バスの出発を待っていた。


腰掛けたベンチの隣におばちゃんが立った。


「オラ、ブエン・ディア」


細く可愛らしい声で挨拶が返ってきた。


鼻の上に眼鏡がちょこんとのっている。


自分の母親と同じくらいの年齢だろうか。


「おばちゃん、ここ座る?」


「アシエント、アシエント(いいの、いいの、座って、座って)」


ついつい日本語で言ったのだが、そのまま伝わったみたいだ。


おばちゃんは自分が置いた荷物を動かし、隣に座った。


新聞売りが行きかう。


1面に大きく載ったブッシュ大統領の写真に目が行く。


俺の視線に気がついたのだろう。


足を引きずった少年が近づいて来て、俺に新聞紙を差し出す。


「スペイン語は読めないんだよ。ありがとう」


立ち去る少年からも「ありがとう」と笑顔が返ってきた。


隣のおばちゃんが、すっと立ち上がった。


そこに赤ちゃんを抱いた若いお母さんが座る。


ああ、気がつかなかったよ。


良いなあ。アルゼンチン。


「おばちゃん、ここ、どうぞ」


遅ればせながら立ち上がり、出発直前に行こうと思っていたトイレに向かった。


そよ風が吹くように席を譲る初老のおばちゃん。


ありがとうと笑顔の交換。


いくつか抱いていたアルゼンチンの良くない印象が何処かへ消えた。


昨日知らなかった場所が、大切な場所になってゆく。


ただ行ってみるということが旅の贅沢であり豊かさだ。


道が輝いていた。







アルゼンチン北部の小さな町をローカル・バスで廻る。


まずはサルタからカファジャテ。


だんだんと町並みが消える。


郊外らしい牧草地が続く。


左右に揺れながらデコボコ道を上がってゆく。


ゴツゴツした岩山が見えてくる。


のろのろバスで約4時間。


カファジャテ。




教えてもらった方向に歩いてゆくが、宿らしき建物は見えてこない。


「ドンデ・ホステル?」


「ノー・ノー」


声をかけた瞬間に言われた。


おいおいおい。


その様子を見ていた男が、ゆっくりと近づいてきた。


彼を見た瞬間に思った。


年の離れた友人にそっくりじゃないか。


50代、メガネ、口ひげ、上下オレンジ色の服、酔っ払い。


握手が痛いほど強い。


「トゥー・ミニット(2分、待ってくれ)」


彼は道端のテーブルで残ったワインを飲み始めた。


「俺はネルソン。名前は?」


「テツ、ハポネスだ」


「ケ・ケ・ケッ・・・」


中南米の人々にとって「テツ」の発音は難しいようなのだが、ここまで言えないのも見事だった。


ネルソンはチリ人で10年ほど前、この町に来たそうだ。


ゆらゆらと歩き出す。


俺以上に無茶苦茶な英語をバリトンで話し、全く臆する様子もない。


彼が世界の中心で、彼が世界のルールで、彼が世界の言葉だ。


ますます、自分の友人に姿が重なる。


赤い革ジャンを着てドゥカティに乗ったドン・キホーテ。


永遠の不良ジャズマン。


「で、名前は?ああ、そうだ。ケッ・ケッ・ケッ・・・」


ネルソンは道行く人ひとりひとりに声をかける。


「彼は、ハポネスのアミーゴ、名前はケッ・ケッ・ケッ・・・日本語はむずかしいな」


歩きながらネルソンが紹介してくれた人には、ジャマイカ人やアイルランド人もいた。


この町はバガボンド達が流れ着く場所でもあるようだ。


ネルソンは俺をホテルまで連れてきてくれた。


宿のオーナーから、しっかりコミッションを貰っていた。


おいおい、インドのがきんちょかよ。


チャオ、ネルソン。




落ち着いた田舎町のセントロ。


道にはバールのテーブルが並ぶ。


流れる時を楽しむ大人たちが、のんびりとワインを飲んでいる。


夏に向かう気配。


陽は長い。


パン・ハム・トマト・タマネギ。


廊下にあったテーブルに広げる。


ワインを飲みながらナイフで刻んでゆく。


荒れた中庭を眺めるのも悪くない。


隣には旅人と交換した本がある。







昨日、来た道を戻ることにする。


カファジャテの手前で見た、赤い岩山が続いた風景が、良かったのだ。


自転車を借りて、バスに積ませてもらい、景色の良い場所で降ろしてもらおう。


「ロホ・モンターニャ、ブエナ・ビスタ(赤い山、景色の良い場所)」


なかなか、通じないのは無理もない。


スペイン語に関しては、こちらの完全な勉強不足なのだ。


「キエロ・バハール、ブエナ・ビスタ(降りたい、景色の良い場所)」


「バハール、ロホ・モンターニャ、キエロ・バック・アキィ(降りる、赤い山、ここに戻りたい)」


ジェスチャーを交えながら、説明する。


何とか通じたようだ。


おばちゃんが「ガルガンタ・ディアブロ」と繰り返している。


そこで降りれば良いのか。







疲れた。


1リトロのビールは、すぐに無くなった。


ガルガンタ・ディアブロからカファジャテまで約45キロ。


自転車で半日走るのには、ちょうど良い距離だと思っていたのだが。


まず、サドルの固さが曲者だった。


走り出すと5キロほどで座っていられなくなった。


Tシャツを脱いで間に挟むが、あまり効果が無かった。


アップ・ダウン。


向かい風。


足はガクガク、咽はカラカラ。


途中、道端にひっくり返った。


全身がチクチクして砂塵に覆われたが動けなかった。


自分には歩く方が向いている。


午後6時半。


ビールが沁み込んでゆく。


太陽は山に隠れたが、まだまだ明るい。


ゆっくりと夜に向かう魔法の時間。


疲れた体に廻る酔いが早く気持ち良い。


