ああ、海鳥の声が聞こえないからだ。
先ほどから何か足りないと思っていた。
昨日まで海沿いの町に滞在していたので、そう感じたのだ。
A.M.5:00。
鳴る前に目覚まし時計を止める。
まずは今日の天気。
寝ている人達を起こさないように玄関を開ける。
コンクリートが黒くしっとりと濡れている。
雨が降ったのだろうか、霧で濡れているだけなのだろうか。
ぶ厚い雲がかかっている。
予報では明日から雨。
今日のうちに釧路まで辿り着きたい。
納沙布岬を廻ると250キロくらいの移動だろうか。
早めに出発しよう。
荷物にカバーをかけ、防寒用に雨合羽を着る。
走り出すと濃厚な霧が、雨のように水滴となって現れる。
左手に持った手拭いでメガネを拭きながら走る。
気温は震え上がるほど低い。
短い夏だった。
30キロほど走った時点でエンジンが止まり、予備タンクを開ける。
見つかったガソリンスタンドは朝7時半からの営業。
ここで給油しておかないと完全にガス欠だ。
近くの駅で開くのを待つ。
ちいさな無人駅。
缶コーヒーで暖を取る。
やってきた掃除のおばちゃんに挨拶。
天気の話。
学生服の男の子が、待合室でメロンパンをかじる。
ほどなく制服の女の子がやってきて、友人の噂話が始まる。
A.M.7:32。
単線のホームに一両編成の列車が到着する。
誰に定期を見せる訳でもなく乗り込む二人。
列車はゴトンと根室方面の霧に消える。
毎日、繰り返される風景なのだろう。
タンクを満タンにして東に向かう。
寒さに痺れていた手の感覚が無くなった。
相変わらず視界は悪い。
半島に差し掛かる。
ちいさな入り江に、ちいさな漁村。
風力発電の風車が見えている。
ポツンポツンとあった家が無くなる。
おだやかな丘陵地に馬だけがいる。
流れが大地に曲線を刻む。
根室市街から約22キロで納沙布岬。
ゆるやかなカーブと直線を繰り返す。
東の最先端に着いた。
ああ、こんなにも近いんだ。
すぐ目の前に水晶島(歯舞群島)が見える。
島の周辺には、漁船が浮かんでいる。
あんな泳いで渡れそうな距離にロシアがあるのか。
(ロシアと言い切るのは微妙だが)
望遠鏡で覗くと、こちら側と何ら変わりのない、緑の丘陵地が広がっていた。
今まで様々な場所から北方四島を見てきたが
こんなリアルな感覚を持って北方領土を感じたことは無かった。
最北端を示す碑がポツンと建っていただけの宗谷岬。
納沙布岬には領土変換を求める、たくさんの碑やモニュメントが立ち並ぶ。
ここにも歴史の傷跡が残る。
揺れている炎は、いち早く変換された沖縄から送られた。
最南端の波照間島で自然採火され、全都府県を経て運ばれてきた。
北方領土が変換されるまで灯される。
立派な資料館が建っている。
様々な事実と自らの無知を知る。
今まで想像もしたことのなかった人々の生活があった。
領土をロシアが占領してから58年。
あの地で生まれ生活するロシア人も多くいるだろう。
残された日本人の墓を、どんな気持ちで見るのだろう。
流れてゆく年月は、問題を複雑にする。
相互理解は国境を超えられるだろうか。
足元には盛りを過ぎたハマナスが咲いている。
夏の始めには、納沙布岬いっぱいに花を咲かせているのだろう。
目の前の島々も同じように、たくさんの花に覆われるに違いない。
海鳥が水晶島に向かって、飛んでいった。
逆風に戻されそうになりながら、飛んでいった。
2003年8月28日 納沙布岬