北海道に行こうと決めたとき既に訪れてみたい風景があった。

             そこがどこなのかは分からない。
             自分の想像の中だけの風景なのか。
             実際に映像などで間接的に見たことがある風景なのか。

             「針葉樹が立ち枯れてて、沼地みたいで、墓場みたいな静けさで」
             北海道に詳しい数人の友人にそんな場所があるのか聞いてみた。
             「そこはきっと釧路湿原だ」
             全員が同じ答えだった。
             釧路湿原が一番の旅の目的になった。

             釧路湿原は素晴らしかった。
             しかし、そこには自分が求めていた風景はなかった。

             その晩、いつものようにテントを張りビールを飲んでいた。
             そして何気なくガイドブックをパラパラと見ているとそこにあったのだ。
             あの求めていた風景が。

             もう午後10時を過ぎているとか、そこまで180キロの距離があるとか
             考える前に立ち上がっていた。
             飲みかけの5本目のビールを飲み干して
             暗闇の中、夜露に濡れたテントをたたんだ。
             オホーツク海に突き出た細い半島の先にある湿地を目指した。

             ブラックコーヒーを飲みながら、慎重にアクセルを踏み込んだ。
             カーステレオからは静かに力強いアイルランドのトラッドが流れる。
             あの風景が近くなると、道の両側が海になった。
             夜の海は真っ黒だ。遠くに漁船の明かりが見える。
             シートを少しだけ倒して朝を待った。

             あの時の静かな闇を忘れない。
             あの時の静かな瞬きを忘れない。
             あの時の静かな朝を忘れない。
             あの時の静かな高鳴りを忘れない。