旅の空からの伝言
2006年1月20日 クエッタより
ラホールからペシャワール。
ペシャワールからクエッタ。
合計32時間バスを乗り継いでずいぶんと西へやってきました。
寒いです。
クエッタにいます。
アフガニスタンとの国境まで約100キロ。
乾燥高原地帯(標高1600m)にあるバローチスタン州の州都です。
(1998年5月、地下核実験が行われたのはこの州)
この地で俺は全くのよそ者です。
パキスターニ達が手を挙げたり、首を傾けたりする仕草のニュアンスが
全く分らなかったりする事もあります。
「ジャッキーチェン!」
南米以来の呼ばれ方も聞こえるようになり、
ずいぶんと日本から離れたことを実感します。
パキスタンには60の言語があると言われています。
「シュークリア(ありがとう)」
公用語であるはずの言葉を使っても
「ああ、ウルドゥー語かあ」などと言われることもあります。
それくらい多くの民族がいる。
「おまえはムスリムか?」
挨拶よりも先に宗教の話になるのはパキスタンが初めてです。
「じゃあ、宗教はなんだ?」
「ブッディストだ」と答えても差し障りはありません。
「日本人の多くはブッディストで、ムスリムもクリスチャンも少しだけいる」
彼らの多くは仏教自体がピンと来ないようで、
ムスリムが少しだけしかいない国を上手くイメージ出来ないようです。
お祈りの時間になると走っていたバスが停まります。
(乗客達から停めろの声、ドライブインにもモスク)
部屋の中にお祈り用のゴザが置いてある宿もあります。
男達はしゃがんで用を足します。
立ってしていたら「それはビッグ・プロブレム」だと言われました。
訳を尋ねましたが彼の使う英語が分らず、
かろうじて「アフター・デッド」が聞き取れただけでした。
どうやら宗教的な理由のようです。
ムスリムが旅人を客人としてもてなすというのは本当のようで
パキスタンに来てから、ずいぶんと親切にしてもらっています。
ローカル・バスの中で「彼はゲストだから料金を徴収するな」と言ってくれる人がいたり
「これは贈り物」と物売りが売り物であるジュースをくれたり。
厳格なムスリムの戒律に対しての反動や歪みを見ることも時にはありますが、
全体的には彼らから精神の清潔さのようなものを感じます。
俺はムスリムに好感を持っています。
町でお茶を御馳走になるのは毎日のこと。
歩いているだけでたくさんの人が誘ってくれるので多くは断らざるをえません。
それでも彼らは笑顔。
今日はジャー・ムハマドという日向ぼっこをしていた老人とお茶を飲みました。
「日本人はパキスタンという国のことを知っているのか」
「もちろんですよ」
「でも、日本とパキスタンは全然違う」
「そうですね。そう思います」
「日本はアゲインスト・テロリズムだ(テロリズムに反対している)」
(彼がテロリズムをどんなニュアンスで使っているのか分らなかった)
「その通りです。ただ俺が思うのは、ウイ・シュド・ビー・ディファレント」
(私たちはそれぞれであるべきだということです)」
「うーん」
「アンド・・・アイ・シンク・・エブリ・カントリー、エブリ・ピープル・ホープ・トゥ・ピース」
(全ての国、全ての人は平和を望んでると思います)
ムハマドにお茶を御馳走になりながら色々な話をしました。
笑顔と握手で別れる時、小さな声で言ってくれました。
「ミス・ユー、グッド・ラック」
ムハマドの仕事はタイヤ屋。
俺との話を横で聞いていた若い従業員はアフガニスタン人だそうです。
クエッタはカンダハールのすぐ近く。
1979年のソ連のアフガン侵攻以来パキスタンには多くの難民が流れ込んでいます。
現在、クエッタ近郊には100万人、
ペシャワール近郊には200万人のアフガーニがいるそうです。
路上でアフガーニが売る、豆・芋・葡萄・スパイスの炊きこみ御飯は素朴でとても美味しい。
良く行くレストラン(ここも美味しい)の主はカブール出身だそうです。
町で話した人のほぼ半数はアフガーニでした。
彼らはとてもフレンドリーで「日本は良い国だ」としきりに言ってくれます。
クエッタの周りには軍事基地が蜘蛛の巣のように張り巡らされ
戦闘機が轟音で飛んでゆくこともあります。
「バッド・ガバメント、グッド・ピープル」
