時半から演歌番組を聞くのが日課だったようです。
NHKは世界各国ほとんどの国で受信することが出来て、ラジオは旅に欠かせないと言っていました。
もうすぐ日本に帰るまさくんという旅人がカサカサに泊まってる人の集合写真を撮った事があって、
寺さんは自分はカメラを持ってないので、その写真を(まさくんが)日本に戻ったら、
(日本にいる)ばあちゃん(確かそのように呼んでいたような。御母さんのことですよね)に、
送ってもらえないかと頼んでいました。
自分がカサカサにいたのは2004年の4月20日から5月21日です。
途中サパティスタ自治区に数日間(5月11日〜14日)行ったのですが、
寺さんは「麻雀の面子がいなくなっちゃったし」と言ってその間にカサカサを発ったと思います。
次に会ったのは2004年6月10日、グアテマラのアンティグア、ペンション田代でした。
サンクリにいた頃から旅空メールが届くようになり、寺さんの居る位置はだいたい把握していました。
寺さんは先に着いていてやはり個室に泊まっていました。
着いてすぐに寺さんの部屋を訪ねました。
ペンション田代は様々なタイプの部屋があるのですが、寺さんは結構良い部屋に泊まっていました。
部屋の奥に窓がありその前に机と椅子がありました。
スペイン語はどうですかみたいな話をしたと思います。
お互いにこれから南米に下りてゆくので、しばらくは慣れないスペイン語圏の旅が続くのです。
確か毎朝30分スペイン語を勉強してると話していたと思います。
寺さんは良くお勉強(と自分で言っていました)をしていました。
スペイン語だけじゃなくこれから旅する場所についてもかなり綿密に調べていました。
ロンリープラネットや地球の歩き方などのガイドブック、
それから個人のサイト等からも様々な情報を引っ張っていました。
それを机に向かいあれこれ検討するのが最高なのだと。
アンティグアにいる時も到着は半年先くらいになるパタゴニアのバス移動について調べていて
「寺さんそれ変ですよ」と言ったら「でもこれが最高に楽しいんですよね」と言っていました。
自分と同じ日にゆりちゃんという女性が田代に着いて、
寺さんはメキシコで会ったことがあったみたいで再会を喜んでいました。
「ゆりのようなゆりちゃん」と呟いていました。
「そういえば地球もてらさんですね」と言ったら嬉しそうな顔をしていたことも覚えています。
自分はアンティグアに着く前に既に南米に飛ぶチケットを購入していたので、
4日間滞在して田代を発ちました。
寺さんは宿の前に出てきて見送ってくれました。
カサカサにいた時は宿全体がアットホームな感じで、
旅立つ人がいると皆で宿の前に出て見送っていたのですが、寺さんはいつも宿の中にいました。
こういうことにクールなのか、あるいは別れが好きじゃないのかと思っていたのと、
この時、自分の出発に合わせて宿で待っていてくれたようだったので、
寺さんが見送ってくれたことは驚くと共にとても嬉しかったです。
寺さんとチャッピーさんと理恵子ちゃん。
田代の前でこの3人が自分の出発を待って手を振ってくれた様子は、
ハッキリ記憶に焼きついています。
(寺さんは寺さんらしく手は振らずに見送ってくれました)
チャッピーさんは半分グアテマラに住んでいるような人で日本と行ったり来たり、
湖畔で小さな宿をやりながら週末だけのレストランを開いたり、
公園で観光客相手に刺青を入れたりしている人です。
理恵子ちゃんは自分を見つめ直すための初海外でチャッピーさんの所に長期滞在していました。
田代はメインストリートから細い道を入ったところにあるので、
空港へ向かう車はその細い道を頭から入ってきました。
そして俺をピックアップするとバックで少しずつ遠ざかりました。
フロント・ガラス越しに小さくなってゆく見送ってくれた3人。
これから自分は旅の中でたくさんの美しい風景に出会うだろうけれども、
今、目にしているこの風景こそ最高に贅沢な風景だなと思ったことを覚えています。
寺さんは田代をいつ発つかは決めていないようでした。
自分が買った南米へのエアチケットはグアテマラ・シティーからボゴタ(コロンビア)。
ボゴタ着が21時過ぎ、宿に着くのは23時近くになります。
治安の良くない都市であるだけに、そのことが気になっていました。
ボゴタに着いたらフライト、そして宿までの様子をメールで送って下さいと寺さんに言われました。
結局、寺さんも同じ便で南米に入り同じルートでアンデス南下を始めました。
その次に寺さんに会ったのは同じ年の8月28日です。
クスコの宿、ペンション八幡。
自分はいくつかの祭を見るため、クスコを素通りしてボリビアを巡り、
再度ペルーに戻ってきたのです。
寺さんは「そろそろ着く頃かと思っていましたよ」と迎えてくれました。
こちらのサイトを時々覗いてくれているようでした。
自分は朝早く起きます。
クスコにいる時も5時から6時くらいには起きていました。
八幡にはNHKが見れるテレビを置いたちょっとしたくつろぎスペースがあります。
朝、自分のパソコンを持ってそこへ行くと、寺さんがいたりいなかったり。
寺さんも朝が早かったのです。
遅い時でも6時半には起きて来ました。
この時は、ねもっちゃんという38歳のチャリダーがいて、
彼を含めた3人が、早朝の定番メンバーでした(自分は当時37歳)
「やかんにお湯ありますよ」などと声を掛け合ってそれぞれにお茶を入れて、
