2002年9月10日。
6時起床。
バスを乗り継ぎ、ひめゆりの塔に向かう。
東京を出発した時点では、思いもよらなかった事だ。
今回の沖縄滞在は、粟国島にちょこっと寄り
久高島で、ゆっくりしようと思っていた。
しかし台風16号の直撃。
粟国時まで体験した。
「こんな凄いの数年ぶりだよ」
猛烈な台風は、まるまる三日間、沖縄に居座った。
台風が過ぎ去っても海は荒れ、船は出なかった。
結局、粟国島で一週間を過ごし、久高島に渡る時間は無くなった。
久高島は神の島。
琉球の始祖アマミキヨが降臨したと伝えられる島で
琉球王国時代は最高の聖地とされていた。
「久高島にはね、呼ばれた人しか行けないらしい」
そんなことを話してくれた人もいた。
今回は呼んでもらえなかったのだろうか。
ふたつの理由が思い浮かんだ。
それは、きっと、こういう事だろう。
ありのままを見なさいという事。
旅行者として訪れている段階では
その土地の本当の姿は見えてこない。
特別な部分、きれいな部分、自分に都合の良い部分ばかりを見て
それで、その土地を理解したような気分になってしまう。
粟国島に一週間居たことにより、少しではあるが
いままでは見えなかった沖縄の人々の生活が見えてきた。
それから、まず行くべき処に行きなさいという事。
沖縄を訪ねるのは、今回が7回目であるのだが
未だ、ひめゆりの塔・平和祈念公園には行った事がない。
行こうという気持ちはあったのだが、海や島や風や酒を優先していた。
私達の現在の生活は、先の戦争に命をかけた人々のおかげなのだから
まず、ここを訪ねるべきだったのだ。
そんなことを示唆するように
最終日に那覇で思いがけず半日の時間が出来た。
しかも、明日は同時多発テロから、ちょうど一年。
アメリカの問題。中東の問題。日本の問題。沖縄の問題。
全ては同じ根から派生している繋がった一つの出来事なのだ。
偶然に導かれるように早朝のバスに揺られた。
糸満のターミナルでバスを乗り換える。
摩文仁方面行きのバスは、始発にもかかわらず、10分遅れて発車した。
相変わらずの沖縄タイムだ。
台風で倒れたサトウキビ畑。
その向こうには海が見える。
のどかな風景が続く。
「ずいぶん、ゆっくりだなあ」
運転席のメーターを覗くと30キロしか出ていない。
バスは制限速度40キロの道を30キロでのろのろと進んだ。
前を走るトラクターをゆっくりと追い越す。
首輪をしてない、痩せた犬が、道路を横切る。
この辺りが地上戦が行われた最大の激戦地なんて信じられない。
バスは喜屋武岬にさしかかる。
ここは追いつめられた民間人が次々に身を投げた岬。
そんな当時の様子は全く感じられない。
かつての悲劇が嘘のように、のんびりと、うたた寝をしている。
窓からの風を受ける。
昨夜見たテレビ番組の、ある場面を思い出す。
同時多発テロ以後、アメリカ国民から圧倒的な支持を受けるブッシュ大統領。
連日の演説会も大賑わいなのだそうだ。
そこに「NO WAR」と書かれたTシャツを着た女性がいた。
その女性は、係員に両腕を掴まれ無理矢理退場させられた。
会場の人々は、その様子を見ながら「USAコール」を繰り返した。
ブッシュ大統領は満足そうに頷いていた。
何かがおかしい。
テロ以後のアメリカ国民は、愛国心が高まり、心をひとつにした。
そして、思いやりや優しさを持って人に接し
家庭を大切にするようになったのだそうだ。
確かに、それは良い事ではあるだろう。
しかし、アメリカの権力の進んでいる方向を見ていると
この愛国心が良い事ばかりには思えなくなってくる。
この団結や優しさの根本にあるのは、恐れや怒りや憎しみだ。
アメリカの人々の心は、自分の国が攻撃された時
恐怖で閉じてしまったのだ。
心をひとつにするなら、他にも方法はあるはずだ。
優しさや、思いやりは、アフガニスタン・イラク・パレスチナに対しても向けられるべきだ。
恐れを捨てられず、他者を認められず、排除してゆく。
その行きつく先にあるものは、過去の歴史的考察から明らかなはずである。
8時少し前、バスは、ひめゆりの塔に着いた。
この場所は観光コースになっているらしく
大きな駐車場を持った、お土産物屋がたくさんあった。
ある店の一角では米軍放出品を売っていた。
迷彩色の服をファッションとするのを、悪いとは思わないが
何も、この場所で売ることは無いじゃないかと思った。
しかし、これも生きてゆくために必要な、たくましさ、したたかさの表れなのかもしれない。
入り口で献花を買う。
「ここに置いて行きなさい」
背負っていたバックパックを、おばちゃんが預かってくれた。
花を持って歩く。
早朝の園内は、人影が無くしっとりと静まり返っていた。
ちいさな鳥だけが、でいごの枝を行き交い、さえずっている。
すぐに慰霊塔が見えてくる。
