「3000キープ払え」
トイレから出てくると人相の悪いおやじに金銭を要求される。
無視する。
「待て!待て!」
彼は、なかなかしつこい。
「100年後に持ってくるわ」
笑顔で手を振り、その場を立ち去る。
バックパッカーとたくさんの荷物を持ったラオス人が行き交う。
ほこりっぽい乾いた空気と、まっすぐな陽射し。
町はずれに作られた空き地のようなバス乗り場。
これからバスで山道を8時間。
夕方にはバンビエンに辿り着く予定。
バスの屋根には、荷物がうずたかく積まれ、ロープでくくりつけられている。
自分のバックパックの存在を確かめながら、バスに乗り込む。
座席は全てうまっているようだ。
ひとくせもふたくせもありそうなヒッピーのような風貌をした
世界中のバックパッカー達が車内に集まっている。
半分あきらめながら車内を見回していると
やたら人なつこい顔をした白人が荷物をどかして席を空けてくれた。
「サンキュー!」
良かった。
これで完璧に座席は埋まったが、それでも人が乗り込んでくる。
通路に椅子が並べられた。
屋台にあるような低いプラスチックの小さな椅子だ。
これに座って山道を8時間は辛いだろうな。
お尻が椅子の三倍はある欧米人の女性も、しょうがなく座っている。
座席に座れてホント良かった。
はじめフランス人かと思った隣の彼は、イスラエル人だった。
あいさつ程度の日本語を話せるようだ。
人なつこい顔でニコニコと話しかけてくる。
そういえば、イスラエルって兵役があるんだよな。
出発の時間が近づくと、乗車チケットのチェックが車内を回ってきた。
チケットなんか持ってないぞ。
昨夜、ゲストハウスでバスを予約したのだが、チケットは渡されなかった。
バスの時間に合わせてトゥクトゥクが迎えに来たので
問題ないだろうと思っていた。
「降りろ、おまえはバスに乗れない」
チェックに回ってきた男は、当然のように言った。
マジかよ。
ここで降りる訳にはいかない。
「ナウ・ペイ!ハウ・マッチ?」
こちらも乗ってて当然というふうに強く言い返す。
男はしばらく何か考えている。
「36000キープ」
一瞬ふっかけられるのかと思ったが正規の料金だった。
ちょうどキープを切らしていたので4ドルを出す。
昨日のレートで1ドルが9500キープ。
ほぼ同額だ。
不足はないだろう。
「ドルなら9ドルだ」
「???」
どういう計算してるんだ。
いくら話しても彼は9ドルを譲らない。
訳が分からない。
「立て替えておきましょうか」
その時、後ろの方から日本語が聞こえた。
体の大きな欧米人に隠れて気が付かなかったが、日本人が乗っていたのだ。
「ありがとうございます!」
ありがたく、お言葉に甘させてもらう。
旅先では、こういった優しさが身に沁みる。
自分も困ってる人がいたら親切にしようと思う。
おんぼろバスが動き始める。
大きなエンジンの音を出して、のろのろ動き始める。
運転席の上の時計は、10時10分を表示したまま動かない。
乗ってる人々を眺める。
髪の色も肌の色も実にバラエティだ。
いったい何カ国の人が、このバスには乗ってるのだろう。
タイ語らしき言葉で歌われているロックがガンガン流れる。
次には中国っぽい旋律を持つゆったりした曲。
これはラオ語であろうか。
運転手が自分の好きな曲を編集したカセットでも流してるのだろう。
選曲も音質も無茶苦茶だ。
急に車内に風が吹き込んでくる。
隣のイスラエル人が窓を5センチほど開けたのだ。
「スキデスカ?」
彼は、人なつこい笑顔で、のぞき込むように聞いてくる。
風を受けるのは好きなので「スキ、スキ」と答える。
彼は小刻みに少しずつ窓を開けてゆく。
「スキデスカ?」
窓を開ける度に、人なつこい笑顔で聞いてくる。
「スキスキ、ダイスキ」
とりあえず答えておく。
バスは町中を数分走ると、山道にさしかかった。
ギアがローにはいる。
急な上り坂に、スピードが更にゆっくりになる。
道路には舗装されていない場所がところどころにある。
止まりそうなくらいのスピードで徐行する。
でこぼこ道に車体は大きく斜めに揺れる。
ボコッ!
