仙台の秋保温泉から大東町に向かう。
以前、農家にホームステイさせてもらった町だ。
あれから7年が経った。
年の離れた友人でもあり、親戚でもある人々が住む。
元気にしているだろうか。
ひさびさに会える。
自然に心が嬉しくなってゆくのが分かる。
一関で国道4号線から284号線へ。
千厩町から北へ向かう農道を走る。
農村風景が続く。
甚三さんの家は、大東町會慶の高台にある。
農作業をしている人に道を聞くたび、少しずつ近づいてゆく。
最後の坂を2速で上がった。
振り返ると、一日の終わりに毎日見ていた風景があった。
甚三さんは煙草畑にいるようだ。
荷物を降ろし、書置きを残し、まずは豊一さんの家へ挨拶に行く。
7年前、豊一さん宅にも三日間、お世話になった。
途中、車で走る豊一さんを見つけ、隣に乗せてもらう。
いつも笑っている細い目が相変わらずだ。
台所の光子さん(奥さん)に挨拶をして居間に座る。
国人さん(じんつぁま)と節子さん(ばんさま)の姿も見える。
みんな、元気そうだ。
7年前、48歳だった豊一さんは55歳になった。
お互いの近況を話す。
農業に賭ける情熱が相変わらずだ。
豊一さんは、いろいろな方法を模索し、研究を重ねながら、農業をやっている。
「生まれ変わったら、今度は、どこでやろうかなあ」
農業をやることは、始めから決まっているようだ。
「農業を本気でやるなら、家も土地も嫁も用意する」
7年前と同じことも言われた。
大東町の将来や日本の農業についての理想を追求しながら
誇りを持って農業に就く。
そして、同時に家庭人としてもキチンとしている。
7年前と変わらない豊一さんがいた。
光子さんと農作業の合間に飲んだコーヒー。
お風呂の後のマッサージ。
リンゴの剥き方を教えてくれた節子さん。
「住んでる所に印を付けて」と日本地図を出してきた国人さん。
いろいろな事を思い出した。
「もうすぐ、御飯が出来るよ」
甚三さんから電話が入った。
「会えて嬉しかったです。お元気で」
夕焼けの坂道を、甚三さんの家へ戻る。
牛舎に気配があったので入ってみる。
栄子さん(奥さん)が餌をあげていた。
「おひさしぶりです」
相変わらずだ。元気そうだ。
「かねふじは、もういないんだよ」
7年前には、「かねふじ」と言う母牛がいた。
子牛の名前を尋ねると「かねふじ2号」と答えが返ってきた。
名前を付けると愛情が湧くので、敢えて付けないのだそうだ。
子牛は10ヶ月経つとセリにかけるからだ。
「この母牛は、ゆきひめ」
子牛は、やはり「ゆきひめ2号」だった。
ちょうど明日がセリの日なのだそうだ。
餌やりを手伝おうとすると、「いいから、部屋で休んでて」と
7年前と同じように言われた。
牛舎の前には甚三さんがいた。
「おひさしぶりです。元気そうで」
ちょっと年をとったかなと思ったけど、顔色が良く元気そうだ。
当時、61歳だった甚三さんは68歳になった。
「100まで生きるつもりでいますから」
夕飯の席で、日本酒を飲みながら、甚三さんは言った。
お互いの近況や今年の作物の事を話し、自然と7年前の事へと話題は移った。
「あの時は、金子さんのお陰で牧場に入れて、ホント良かったなあ」
大東町にはシンボリ牧場という競走馬の牧場がある。
検疫の関係で一般の人は立ち入ることが出来ない。
近くに行っても、なかなか馬の姿を見ることも出来ないのだそうだ。
自分が競馬を好きなことを話すと、甚三さんが役場の人に
役場の人が牧場の人に頼んでくれて、見学させてもらえる事になった。
「金子さんのおかげで、貴重な経験をさせてもらえて。ありがとう」
甚三さんは、7年前も、今回も、そう繰り返した。
「甚三さんが頼んでくれたからじゃないですか。感謝するのはこちらですよ」
こちらも同じ言葉を繰り返した。
「金子さん、これも食べて」
栄子さんは、7年前、たくさん食べた茄子の炒め物を覚えていてくれた。
何度もおかわりした、すいとんも用意していてくれた。
「甚三さん、そろそろ、ねふかけじゃないですか」
7年前に覚えた、方言(ねふかけ=居眠り)を使った。
普段あまり表情を変えない栄子さんが笑った。
ほどなく、甚三さんが居眠りを始めた。
無理もない。
あれだけ、働いているんだから。
翌日、「ゆきひめ2号」は岐阜に買われていった。
別れの朝、母牛に向かって悲しい声で鳴き続けた。
ゴトゴト揺られて行ってしまった。
大東町では、甚三さんの家に2日泊めてもらった。
一緒に温泉に入り、一緒にお酒を飲んだ。
みんな、元気で、相変わらずだったのが、何より嬉しかった。
「ゆきひめ2号」と同じ場所から、次の町に出発した。
バックミラーの甚三さんと栄子さんが小さくなってゆく。
「親戚の家だと思って、また来てください」
また必ずここへ帰ってきたい。
優しい人たちに会うために。
2003年8月7日 大東町