旅の空からの伝言


2006年6月3日 ソフィアより


ドナウ河を見ていたら、無性にガンジス河が懐かしくなった。

ヨーロッパの旅をプラハまでで一端打ち切って、ソフィアに戻ってきました。

この後、イスタンブールに入る予定です。

いくつかの国を実際に廻ってみて、

ヨーロッパは、歴史に対する造詣(知識や興味)が無いと

単なる観光になってしまってイマイチ楽しめないという実感を持ちました。

(楽しめないのは、学ぶことを怠ってきた自分の責任でもあるのですが、

そうであるのは自分の興味が向かなかったという自然な流れでもあります)

単に芸術や建築を見たりも楽しいのですが、今の自分にとってはあまり興味が向かない。

(いずれそうしたいと思う時も来るのでしょう)

今の自分の旅ともちょっと違う。

それもまたよしと思っています。

ただウィーン(オーストリア)は良かったです。

予定には全く無く寄らずに素通りしようと思っていた都市なのですが、

ホントのユーロ圏にも入ってみようと何となく一泊(半日)だけ行ってみました。

たまたま入った美術館でクリムトを浴びるように見ることが出来た!

(学割・6ユーロ)

THE KISS! JUDITH! ADAM AND EVE! FRITZA RIEDLER!

たまたま入った(通りかかった)オーパ(帝国オペラ座)で最高のバレエを見ることが出来た!

(立ち見・2ユーロ)

白鳥の湖!プリマドンナは日本人!

何のインフォメーションも持たずに行ったのだけど、半日で、あれだけのものに出会えた。

ヨーロッパは歴史の重さと厚さだなあ。

垣間見るだけだったけど、感じることが出来て良かったと思っています。

ヨーロッパは知識と敬意と情報とお金を持って行くべき所です。

(恋人が一緒だと尚良し)

ということ、早々に中東。

この後、イスタンブールでシリア・ヴィザを獲得したら

サフランボル、カッパドキアを経由してシリアに入る予定です。

埃と喧騒と祈りのオン・ザ・ロードへ!

毎日が新しい旅立ち。

毎日が新しい誕生日。

旅は続きます!







2006年6月5日 ソフィアより


電光掲示板を見上げると、乗るはずの飛行機は存在しなかった。

深夜1時のエアポートでのことです。

ここ(ソフィア)にいる理由を書いておきます。

ヨーロッパの旅をプラハで打ち切って、イスタンブールに(シリア・ヴィザを取るため)戻ろうと思っていました。

ブルガス(ブルガリア、黒海沿岸の街)までの飛行機をハンガリーにてネットで予約・購入しました。

6月2日の朝5時プラハ発の便で、ブルガスまで約3時間。

ブルガスからトルコはすぐ近く、イスタンブールまではバスで約3時間〜5時間のはず。

その日のうちにイスタンに着いている予定でした。

ネットで飛行機を予約した際に、折り返し確認のメールが届くので、

それをプリントアウトして空港のチェックイン・カウンターに持ってきてくれとのこと。

しかし、いつまでたってもメールが来ません。

どうなってるのだと、予約番号等、詳しいデータを書いて、催促のメールを出しました。

戻ってきたメールにはたったひと言。

「メールが届かないということは、あなたの入力が間違っている」

あまりにも適当というか、確認してくれた様子が覗えなかったので、プラハに着いたときに

航空会社のオフィスに行ってみました。

予約番号を告げると、窓口の人は、それをすぐにパソコンに入力しました。

「あなたの予約は6月2日のフライトで完了してます。ノープロブレム」

ずさんな対応だなあ(メールでの返事)と思いながらも、確認できたから良いやと思いました。

しかし当日、空港に行ってみると、今度は自分が予約した飛行機が存在していなかったのです。

すいませんのひと言もなく、コンピューターのシステムが壊れていたという理由だけが告げられました。

(チェコのスマートウイングという会社です)