この言葉は旅人同士の話の中で良く使われます。
パキスタンは間違いなくグッド・ピープルの国です。
物への欲など抑え
満ち足りて生きよ
善悪の くびきから
解き放たれよ
アラー・マハーム・・・アラー・マハーム・・・
物への欲など抑え
満ち足りて生きよ
善悪の くびきから
解き放たれよ
祝杯を捧げ持ち
愛する女の帯留めを もて遊ぶがよい
どうせ すべては 疾く消え去る
楽しみの時は 長く続かぬ
大地が君を その子宮へと呑み込む前に
君の人生を 悲しみで染めるなかれ
黒々とした苦悩に煩うことなかれ
それまでは読書を
愛しい女の唇を
かぐわしい青草を
手放すことなかれ
「疾くとくびき」 by オマル・ハイアーム
2006年2月1日 エスファハーンより
インドネシアから中国。
(インドネシア・マレーシア・タイ・カンボジア・ベトナム・中国)
アジアを南から北への移動では民族や習慣や食事など見事なグラデーションを感じました。
中国からイラン。
(中国・チベット・ネパール・インド・パキスタン・イラン)
西へ向かう移動では国境を越えた途端、様々なことがガラッと劇的に変わりました。
宗教の違いが大きく影響しているのでしょう。
また、宗教さえも気候・環境に影響を受けているように感じます。
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以下、旅の途中の殴り書きより。(なので脈絡無し)
仏教:涙、雨、水、米、湿気、微笑、曖昧さ、許し、慈悲
チベット仏教:空、宇宙、光と闇、巡る、繰り返す
ヒンドゥ教:火、輪廻、自然の一部(一体)、悠久の時間、カースト、貧富
イスラム教:石、砂、熱、怒り、自己規制、清潔、潔癖、曖昧さを許さない
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イランにいます。
パキスタンを発ってから移動を繰り返しエスファハーンという街に落ち着いています。
(クエッタ→ザーヘダーン→バム→ケルマーン→バンダレ・アッパーズ→シーラーズ→エスファハーン)
イランに入ってからの劇的な変化は車&道路が数段に良くなったこと。
荒野に伸びる舗装されたハイ・ウェイをボルボのバスが100キロ以上で疾走します。
パキスタンと比べたらカール・ルイスと斉藤清六くらいの運動能力の差がある。
バス代も安くて東京-大阪間くらいの距離を移動しても新宿-渋谷くらいの料金。
その秘密はガソリンの安さ。
1リットル、12円。
さすが石油産出国。
今までお世話になっていた屋台は全く無くなりました。
食事を出す店、食品を売る店も、50軒に1軒くらいの割合でしかなく極端に少ない。
食事をしている人の姿もほとんど見かけません。
みんな何処で何を食べているのだろうと不思議になるくらいです。
戒律や規制を重んじるイスラム社会の中で、
食事さえも慎むべき欲望として認識されているのではないでしょうか。
しばらく見ることの無かった女性の姿は当たり前に見かけるようになりました。
(パキスタンでは町を歩く人の9割以上が男)
声をかけてくれる女性や、彼女らが車を運転している姿には軽い驚きがありました。
彼女達のほとんどは全身、黒いベールをまとっています。
人々の服装、仕草、走る車、電気製品のデザイン、落書の配色。
何気ない所々にヨーロッパを感じるようになりました。
「ムシュー!」と声をかけられたのは、この旅初めて。
「メルシー」も時々耳にします。
治安については問題ありません。
(世界中どこへ行っても問題ない場所なんて無いと思うのですが。日本も例外ではなく)
治安に関しては今まで旅した国の中でもかなり良い方だと感じます。
人々はとても優しく親切です。
「ウエルカム・トゥ・イラン!」
街を歩いていると笑顔で声をかけてくれます。
■さかえ通りの通行人さんへのレスポンスより
「エスファハーンは世界の半分」
今いるエスファハーンは東西交易が盛んだった時代に大繁栄した街。
現在も「イランの真珠」と言われるくらい綺麗で歴史的な場所だよ。
ユーラシア大陸を西へ移動してきて、とうとうヨーロッパが目前に。
その先のアフリカ大陸も見えてきた。
俺の旅もそろそろ半分まで来たかな。