起きぬけのぼおーっとした頭で日本のニュースや天気予報を眺めていました。
ちょうどオリンピックをやっている時でもありました。
10時からはちゅらさんの再放送をやっていて、
この頃になると寝坊の旅人も起き出してきて皆で楽しみに見ていました。
特に誰もテレビを見ていない時は、
中南米のMTVとも言えるチャンネルをBGM代わりに流していました。
このチャンネルで流れるのは中南米で活躍するミュージシャンがほとんどで、
歌われる曲もスペイン語ばかりです。
これを見ながら「俺はコラソン(心)という言葉が好きです」と言ったら、
寺さんは「わたしはエスペランサ(希望)が好きですね」と言いました。
「ああ、それもすごく良いですね」みたいな会話を交わしたのを覚えています。
やはり朝食には(時には夕食にも)インスタント(袋)麺をよく作っていました。
時々、寺商店から卵を購入しました。
ある時まだみんな寝静まっている早朝に下半身にバスタオルを巻いた格好で、
うろうろと起き出してきたので「寺さん、その格好は・・・」と言うと
「ああ、見られちゃいましたかあ」と言いました。
トイレは紙を使わずインド式で済ませているとのこと。
「一度やってみたら気持ち良くて」と言っていました。
自分が抱く寺さんのイメージと離れていたので覚えていた話です。
町から八幡に戻るには路地を歩くのですが、
「あそこはしょんべん臭くて通りたくないんですよね」とわざわざ遠回りしていたくらい。
寺さんはずいぶん潔癖なところがあるのだなと思っていたので。
(カサカサに蝿が多いのもさかんに嫌がっていました)
「旅した中で一番面白かったのは?」の質問にはバラナシと答えていました。
好きな場所という意味ではなく、興味深いといったニュアンスだと思います。
インドを見るには最低半年かかる。
インドは好きだけど、インド人は嫌いだとも言っていました。
普段は温和な寺さんでしたが、人や宿に対する好き嫌いはハッキリしていて、
時々それが激しい言葉で現れることもありました。
クスコの後はペルーの海側に下りてチリに入ると言っていました。
自分はチチカカ湖やボリビアが良かったのでその事を話すと、
標高の高い所へは行けないのだということでした。
以前チベットの高所で倒れ、それ以来ドクターストップがかかっていて、
標高3000m以上の所には行けないのだとのこと。
クスコに来たのも思い切った冒険で、途中の高所を避けるため飛行機で飛んで来たそうです。
南米は30歳前後の比較的年齢の高い旅人が多いのですが、この時は夏休みのタイミングで、
マチュピチュへのベースになるクスコには多くの大学生もいました。
寺さんは自分のことはあまり話さないので、代わりに、
「この人は命をかけて旅してるんだ」と紹介していたのを覚えています。
ある若者に「日本では何をしていたのですか」と聞かれた寺さんは、
返事を渋っていて「いやあ不動産関係を・・・」などと言っていました。
自分は名古屋で建築関係の出版をしていたと聞いていました。
具体的には覚えていませんが、他の旅人から間接的に聞く寺さんの経歴には様々なものがあって、
(そうだ、不動産屋の社長とか、新聞記者とか)
聞かれる度に適当なことを言って楽しんでいたのじゃないかと思います。
自分は結局、寺さんの職業も年齢も知りません。
まあ、それで良いのでしょう。
訃報に当たって知った御子息の存在には、とても驚きました。
自分がクスコを発ったのが9月14日。
寺さんの出発はまだ先のようでした。
しばらくして寺さんからメールが来ました。
旅空メールとは別でした。
(そうそう、旅空メールは事前に手書きの原稿を作って、それをネット屋で打ち込んでるとのこと)
アレキパで盗難にあい全ての荷物(手荷物&貴重品以外)を失ったというショッキングな内容でした。
次に会ったのはアルゼンチンのブエノスアイレスです。
2004年11月13日、日本旅館。
寺さんは既に1ヶ月くらい滞在していて、麻雀三昧とのことでした。
アレキパで盗難にあってからまっすぐここに来たのだそうです。
「わたしの旅はもう終わりました」と言っていました。
この日の夕飯は、寺さんがウドンを作って御馳走してくれました。
嬉しく美味しかったです。
この時聞いた寺さんの今後の予定は、カラファテまで飛んでから、
ウシュアイアに1ヶ月くらい滞在して年越し(食事が美味そうで麻雀も出来るからとのこと)
ブエノスアイレスに戻って一月末に帰国というような感じだったと思います。
この時は寺さんの方がひと足早くブエノスを離れました。
自分もすぐにウシュアイアに飛んでカラファテへ上がる予定でしたので、
また何処かで会うでしょう、そしたらまた麻雀やりましょうという感じで、
特別な別れはしませんでした。
それが寺さんに会った最後でした。
一旦、日本に戻った寺さんがアジアを旅している
そんな風の便りを聞いたのは自分が中国にいる時だった
またどこかで会えるとばかり思っていた
寺さんは今でも旅を続けているような気がしてならない
どこかの町のどこかの安宿
「金子さん、また会いましたね」
なんて言いながら寺さんがひょっこり現れるのではないか
そんな気がしてならないのだ・・・
元気ですか
寺さん
今はどこを旅していますか
■「旅空メール」:http:/blog.livedoor.jp/opu740/archives/cat_50020262.html
寺さんが綴った「旅空メール」が読める御子息のブログ