月が輝き
星が瞬く
生命の花を見て
風の楽園で微笑む
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「ゆっくりしていって下さい」
そんな当たり前のひと言が、なぜ、これほどまでに沁みるのだろう。
上野綾子さん、83歳。
世界最南端の町ウシュアイアで宿を営む。
もともとは、この地を訪れる者に、無料でベッドや食事を提供していた。
それが少しずつ発展していって宿になった。
日本から一番遠い町に、望まれて存在している宿がある。
「ゆっくりしていって下さい」
人の心は、言葉の意味よりも、そこに込められた思いに反応するのだろう。
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元気にしていますか。
世界の果て、ウシュアイアにやってきました。
ビーグル海峡を望む小さな綺麗な町です。
昨日、太陽が沈んだのは夜10時過ぎ。
まだまだ日照時間は長くなり、真夏には午前1時を過ぎても太陽が出ているそうです。
宿にはドラム缶で作った五右衛門風呂があります。
8ヵ月ぶりに浸かる湯船で固まった体をほぐしています。
すべてかういふ高みでは
かならずなにかああいふふうの
得体のしれない音をきく
それは一箇の神秘だよ
神秘でないよ気圧だよ
気圧でないよ耳鳴りか
もいちど鳴るといいなといふ
センチメンタル!葉笛を吹くな
湯船の鼻唄と宮沢賢治。
湯上りのビールとジョアン・ジルベルト。
テーブルには小さなクリスマスツリー。
壁に貼られた大きな南米の地図。
遠くまで来たなあ。
自分が旅した跡を目で追いながら思いました。
世界の果て。
ここにも人の生活と人生があります。
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パタゴニアの短い夏。
果てしない大地。
アルゼンチンとチリの国境を行ったり来たり。
パスポートも持たず自由に国境を越える羊たち。
立っていられないほどに吹きつける風。
しがみつく植物。
速く流れる雲。
自然は解釈を必要としない。
移り行く感情も自然の一部だ。
暗くならない白夜の町。
パンが焦げる。
バスが来ない。
蝋燭の火を見つめ続けるには疲れすぎていた。
いつの間にか世界と切り離されていた。
2度の盗難にあった。
心が受けた傷の向かう先について考える。
捨てられた子猫の夢を見た。
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春を眺める 余裕もなく
夏をのりきる 力もなく
秋の枯葉に 身をつつみ
冬に骨身を さらけ出す
となりを 横目でのぞき
自分の道を たしかめる
また ひとつ ずるくなった
とうぶん 照れ笑いが続く
今日ですべてが 終わるさ
今日ですべてが 変わる
今日ですべてが 報われる
今日ですべてが 始まるさ
今日ですべてが 始まるさ!
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一億年の眠り
崩れ落ち
目覚め
世界を巡る
いつか海へ
いつか天へ
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チリに入国する。
ずっと左に見えている紺碧の水がマゼラン海峡だ。
まもなく港町プンタアレナスに着く。
プンタアレナスとは先っぽの砂の意味。
サン・テグジュペリは以下のように書いている。
そして、その先の所が、世界最南端の市、プンタアレナスだ。
原始の溶岩と南氷洋のあいだに、かりそめのわずかばかりの泥をたよりに、この市は存在する。
あの噴出口のいかにも近くなので、人はいっそうはっきり人間の奇跡を感じるわけだ。
なんという不思議な出会いだろう!
人間というこの旅人が、なぜ、また、どうして、この仮装された庭園を訪れるのかは誰も知らない。
そこに安堵して住むことのできる時間が、地質学上の一時代、多くの日のうちで
祝福されたほんの短い一日の時間に限られている危険な庭園を。
マゼランにより発見された大西洋と太平洋を結ぶ航路。
その要所となる港町もパナマ運河の開通と共にその役目を終えた。
かりそめの町も人も変化しながら流れてゆく。
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自然も風景も感情も移り流れてゆく。
風に乗る鳥。
足元のワイルドフラワーズ。
遠い山。
都会の密度は人を遠ざける。
果てしない大地は呼び起こす。
命が呼び合う。
温かい気持ちを思っている。
心が静まる。
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若い旅人の話が印象に残っている。
旅をしながら何処か自分の場所を求めてるのかもしれません。
でも自分の場所というのは案外無いですね。
場所というよりは人なんだと思うようになりました。
それを聞いて思った。
きっと人と一緒に創ってゆくのが場所なんだ。
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双眼鏡で流れてきた氷河を見ている。
揺れるタンポポ。
レンズ型の雲。
赤い頭のキツツキ。
強い風が地球の体温を下げる。
短い夏にたゆたう。
生まれ葬られた命が続く大地。
ふと古い友人を思う。
それぞれが歩く道。
目を凝らし見つめる。
それらの道は、同じ場所に向かって続いている。
風が吹き抜けてゆく。
たくさんの道が続いている。
繰り返す。
また繰り返す。
歩き出す。
光のまん中へ歩き出す。
心は静かだ。
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月が満ち
星が巡る
生命の種を得て
風の楽園で眠る
パタゴニアは夏だった
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*一部引用:宮沢賢治「林学生」・泉屋しげる「春夏秋冬」・サンテグジュペリ「人間の土地」より
2004年11月25日−12月12日 パタゴニア
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