空港で一晩を過ごし、早朝のターミナルに行き、

とりあえずソフィアまで(24時間)のバスに乗り込んだのでした。

ということでソフィアにいます。

ついでにイスタンブール行きも先延ばしにしてしまいます。

今日の夜行バスでマケドニアに入り、アルバニア、モンテネグロ、クロアチア、

ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと旅をします。

風景も気持ちも瞬きひとつで変わる。







2006年6月15日 ソフィアより


高校から大学にかけてアルペンスキー(大回転などのスピード系競技スキー)をやっていました。

1年間のうち、80日あまりをスキー場で過ごした時もありました。

ユーゴスラヴィアの首都サラエボにて冬季オリンピックが行われたのは1984年のこと。

まさにスキーに夢中になっていた頃のことです。

自分にとってサラエボという都市にはあこがれの響きが含まれています。

その頃、使っていたスキー板は「ELAN」

「メイド・イン・ユーゴスラヴィア」と小さく書かれていたのを憶えています。

ユーゴスラヴィアという国は今はありません。

6の共和国から形成された連邦国家であったユーゴスラヴィア。

(クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア、スロヴェニア、マケドニア)

1991年のスロヴェニアの独立に始まり、民族・文化・宗教の問題が絡まりあい

泥沼の戦闘が続きました。

特にボスニア・ヘルツェゴビナでの戦争は激しく、国民の過半数を越える250万人が難民となり

20数万人の死者が出ました。

これはふたつの大戦を除くとヨーロッパ史上最悪の戦争だそうです。

様々な民族、宗教、言語、文化が共存していたユーゴスラヴィア。

その時代にはひとつの国としての意識も高く、都市部での異なる民族同士の結婚は当たり前でした。

1991年から1995年まで続いた戦争は、

家族間に国境を引くようなものであり、親子間、兄弟間での殺し合いも行われたようです。

紛争こそ収まった現在もボスニア、マケドニア、コソヴォには約2万人のNATO軍が駐留しているそうです。

知識として知っていたことでも、現実を目の前にすると愕然としました。

いったい何が起こったのだ。

街中に残った廃墟と夥しい銃弾の跡。

冬季オリンピックが行われたサラエボのスタジアムには無数のお墓が立っていました。

生まれた年代は様々でしたが、そのほとんどが1992年に生涯を閉じていました。

その周辺には何処ででも見られる人々の生活がありました。

パンを焼くおじさんもいました。

鳩にエサをあげるおばさんもいました。

赤子をあやす母親もいました。

サッカーボールを蹴る子供もいました。

この現実を前にして自分は何を感じれば良いのだろう。

この現実を前にして自分はどんな言葉を発したら良いのだろう。

光だけが光じゃない。

闇だけが闇じゃない。

そんな言葉がふと浮かんできました。







2006年6月28日 アレッポより

アッサラーム・アレイクム!

本日、1062日目の長い旅の途中。

写真展のために訪れた日本を離れて2カ月になろうとしています。

季節は春から夏。

シリアのアレッポという町に来ています。

大きなトマトをもらった。

トルコ→ブルガリア→ルーマニア→ハンガリー→スロヴァキア→オーストリア→

チェコ→ブルガリア→マケドニア→アルバニア→モンテネグロ→クロアチア→

ボスニア・ヘルツェゴビナ→セルヴィア→ブルガリア→トルコ→シリア。

まだ見ぬ場所への憧れ。

どこでもない場所。

どこでもない道。

ほんの2カ月弱ですが、ずいぶんとほころびが増えました。

盛大に擦り剥いた腕は熱をもったまま。

カメラのレンズは壊れたまま。

サイトのデータは送れない。

ダニには刺されるし、白髪も増えた。

そしていつでも今でも俺は米が喰いたい。

それでも何でも旅は旅ですね。

道の途中にあること。

良い気分です。

1歩踏み出せば、すぐにプロセスは始まる。

いや、すでに始まっている。