アジアの西の果てから東の端まで飛ぶよ。
日本へ戻ったらさかえ通りにはすぐに行く。
まずは「26日の月」へ行って写真展の打ち合わせをしないと。
「洋包丁」「鳥やす」「さたけ」「ささや」
食べに行きたい処だらけだ。
ひさしぶりに三線も弾きたいし、日本ではやりたいことがたくさん。
会いたい人もたくさん。
日本ではずっと東京に滞在して忙しくしていると思う。
沖縄にも行きたいのだけど、今は旅を前に進めたい気持ちが強い。
展示が終わったらイスタンブールへ戻る予定にしています。
■りえこ(ファンタ)さんへのレスポンスより
カンガルージャック、どんな映画なんだろう。
オーストラリアではアボリジニのことがいつも頭にあった。
彼らが集まっている広場へと何度か出かけていったけど
コミュニケーションをとるのは難しかった。
今のような半隔離された環境を与えられてからの歴史も浅く
その状態に彼ら自身も途惑いながら生きているように感じた。
俺は渋めのイラン映画が好きで、イランでは是非劇場で見てみたいと思っていた。
特にアッバス・キアロスタミの作品。
だけど上映しているのは、娯楽的な軽い作品ばかり。
何処かで見れないかと聞いてみても「そんなのイラン人は誰も見ないよ」との回答。
ちょっと以外だった。
映画館にも聞きに行ったら、「おまえはキアロスタミが好きなのか!」と喜ばれて、
逆にさんざん映画についての質問攻めにあった。
残念ながらキアロスタミの上映は無いようだった。
「ギフトだからここで映画を見ていってくれ」と誘ってくれたよ。
俺は元気で旅を楽しんでいる。
オーストラリアで会ったみんなのことも時々思い出して元気にしてるかなと思っている。
日本での日々も、この先の旅も、とても楽しみ。
ファンタも元気で!
そうそう、反米国イランのファンタ(のようなドリンク)はZAM ZAM。
2006年2月5日 ヤズドより
急に英語が通じなくなったのもイランに入ってからの大きな変化でした。
平均的なイラン人の英語力は日本の中学生以下ですが、
コミュニケーション能力は遥かに優れています。
言葉が通じなくても笑顔で気さくに話しかけてくれます。
素敵に素朴な英語に出会えます。
まず、こちらが「サンキュー!」と言うと、返ってくる返事が「ベリーマッチ!」
これ、頻繁に聞けて大好きです。
歩いていて多いのが「ハウ・アー・ユー?」と声をかけてきて
こちらが答えるよりも早く言ってしまう「アイム・ファイン・サンキュー!」
二十歳くらいの青年は自分の仲間をひとりひとり指差しながら
「マイ・ネイム・イズ・ホセ」
「マイ・ネイム・イズ・ショイン」
「マイ・ネイム・イズ・アリー」
と紹介してくれました。
はずかしい、通じないかもといった思いよりも、話したいという気持ちが優っているのですね。
「ウエルカム・トゥ・イラン!」
「ウエルカム・トゥ・マイ・カントリー!」
「ようこそ!」と言葉をかけてくれるのは今まで旅した国の中でイランが圧倒的に多い。
嬉しく温かい気持ちになれます。
イラン人は余裕があるなあと感心します。
お祈りという神(自分)に向き合う時間を毎日の生活の中に持つことから、
余裕が生まれてくるのではないでしょうか。
「ウエルカム・トゥ・ジャパン!」
自分も日本で外国人に会った時には声をかけてみたいと思います。
ヤズドという古い町にいます。
家も壁も土で出来た迷路のような町です。
とても気に入っています。
明日はテヘランに向かう予定です。
■真実さんへのレスポンスより
真実は元気だったかな。
俺は元気にしています。
そうそうそう、ヒロ。
真実と三人でバイタク借りてアンコール・ワットを巡った、ヒロ。
ここ、ヤズドの宿でばったり会った。
カンボジアの後は日本に戻ると聞いていたからビックリした。
彼は一度戻った日本を10日で出てしまい、再度インドから西へ進んでいたとのこと。
世界は狭いなと思ったよ。
パキスタンもイランも(危ないエリアに入らない限り)安全な国です。
「来てみたら気抜けするほど安全だった」とイランの感想をもらす旅人も多い。
知らないことが、恐れや不安に繋がるんだね。
ムスリムの国は実は旅がしやすい。
俺が今一番危ないと感じる国はアメリカ。
高田馬場でまた会おう!
