バンビエンでは時が止まった。
この風景の中に存在していることを幸せに思う。
午前6時。
町は薄暗闇の中、静まり返っている。
市場の方角に向かって歩く。
時折、大きな荷物を積んだ自転車が追い抜いてゆく。
外灯の光が、その役割を、太陽に譲りつつある。
市場が近くなり、人々の往来が多くなってきた。
活気のある市場に入ってゆく。
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狭い道にびっしりと店が出て、人々で賑わっている。
野菜や果物の他には、山や川で採れた幸が並んでいる。
ネズミ、小鳥、リス、サワガニ、カエル。
他の国の市場では見ることの無い生き物も並んでいる。
うるち米で出来た白い麺、フーの屋台があった。
一人しか座るスペースのない、ちいさな店だ。
持ち帰りのお客さんが多いのだろう。
ほとんど地べたに座ってるような低い椅子に座る。
向かい合わせの、おばさんが手際よくフーを作ってくれる。
別の皿に盛られたミントやパクチーを千切り
インゲンやレタスやキャベツを丼に山盛り入れる。
更に唐辛子をかける。
屋台で食事をする外国人は珍しいのだろうか。
周囲にいるおばさん達が、興味深そうに覗き込む。
ここのフーは辛味噌を牛肉に絡めて味付けをしてある。
「セップ!カップ・チャイ!」
おばさん達がニッコリと微笑む。
サバイディー=こんにちは
カップ・チャイ=ありがとう
セップ=おいしい
何度か海外に行ってる割には、英語が殆ど話せない。
まして、それ以外の言葉は全くダメだ。
だからと言うわけではないのだが
「こんにちは」「ありがとう」「おいしい」
この三つだけは、その土地の言葉で話すようにしている。
結構、気持ちは伝わるものである。
食事の後は市場の入り口でコーヒーを飲んだ。
ラオスのコーヒーは、かなり濃く、コンデンス・ミルクがたっぷり入っている。
口直しとして、一緒に出てくるお茶には、茶柱が立っていた。
良いことあるぞ。
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路地を抜けると川辺に出た。
霧が立ちこめるサムソン川を眺める。
だんだん太陽が上がってきた。
朝日が白い山肌をピンクに染める。
山が目覚める。
暖かくなってくる。
生きている実感が沸き上がってくる。
生まれ落ちた、この星を、この大地を、全ての命を愛おしく思う。
一旦、宿に戻り、ビエンチャンに移動する坂下さんと別れる。
宿をチェック・アウトして、川沿いの眺めの良いゲスト・ハウスに移動する。
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橋を渡る。
光の粒子が川面で踊る。
川岸の集落を抜ける。
空間が広がる。
気持ち良い道がまっすぐ続いていた。
草履を脱ぎ、裸足になって歩く。
普段は感じない足の裏の感覚を楽しみながら歩く。
熱くなった地面や硬い小石にも次第に慣れてくる。
日陰は驚くほどヒンヤリしている。
水たまりのように淀んだ小さな流れがあった。
アメンボが泳ぐ。
水すましが泳ぐ
色とりどりのチョウチョが舞う。
糸トンボが飛んできて、ねこじゃらしの先に留まった。
テントウムシ、アブラムシ、トカゲ、バッタ、アリ。
目を凝らすほどに小さな命が次々と見えてくる。
ジッとしゃがみ込んでいる後ろを、レンタサイクルに乗った欧米人が
笑い声を上げながら通り過ぎてゆく。
彼らは、しばらく行ってから、不思議そうに、こちらを振り返った。
風景を焼き付けながら歩く。
太陽が真上にやってきて、地面に落ちる影が短くなる。
「サバーイディー」
前から歩いてきた学校帰りの三人組が声をかけてきた。
小学校2、3年生くらいであろうか。
唯一の女の子がお姉さんといった感じだ。
いろいろ話しかけてくるがラオス語が理解できない。
彼らの名前を聞く。
ポワン、サニシ、マイ。
それぞれの名前を日本語でメモ用紙に書いてプレゼントする。
三人は、お互いに、その紙を見せ合って笑っている。
「カップ・チャイ」
「シー・ユー」
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午後の光が、やわらかくなる。
足元の影が長くなってゆく。
良い匂いがする。
お米を釜戸で炊いている匂いだ。
ここバンビエンでも、家族で食事を囲む風景を見ることが出来る。
ラオスの人々を見ていると、自分も、しっかり生きようと思う。
しっかり生きないと、写真なんて撮れないなと思う。
川沿いにあるカフェのオープン・テラスで夕陽を待つ。
昼間の射すような日ざしが影を潜め、やわらかい風が吹いてくる。
ビールが喉の渇きを潤す。
おおきな風景を前に、深呼吸をする。
洗面道具を持った、数人の若い女性が、川辺にやってきた。
彼女達は器用に着ていた巻きスカートを上げて胸の所で留めた。
そのまま川に入って、体を洗い、洗濯をする。
時折、歓声も聞こえてくる。
何ておおらかな光景なんだろう。
水が充分に綺麗で、自然が充分に浄化作用を持っているのだ。
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少しずつカフェに人が集まってくる。
ゆっくりと時間が流れる。
風景が淡い光に包まれる。
ゆっくりと太陽が山の端に近づいてゆく。
斜めの光線に山々が浮かび上がってくる。
この風景に会うためにラオスにやってきたのだ。
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太陽が山に吸い込まれ、空はオレンジ色に染まってゆく。
数百メートルもの列になって鳥が北から南に渡ってゆく。
風景が立ち上がる。
風景が迫ってくる。
写真には写せない風景。
写真には収まらない風景。
そんな風景を心の中にたくさん持ちたいと思う。
紫色だった山の端が、黒いシルエットに変わり、その輪郭のみを風景にとどめる。
さっきまでブルーからオレンジのグラデーションだった空も、闇に変わってゆく。
気が付くと、ずいぶん高い位置に月があった。
橋の上を、家路につく人の影が通り過ぎる。
人々は、より輝く太陽を求めて、明日も歩き続けるだろう。
テーブルにランプが灯り始めたカフェを出る。
橋を渡り川の真ん中辺りまで行ってみる。
橋に腰掛ける。
足のすぐ下を水が流れる。
深くなってゆく闇に身を任せる。
川の流れる音だけが存在している。
身体の中を水が通り抜けているような錯覚を覚える。
東の空に星が賑わい始め、やがて降ってきた。
さあ、何かおいしい物を食べに行こう。
真夜中、ふと、目が覚めた。
ベットを抜け出し、外に出てみる。
たくさんの星が瞬いている。
外灯の光の届かない場所に移動すると、いっそう、その数は増える。
地面に横になる。
夜空の下で世界の中心になる。
星々が何かを語りかけてくる。
風が吹いてくる。
やしの葉がぶつかり合い、それが雨音のように聞こえる。
南東から南西に風向きが変わる。
星座が、その位置を変える。
宇宙に浮かぶ青い星を思う。
悠久の時間の中では青い星も、いつか、太陽に飲み込まれる。
悠久の時間の中では太陽も、いつか、その生命を終えて爆発する。
今ここに存在してる事を幸せに思う。
明日は何処に行こうか。
何処にだって行けるんだ。
今しばらく、この町にいよう。
そんな自由を幸せに思う。
星々が瞬いている。
それぞれが生きている
それぞれが輝いている
バンビエンでは時が止まった。
二度と繰り返すことの無い瞬間が100%だった。
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