3月27日。


キューバに着いた翌日、石田さんに会った。


彼とはサイトを通じて知り合った。


会った回数は片手で足りるが、濃い付き合いをさせていただいている。



握手、乾杯。


セルベッサ(ビール)を飲み、お互いの近況を話す。


石田さんは自分と同じ36歳。


キューバのアートスクールでダンスの勉強をするため、昨年、会社を辞めた。



彼はキューバでの日々を、自分の人生を生き直しているようだと語った。


やっと言葉が話せるようになって


何を食べて良いのか分かるようになって


周囲が見えるようになって


自分のいる社会が見えてきて


自分が何をおもしろいと感じ、何をしてゆけば良いのか分かってきた。


今は中学生くらいなのだそうだ。


そして、充実していると。


きっと時間が経てば楽しかったと思うのだろうなと。



石田さんはキューバに来るまで海外生活も海外旅行の経験もない。


スペイン語(キューバでの言葉)も英語も全く話せなかった。


その彼が、知り合いのいない国にやってきて


住処を見つけアート・スクールに通っている。(この学校は日本人初)


もの凄い勇気だと思う。


キューバに来てから、諸々の手続きなどに1ヵ月半かかり、


レッスンを受け始めてから約3ヶ月になる。


はっきりと言葉にはしないが、様々な苦労があったのだろう。


今ではスペイン語を使って、キューバ人と堂々と渉りあっている。




暗くなってナナちゃんが合流した。


彼女とは数日前にメキシコの宿で出会ったばかりだ。


そして、自分より2日早くキューバ入りしていた。


彼女はアメリカのハイスクールを退学になって以来の長い旅暮らし。


途中、アムステルダムに2年暮らしたり、日本で働いたりもしていたらしい。


今回は、腰を落ち着けてギターを習うためキューバにやって来たのだ。




石田さんとナナちゃんを引き合わせた。


美しく夜が訪れた。


モヒートで乾杯した。


ゆるやかにダンソンが流れていた。









この日、始めて出会った二人は踊った。


キューバのダンスは基本的にペア・ダンスだ。


相手を思いやることなしには成立しないダンス。


手を繋ぎ一緒に笑顔になるためのダンス。


時には悲しみを分かち合い、明日を生きるためのダンスだ。


石田さんのリードで二人は温かいダンスを見せてくれた。




夜も更け、カフェに移動した。


天井のファンが闇とざわめきをかきまぜていた。


それぞれの思いが溢れていた。


ぞれぞれの思いが、きらきらと交差していた。


いろいろな話をした。



ナナちゃんの話が印象に残っている。


出発前に、彼女の母親は、こんな言葉をかけてくれたそうである。



「たとえお金やパスポートを盗られることがあっても


本当に大事なものは、あなたの心の中にあって


それは、どんなことがあっても、誰にも盗ることは出来ないのだから


安心して自分が思う通りに旅をしてきなさい」



良いお母さんだなあと思った。


彼女の母親は満州で終戦を向かえ、命からがら引き上げてきたそうだ。


九州に上陸してから、身内を頼り、静岡まで歩いた。


その途中で妹と弟を亡くした。


その当時、使っていたボロボロの防空頭巾を、今でも大切に持っているそうだ。


言葉の根底には、その時の経験があるのではないかと、ナナちゃんは言っていた。









同じ日の昼間、石田さんからも同じような話を聞いていた。


彼はキューバに来てから3度、泥棒に入られている。



「でも、自分が一番大切なのは友達だなと思って、


そしたら、いくら泥棒でも盗られることはないから


どうってことないやと思うようになったんです」



彼の言う友達の中には、日本に居るパートナーも含まれているだろう。


石田さんと共通な友人達、自分にとっても大切な友人達を思い出した。


誰もが、かけがえのない花を心に持って日々を生き旅をしている。


その愛おしくも切ない摂理。









3月31日。


石田さんのレッスンを見学させてもらえることになった。


ナナちゃんを誘いマキナ(乗り合いタクシー)で向かった。


石田さんが通う学校は、ナナちゃんがギターを習う候補地でもあったのだ。



一端、石田さんの宿舎に荷物を置かせてもらった。


学校への道を三人で歩いた。


様々な思いを抱き、石田さんが歩いて来たであろう道。


大きなガジュマルが枝を広げ、ブーゲンビリアが輝いていた。



30分ほどで学校に着いた。


石田さんは各国から集まった学生達と、キューバ流の挨拶を交わしスペイン語で話した。


見せてもらった校舎は奇妙なレンガ造りの建物だった。


もともとは何の目的で作られたのだろうか。


丸くなった外周が廊下になっていて、中心に向かって部屋が作られている。


地震か戦争の直後を思わせるくらいボロボロで、半分は崩れたままだ。



その中で学生達が思い思いに楽器の練習をしていた。


今まで型にはまった教育に馴染めず苦労してきたナナちゃんは


インスピレーションが湧きそうだと、この環境が気に入ったようだ。



しかし、何時になっても先生が来ない。


石田さんはストレッチをしながら待った。


困ったことに先生が授業を無断欠勤することは良くあるようで