展示作品以外にも見てもらえるように準備しています。
■やじまくんへのレスポンスより
嬉しかったこと大切にしてるみたいだね。
良い感じだ。
もう写真展は始まってるのかな。
こちらも少しずつ準備を始めている。
莫大な量の写真があるので整理だけでも大変。
毎日3時間づつやっていっても1ヶ月以上かかることに気付いて愕然とした。
まあ、旅を振り返りながら楽しんでるよ。
良い時期だ。
今回、パキスタンは時間的な制約(2月中にイスタンブール)と
季節的な制約(北へ行く道路が閉ざされてる)で素通りしてしまった。
改めて時間をかけて訪れたいと思っている。
町角でオヤジ達とチャイを飲んだ日々がすでに懐かしい。
写真展も旅も日々も楽しんで!
■つじのふーふへのレスポンスより
ヤズドにいます。
ずいぶんと西へ来たよ。
辻野夫妻とビーニャ・デル・マルで会った頃は
今の時期にイランにいるなんて思いもよらなかった。
ふたりがまだ南米にいるのもびっくりだけど納得。
次はウズベキスタン辺りで再会しようなんて言っていたけど
何処になるのか全く予想も出来ないな。
俺は東京での展示が終わったらイスタンブールへ戻る予定です。
その頃、ふたりはアンティグア辺りかな。
お互いどうなることやら。
パナマ越え、気をつけて!
2006年2月10日 テヘランより
道は真ん中を歩くもの
大手を振って歩くもの
人が来たら譲るもの
周りは車やバイクの激しい騒音で、気配に気付けませんでした。
先日夜、歩道を歩いていると、後ろから来たバイクに被っていた帽子を持ち去られました。
バイクにはふざけた若者が3人乗り、追いかける俺をからかうように帽子をヒラヒラさせ、
スピードを上げたり下げたりしてから走り去りました。
エクアドルで見つけて、この2年間、いつも被っていたお気に入りの帽子でした。
「最低だ、イラン」と嫌な気持ちに陥りかけましたが、
すぐに「いやいや、違う、そうじゃない」と思う自分がいました。
怒りや嫌な気持ちは、昔の古い自分の反応のように感じました。
それはホンの小さな領域で、別の自分の感覚のようにも感じました。
それよりも、違う場所へ意識が巡ります。
後ろから気付かれないように近づく。
1人に対して3人で犯行を行う。
バイクというスピードの出る乗り物で逃げる。
このような嫌がらせは他の国でもありましたが、共通しているのは
常に自分は安全な場所にいて行うということです。
「大したこと無いな」と思います。
大切なのは、弱い感覚に支配されないこと。
怒りを恨みに変えないこと。
問題は個人で、これくらいでイランという国を嫌いになる方が馬鹿げている。
ローカル・バスでは「料金は要らないよ」と何度も乗せてもらい、
地下鉄でチケット売り場が分らずにいると、チケットを買ってくれ、
目的地へのホームまで連れて行ってくれた人もいました。
日本で働いたことがあるCD屋のおじさんからは、
これは日本の人に親切にしてもらったお礼だからと、CDをいただきました
レストランの下働きのおじいさんも日本で働いたことがあり、
食事をしているとさりげなくお茶を出してくれました。
(イラン人は食事中にお茶を飲まない)
買うために店に入ったのに、「これはギフト」とフロッピー・ディスクをもらってしまったり、
お弁当を持って歩いていた若者に「それ何処で買えるの?」と声をかけると
「これ、あげるよ」と手渡されてしまったこともありました。
バスや地下鉄の中で年配の方に席を譲る若者の姿も何度も見ました。
(3人が同時に立ち上がり、「俺が譲る」「俺が譲る」というシーンもありました)
嫌がらせに対して「大したこと無い」と思えたのも、
親切にしてくれた、徳の高さを美しく見せてくれた、イランの方々のお陰です。
アメリカがイランに擦り寄っていったのは第二次大戦後のこと。
「白色革命」と呼ばれる工業化がオイルマネーとアメリカの後ろ盾により進みました。
結果、貧富の差が広がり、農村の荒廃を招き、イラン国内は乱れました。
その状況を打開したのが「反米」と「ムスリム主義」を掲げたホメイニ師の行った
1979年のイラン革命です。
(ホメイニ師は現在もイラン人の心の支えでありヒーロー)
その年の11月にはホメイニ師を支持する学生グループがアメリカ大使館を占拠して
