とうとう北海道を離れる。
函館から大間まで海を渡るのだ。
ひさしぶりの本州。
わくわくする。
左手には函館山が見える。
こんもり盛り上がったフォルムは江ノ島を彷彿させる。
山裾に寺が見える。
海に向かってロシア人の墓が広がる。
昨日はあの辺りを歩いていたのだ。
髪の長い女の子がローラースケートを履いていた。
犬を連れた散歩のお爺さんが振り返った。
船はゆっくりと函館山を右に廻りこんでゆく。
岩肌が剥き出しになった絶壁が見えてきた。
あの山の向こうには今井ファミリーが暮らす部屋がある。
今井くんとは、いつから知り合いだったろう。
ホノルル・マラソンも走った。
富士山にも登った。
フリーマーケットは何度もやった。
いつの間にか仲間の中にいた。
いつも気がつくとそこにいる。
そんな飄々とした不思議な存在感を持っている。
しばらく居て下さいね。
せめて晴れるまでは。
晴れると此処はハワイになるんです。
窓から入ってくる明るい光と青い海は、確かにハワイを思わせた。
風の強い曇った日には、湾曲した海岸に波が砕ける。
そんな色の無い風景は、冬のキューバを思わせた。
思い出の風景と重なる温かい部屋。
夜に見える漁火だけは初めて見る景色だった。
奥さんである、ひろみちゃんを紹介してもらった時のことは良く憶えている。
中野の路地裏にある小さなライブハウスだった。
ジャズが流れるバーカウンター。
眼鏡が似合う知的な雰囲気は、国語の先生を思わせた。
(実際に日本語教師としての経験があった)
数日後、メールが来た。
その当時、立ち上げたばかりの静かな振動を見た丁寧な感想だった。
彼女から時々届くメールには、誠実に生きている様子と、
世界に対する温かい視線が、いつも感じられる。
その視線には母親の持つ優しさが加わり、さらに温かいものになっていた。
訪ねた部屋の主役は、ななちゃん。
生まれたばかりの愛娘だ。
パーツパーツはひろみちゃん似。
全体の雰囲気は今井くん似。
可愛いなあ。
優しく抱き上げ、語りかけながらあやす、ひろみちゃん。
壊れものに触れるように、ぎこちなく抱く、今井くん。
毎日の育児は大変だろうと、お風呂に入れる係りは、今井くんなのだそうだ。
そうなのかあ。優しいなあ。
彼が、ななちゃんをお風呂に入れたり、おしめを変えてる様子を想像した。
今井くん、ホントにおとうちゃんになったんだなあ。
可笑しくなると共に、時の流れを感じた。
突然、今井くんが言った。
金子さん、ななこをお嫁にもらってください。
おいおいおい。
そんなこと言って良いの。
ひろみちゃんが、もっともなことを言う。
大丈夫。
金子さんカサノバだから。
数年、一緒にいてくれたら、それで良いの。
金子さん、その頃は60近いし。
ななこを旅に連れて行って下さい。
地球と遊べる人になって欲しいんです。
ななこ、ほらほら、未来の旦那さまだよ。
今井くんの言うことは、どこまで本気なのか良く分からない。
ひろみちゃんとは、今井くんの仕事の帰りを待ちながら、
リビングで色々な話をした。
二人が函館に住むことになったいきさつが印象に残っている。
結婚した時、話し合った。
せっかく一緒になったのだから、これからの時間を、出来るだけ楽しく過ごしてゆこう。
そのためには、まず、何処で暮らそうか。
北海道ということで意見が一致した。
その後、今井くんの就職活動が始まった。
仕事よりも、二人が楽しく過ごせる事の方が、重要なのだ。
今井くんは勤めていた劇団の仕事を辞めた。
単身、北海道に乗り込んだ。
テントで生活しながら、各地を転々として、就職活動をした。
飯ごうで御飯を炊き、スーツを着て、ネクタイを締め、テントから面接に通った。
そうして、落ち着いた先が、函館だったのだそうだ。
此処は、気に入ってるんですけど、ずっと居ようという訳じゃないんです。
また、住みたい処があれば、動きます。
だから、わたしたちも旅をしてるんです。
今度は、何処で会えるんでしょうね。
そんな事を話して別れた。
太陽が昇り海を輝かせた。
温かい部屋。
思い出の写真が、たくさん飾ってあった。
ななちゃんは泣き、笑い、母乳を飲んで、よく寝た。
素敵な家族だったなあ。
船は函館山を廻りこみながら進んでゆく。
前方に雨雲が見えた。
海風が雨を運んできた。
これから雨になるのだろうか。
降るなら降れ。
濡れれば良い。
函館山の向こうに伸びる海岸線が見えてきた。
あそこには今井ファミリーが暮らす部屋がある。
ななちゃん起きたかな。
さっきまで居た場所が、すでに懐かしい場所になっている。
人の暮らしが風景に奥行きを与えていた。
2003年9月28日 函館