30分経っても現れなかった場合は授業が無くなるのだそうだ。


さすがキューバだ。


案の定、この日も来なかった。


しかし、予定には無かった別のダンスの先生が現れ、


急遽アフロ・キューバンのレッスンが始まった。





パーカッシヴなリズムが鳴り響く。


余分な動きを削ぎ落としたステップを少しづつ踏んでゆく。


すぐに汗が滴り落ちる。


地味に見えるが相当な体力を使う動きだ。


言葉による指導は基本的に無く、先生の動きを反復してゆく。


ダンスは徐々に激しさを増してゆく。



















石田さんが険しい表情で、人さし指を激しく左右に振る。


自分の動きに納得出来ないようだ。


交互に、そして一緒に、ダンスは激しく続く。


どちらが先に倒れるのかバトルしているかのようだ。


快心の踊りを見せ、石田さんが肩で大きく息をする。


規定の2時間の授業は既に過ぎている。


「アイ・キル・ユー」


先生がニヤリと呟きレッスンは続いた。



ランチを挟んでフォルクローレ(ダンス)のレッスンが更に1時間あった。


あんな激しい動きを、よく続けられるものだ。


自分なら5分ともたないだろう。




レッスンは、まだまだ続く。


この学校のカリキュラムは一ヶ月ごとに組み直すことが出来るそうだ。


石田さんは最近になって歌とギターのレッスンも始めた。


ダンスだけでなくキューバの音楽全体を捉えたいというふうに


気持ちが変わってきたのだそうだ。



彼は歌もギターも全くの素人だ。


世界各国からプロの音楽家を目指す者達が集まるアート・スクール。


そんな環境の中で、まだ何も出来ないに等しい彼は、実に堂々としている。









ギターと歌のレッスンは、それぞれ、音あわせ・発声練習のレベルで終わった。


しかし、1時間の中で石田さんがフラットな状態で


たくさんのことを吸収しているのが良く伝わってきた。




カフェで休憩して、この日、最後のレッスンに向かう。


場所を移動してスペイン語が2時間。


これはアートスクールとは別のプライベート・レッスンだ。


教えてくれるのは小学校の先生で、放課後の教室にて行われている。



黒板を前にして、石田さんの横に座る。


懐かしい感覚だ。


英語も日本語も一切無しの授業が始まる。









先生の質問に、石田さんはスペイン語で答え、スペイン語で質問する。


凄いなあ。


何かの活用らしきことをやってるのだが、さっぱり分からない。


授業についていけないながらも、この時間内に少しでも覚えようと、


自分のスペイン語の本を開くが、結局、居眠りをしてしまう。


こんなこと、学生時代にも良くあったよ。




アフロ・キューバン×2、フォルクローレ、ギター、歌、スペイン語×2。


5科目、7時間強の長い授業が終わった。



石田さんのレッスンは想像を超えた濃厚さだった。


自分だったら間違いなく消化不良を起こすであろう量と質だった。


何よりも素晴らしいのが、石田さんの挑戦してゆく姿勢だ。


ハッキリと輪郭を持った勇気がそこに存在していた。


勇気こそが、光に近づくための重要なエレメントである。











4月9日。


翌日の朝にはキューバを離れる。


ナナちゃん、石田さん、それぞれに会った。



ナナちゃんは石田さんと同じ学校の生徒になっていた。


レッスンは既に4日前から始まっていた。


意志だけを持ってキューバに来て、約10日後には現実となっている。


石田さんが1ヵ月半かかったこととキューバ時間を思うと驚異だ。


そのスピードに驚くと共に、彼女には偶然を必然に変えてゆく力を感じる。


石田さんのサポートもあり、ステューデント・ビザも既に獲得した。


これで一年間はキューバで学べることになった。


ランチを共にし、散歩をした。


出会えた事とお互いの旅を祝福した。


「また、何処かで」


オビスポ通りで別れた。




石田さんとはハバナ旧市街が見下ろせる屋上でビールを飲んだ。


忙しい授業の合間に時間を作ってくれて、キューバで彼に会うのは実に4度目だ。


吹き抜ける夕方の風に、ザラッとした太陽の粒子が溶けていた。


マティードが出してくれたツマミが抜群に美味かった。


思いはそれぞれだった。


マレコン通りに行き、最後の波音を聞いた。


遠くで雷が光っていた。


「キューバに居ながら考えるのは日本のことなんですよね」


石田さんが呟いた。


0時を廻った。


「じゃ、次は日本で」





この日、ナナちゃんからは出発の前日に父親が癌であることが判明したことを聞いた。


「自分の心が決めた旅なんだから行くべきだ。俺は死なない」


行こうか迷った彼女に、父親はそう言ったそうである。



この旅に対する彼女の思いは相当なものがあるだろう。


石田さんのそれも彼を見ていると痛いほど伝わってくる。


そして、俺の旅。



キューバで交差したそれぞれの旅。


語り合った時間。


見せ合った時間。


一緒に過ごした時間。


それらは、それぞれの旅の途中で、また別の意味を持って立ち上がってくるように思う。


bueno viaje !















        2004年4月9日 ハバナ