53人を人質としました。
当時のカーター大統領はその早期解決に失敗し、政権はレーガンへと移りました。
人質が解放されたのは翌翌年1981年1月。
1980年にはイラン・イラク戦争が始まっています。
敵の敵は見方。
反米主義に転じたイランに反感を持つアメリカは、イラクに対し大量の兵器を譲り渡したと言われています。
1979年以来、イランにはアメリカ大使館は置かれていません。
大使館の建物はテヘランの中心部にそのまま残されています。
(高い外壁に囲まれ古びた屋敷)
壁にはイラン政府の反米プロパガンダやドクロの顔をした自由の女神の絵が書かれ、
「DOWN WITH U・S・A」(アメリカを撃ち落とせ)と書かれたプレートがはめ込まれています。
(たまたま宗教行事の旗で「DOWN」が隠れ「WITH U・S・A」(アメリカと共に)と見えたけど)
現在、国際社会では、核を保有しているという疑いから、
イランに対して経済制裁が与えられようとしているようです。
核を持っているのであるとすればとんでもないことですが
現実に保有している国への対策も同時に行われるべきではないでしょうか。
「大量破壊兵器を保持している」という大儀により行われたアメリカのイラクに対する軍事行使は、
いつの間にか「イラクの開放」という目的に摩り替えられ、
イラクが大量破壊兵器を持っていたかどうかは、うやむやになったままです。
(これはアメリカの傲慢であると共に敗北であると思っています)
今回の核保有問題も勝つことが分っている者の、
安全な場所からの嫌がらせのような気がしてならないのですが・・・
平和な世界であることを願います。
■こげぱんさんへのレスポンスより
相変わらず旅に仕事に充実しているようだね。
約2年ぶりに日本へ戻ります。
会いたい人たくさん。
たくさんの人に見に来てもらえたらと思います。
会場には毎日いる予定です。
桜の咲く頃、高田馬場に来てください。
沖縄の話など聞かせて下さい。
■ライター浅野智哉さんへのレスポンスより
書き込みどうもありがとう!
浅野君の作品を読んでみたい人は多いと思う。
俺も心待ちにしていた次の旅。
楽しみだ。
個展に向けて改めて自分の写真を見直している。
どんな表現に対しても魂で感じているかどうかって恐ろしいほど現れてしまうね。
俺の魂はまだまだ成長できると思っている。
オマル・ハイアームの詩を教えてもらった時は、あまりピンとこなかったのだけど、
ずっと何処かに引っかかっていて、パキスタンに来た時に思い出した。
手放すことと手放さないことは同じなんだ。
突き詰めたら突き放す。
使わないとガソリンは満ちてこない。
やはり身近で永遠で空の向こうは此処にあるなあ。
■しばちゃんへのレスポンスより
おかげ様で元気にしています。
メールも届いてるよ。
こうやって時々思い出してくれるのが嬉しい。
もう子供は一歳になったんだなあ。
湘南でのお母さんぶりが目に浮かぶようだ。
俺はもうすぐ2年振りに日本に戻る。
会える人も会えない人もいるけど会いたい人がいるのが嬉しいね。
旅の途中に生まれたまだ見ぬ姪に会うのも楽しみ。
お父さん、お母さんになった友人もたくさんいる。
全ての時間が懐かしく大切なものになってゆくね。
2006年2月17日 イスタンブールより
夜が終わろうとしている。
人々が動き出す気配。
新しい1日の始まり。
シルエットになったカモメが飛び交う。
空も海も薄墨の青に溶け、
満月がぼんやり浮かんでいた。
アジアからヨーロッパへ。
ボスポラス海峡に架かる橋を渡ったのは
まさに夜が朝に変わろうとしている瞬間でした。
迎えてくれたブルーの世界が広がると
アジア横断の旅が終わったという感慨が込み上げてきました。
テヘランから43時間のバス移動。
西へ西へと2000キロ。
ふたつの夜を越えイッキにイスタンブールへとやって来ました。
アジア横断の終着点にいます。
2006年2月21日 イスタンブールより
イスタンブールは現在21日の午前8時19分。
本日、日本へ向けて飛びます。
あまり実感がありませんが、22日の夜には日本です。
これから朝食を作ってパッキングを始めます。
いつも通りの朝です。