「痛てっ!」
たんまり水の入ったペットボトルが
網棚から落ちてきて、頭を直撃した。
痛ってえなあ。
ペットボトルの持ち主である、後部座席の白人女性は
謝りもせず知らん顔をしている。
くっそー。
ペットボトルを拾い上げ、網棚の奧に、無造作に突っ込む。
マジで痛かったよ。今の。
「スキデスカ?」
隣のイスラエル人が、人なつこい笑顔で、のぞき込む。
はぁー。
好きじゃないって、痛いんだよと思いながら
「スキスキ、ダイスキ」
とりあえず答えておく。
やれやれ。
でも、いい奴だな。
彼のなかでは「ALL RIGHT?」が「スキデスカ?」なんだ。
しかし、ホントいろんな人がいるなあ。
曲がフィル・コリンズに変わった。
10年以上前の曲だが
今聞いてもなかなか格好いいミドル・バラードだ。
若い頃のキース・リチャーズに似た、いかにもマリファナをやってそうな男が
ドラムに合わせてコツコツと足を踏みならす。
なかなか良い感じだ。
次の曲のイントロには耳を疑った。
やばい。
「矢切の渡し」だ。
欧米人がクスクス笑っている。
演歌が嫌いな訳じゃあないし、日本人である事に引け目はないが
このシチュエーションで、矢切の渡しは何とも気恥ずかしい。
バスは多国籍軍を乗せ、緑深い山道を走る。
細川たかしの小節がまわる。
ちなみに次の曲はビリー・ジョエル。
うーん。
ホントどういう選曲してるんだ。
ラオスの人には違和感が無いのだろうか・・・
山道は続く。
一時間ほど走っても対向車は全くない。
この辺り、数年前までは、山賊が出たらしい。
実際、襲撃されて命を落とした旅行者もいる。
外務省から危険勧告が出ていたような地帯なのだ。
一時間半ごとくらいに、運転手はバスを停める。
何もない山の中だ。
「テン・ミニッツ」
トイレ休憩。
「ピス!ピス!」
男性も女性も、それぞれ、草むらの中に入っていって用を足す。
ちょっとした平らな土地は集落になっている。
ラオス特有の高床式の家が建っている。
壁はバナナの皮で作ってあるのだろうか。
犬と豚と子供が一緒に走り回っている。
大人は膝を抱えてジッとバスを見つめている。
ここにも人々の生活がある。
人々のそれぞれの生活がある。
教科書に書いてあったような社会主義は見えてこない。
平等に富が分け与えられる理想的な社会。
人々はどんなことを思い描き生きているのだろう。
全ての命は本来、自由だ。
それを封じ込めているのは、国家や政府や主義なのかもしれない。
昼食も済み、車内は寝ている人が多くなった。
5時間程走ると、バスは坂を下り始めた。
彼方にギザギザな山が見える。
バンビエンは、あの辺りだろうか。
静かだった車内が急に騒がしくなった。
ちいさな悲鳴を上げている女性もいる。
手のひらくらいの大きさの蜘蛛が、車内を走り回っているのだ。
「殺すな。殺すな。」
ヒッピーのような風貌の男が怒鳴る。
雑誌を丸めて、窓から追い出そうとするが、うまくいかない。
蜘蛛はバスの前の方に行った。
車内は大騒ぎだ。
ラオス人のおじさんが、何事もなかったように踏みつぶした。
「シット!」
ヒッピーは、拳を何度も自分の膝に打ち付けていた。
だんだん辺りが暗くなってきた。
あまり暗くならないうちに着くといいけど。
鳥達がねぐらに帰ってゆく。
山の端がブルーからむらさきに変わってゆく。
窓の外に家がちらほらと見え始め
だんだん家と家の間隔が狭くなってきた。
バスが止まる。
やっとバンビエンに着いた。
さあ今日の寝床を探さないと。
アジアの宿は大体どの部屋もベッドがふたつあり
一部屋いくらといった料金形態だ。
バス代を立て替えてくれた日本人と、今晩の部屋をシェアする事にした。
彼は自分より一歳年上で、坂下さんという関西の人だった。
川沿いの宿に泊まりたかったが、満室であった。
そこそこ清潔で3ドルの部屋があったので、そこに決めた。
荷物を降ろすと、さっそく夕飯を食べに、坂下さんと出掛ける。
もう外は暗闇だ。
ビールを飲みながら、お互いに、今までの旅の話をする。
坂下さんは一年半くらいかけてアジアを旅するのだそうだ。
ラオスの次はカンボジアを目指す。
ちょっとビックリしたのは、彼は日本に奥さんと子供を残してきている。
そして、奥さんに黙って、家を出てきたのだそうだ。
駅のロッカーにバックパックを入れ、会社帰りに少しずつ荷作りをした。
ある日バンコクまで飛び、そこから電話をして
しばらく旅をすることを、奥さんに告げたのだそうだ。
「しょうがない人だなあ」
「いや、でも、話したら絶対行かせてもらえないでしょ」
「そりゃそうだけど、でもダメじゃん、坂下さん」
「そうだよね」
坂下さんは食事が終わると
「今日は家に電話を入れないと」と電話を探しに行った。
「まいった、まいった」
部屋でビールを飲んでいると、坂下さんが戻ってきた。
通話料は1分で4ドルだったそうだ。
話を短く切り上げたが、結局24ドルかかった。
1ドル50セントの宿泊費に24ドルの電話代。
旅費のほとんどを電話代に使いながら旅する男。
坂下正和、35歳。
いろいろな人間がいる。
いろいろな旅がある。
それぞれの旅は続く。