もっとガソリンが必要だ。







荒野の町にポツンと取り残された。


アンガスタコ。


思っていた以上に小さな集落だ。


人口は100人くらいだろうか。


食堂と商店と宿が一軒づつ。


お腹がすいたので、まずは情報収集を兼ねて食堂に入ってみる。


注文より先に名前を聞かれた。


店をきりもりしているおばちゃんはエステール。


彼女は簡単な言葉を選んで身振りを交えて話しくれるのでありがたい。


水よりも安いワインを飲みながら筆談も交えて聞いてみる。


次のバスは3日先、隣の町までは約50キロとのこと。


ランクルをチャーターすることも出来るが、3日間の宿泊代の倍以上も費用がかかる。


最後に残ったカードは滞在。


急ぐ旅でもない。


「ありがとう、エステール、また来るよ」


ただ歩き、ただ立ち止まる。


すぐに町外れに出る。


半分砂に埋もれたように家が建つ。


葡萄を栽培している小さな緑。


果てしない荒野。


とんがった岩山。


遠くの高い山には、微かにへばりついた雪が見える。


まっ白な紙に、自分だけの地図を描いてゆく。







どこだ、ここは。


こんなに深く寝たのは久しぶりだ。


午前11時。


サンデー・モーニング。


ヴルヴェット・アンダーグラウンドが聞きたい。


今日は荒野を歩く。


完全に陽が無くなるまでは8時間。


何処まで行けるだろう。


普段は持たない水を用意した。


ざっざっざっ。


どこにも日陰が無い。


熱い風が吹いてくる。


強い光が降り注ぐ。


風景の輪郭が際立っている。







命の気配の無い大地。


何かが足元を動いている。


瞬間、目がくぎづけ!


ふんころがしだ!


全く予想もしていなかった。


これは、もう衝撃!


見ちゃったよ!


ふんころがし!


世界中に発表!


まじで転がしてるよ。


かわいいなあ。


俺が現れたせいなのか、もの凄いスピードで転がしている。


隠れる所がないので、とにかく闇雲に転がしている。


かわいいなあ。


いつまででも見ていたい。


あの瞬間、世界に存在したのは俺とふんころがしだけだった。







あと2キロ歩いたら、ひとくち飲もう。


ペットボトルの水は残り2センチ。


あと3回、口を濡らしたら無くなるだろう。


青い空と白い荒野。


どこまでも続く。


時計は午後4時を過ぎた。


陽射しは一向に弱まらない。


10キロ以上は歩いたはずだ。


今、引き返せば、闇よりも先に町に着ける。


しかし・・・


この道は1時間に1台くらいの間隔で車も通る。


もっと先まで歩いてヒッチハイクにトライするという選択もある。


さあ、どうする。


気持ちも風景も1秒で変わる。







「オラ!テツ!」


食堂のおばちゃんは一度で名前を覚えてくれた。


嬉しいなあ。


「エステール、今日はビールだ。咽がカラカラだよ」


この数日、毎日、エステールの食堂に通っている。


まあ、この町にそれ以外の選択の余地はないのだが。


メニューはなく、ただただ出てくる物を食べる。


水の代わりに安ワインを飲む。


何も無い町で、食事は最大の楽しみだった。


しかし、それ以上に温かいエステールに会うのが嬉しかった。


名前を呼んでくれる。


存在を認めてくれる。


何てありがたいことなんだ。


「テツ、明日は行くんだね」


「そうだよ。エステール、ありがとう」







宿の前にバスが横付けされた。


明日は3日振りに、この町からバスが出る。


出発は朝の5時半。


そのため、バスの運転手も前の晩から、町に泊まる。


自分以外に初めて見る宿泊客だった。


陽気な運転手さんに日本の写真を見せた。


クラッカーとハムで済ます彼の夕食に、ビールと落花生でつきあった。


乗り遅れる心配はない。


バスが動き出した頃は、まだ、真っ暗だった。


1本の線のような静かな月。


輝き瞬く賑やかな星々。


しばらくすると子供達が乗ってきた。


10キロほど走った所で降りた。


「グラシア!」


ひとりひとり運転手さんに声をかけながら降りていった。


年齢もまちまちな子供達はその先に学校があるであろう闇に消えていった。


見送る運転手さんのまなざしが温かい。


じっと見ていた俺に、振り返った彼がウインクした。


6時10分。


まだ、夜は明けていない。


東の黒い空が、少しづつ白くなってくる。


誰の上にも、それぞれの空が、同じようにある。







「ちょっと、ちょっと、すいません、バス止めて!」


びっくりしたなあ!


何だか、見たことある顔だと思ったら、ねもっちゃん!


彼は自転車でアメリカ大陸を縦断している。


体と時間を使ってアンデス山脈をジグザグに越えてゆく旅。


こんな所で会えるとは!


ホントに自転車で走ってるんだなあ。


彼と会ったのは9月のペルー、10月のボリビア。


約2週間振りに会う日本人だった。


バスの上から、自転車の上から、たった30秒の再会。


気をつけて!


良い旅を!


自分で言った言葉の意味をかみ締めた。


彼は何処まで走ってゆくのだろう。







バスが走り出す。


次の町はモリノス、その次はカチ。


どちらで降りようか。


どこへだって行けるんだ。


旅は続く。


砂漠はどこかに井戸を隠している。


道はいつだって輝いている。













        2004年11月3日−9日 カファジャテ・アンガスタコ