献花台の前に立つ。
花を供え手を合わせる。
献花台のすぐ向こうが、少女達が最期を遂げたガマ(鍾乳穴)だ。
白いサンゴの自然壕が、闇を湛えて口を広げる。
覗き込んでも底は見えない。
あまりに生々しくてカメラを向けることが出来ない。
この中で・・・
息が苦しくなる。
闇に向かって、もう一度、手を合わせる。
ガマの横には納骨堂があり少女達が眠る。
たくさんの千羽鶴が架けられている。
しばらくすると30名程の団体客がやってきた。
割合、年輩の方が多かった。
ガイドさんの話を聞きながら涙を流している人が何人もいた。
この人達は年齢的に戦争を体験しているはずだ。
大変な辛い経験をしたのだろう。
知り合いを亡くした人もいるのかもしれない。
陽ざしが強くなってきた。
いつの間にか、たくさんの蝉が鳴いている。
日陰に入る。
観光バスが着いて団体客が次々にやってくる。
深々と頭を下げている人もいれば
手も合わさずにガマの横でVサインの撮影だけして立ち去る人もいる。
「写真撮って下さい」
ジーパンを吊り下げて履いた3人組が
自分が手に持っているのと同じ一眼レフを差し出した。
「ごめん。撮れないんだ」
「えっ?」
「すまないけど、ここでシャッターを押す気になれないんだよ」
悪いなと思ったけど、そのようにしか出来なかった。
3人組は、順番にシャッターを押し合うと
1人だけが、献花台にペコッと頭を下げて帰っていった。
平和祈念公園に移動する。
この辺りも地上戦が行われた激戦地だ。
まず冷房の効いた資料館に入る。
様々な資料が並ぶ。
本土攻撃を引き伸ばす為、捨石にされた沖縄。
沖縄戦では約20万人が亡くなり、そのうち12万人が沖縄の民間人だった。
武装解除の命令が下されることもなく、戦火の中を彷徨う人々。
避難した防空壕に投げ込まれるガス弾。
集団自決。
地獄絵図が続く。
中でも民間人に対する日本軍の扱いが酷い。
言葉の違う沖縄の人を、スパイ視して斬首。
日本軍を頼って山から降りてきた子供を敵に通じたとして銃殺。
自分達が隠れる為に、防空壕から民間人を追い出す。
投降しようとする人を後ろから撃ち殺す。
次々と目を背けたくなるような事実が突きつけられる。
こんな事は二度と繰り返してはならない。
膨大な資料を見ながら、そんな思いがグルグルと頭の中を巡る。
戦争はイヤだ。
人殺しはイヤだ。
当たり前の感想しか思い浮かばない。
でも、それは全ての人の願いなのかもしれない。
資料館を出る。
海に向かって広大な空間が広がる。
刺すような強い陽射しが降り注ぐ。
同じ大きさ、同じ形の、黒い慰霊碑が無数に立ち並ぶ。
「平和の礎(イシジ)」だ。
慰霊碑には、沖縄戦で亡くなった全ての人の名前が刻まれている。
軍人も、民間人も。
日本人も、アメリカ人も、韓国人も。
ウチナンチュも、ヤマトンチュも。
仏教徒も、クリスチャンも。
同じように刻まれている。
全ての命が同じように扱われている点に共感を覚える。
平和への強い願いを感じる。
同時に靖国神社の存在に疑問を覚える。
熱心に名前を探している人がいる。
身内を沖縄戦で亡くした方であろうか。
陽射しが痛い。
木々の作る蔭がくっきりと濃い。
刻まれた名前を見ながら慰霊碑の間を歩く。
過去の悲劇に思いを馳せると同時に
どうしても今を考えずにはいられない。
平和なんて本来、意識せずに暮らせる方が良いに決まっている。
しかし、そうしてはいられない現状が世界中にある。
アメリカの標的はイラクに向かおうとしている。
たとえアメリカがフセイン政権を倒したとしても、平和は間違いなくやってこない。
同じ過ちを繰り返すだけだ。
「戦争反対」と叫んでも、政策を批判しても、現状を嘆いても何も変わらない。
では私達に何が出来るのだろうか。
祈るしかないのだろうか。
祈りは戦場に届くのだろうか。
喜納昌吉の言葉を思い出す。
すべての武器を楽器に
すべての基地を花園に
すべての心に花を
私達は恐れを捨てて心に安らぎを取り戻さなくてはならない。
死者を死者で相殺するという考えは捨てなくてはならない。
世界貿易センタービルやペンタゴンで亡くなった人々も
そんなことは望んでいないはずだ。
軍事力による解決よりも、貧困、人種差別、外国による占領といった
紛争要因をなくすのが先決なのではないか。
「平和の礎(イシジ)」は、鉄の暴風が、平和の波に変わって
世界中に届くことを願って、沖縄の人々により作られている。
そんな日は訪れるのだろうか。
気がつくと、かなりの時間が過ぎていた。
そろそろ戻らないと。
この辺りは一時間に一本くらいしかバスの便がない。
バスを乗り継いでいたら、帰りの飛行機に間に合わない。
タクシーを捕まえた。
気さくな運転手さんは、沖縄の事を色々と教えてくれた。
「ウージって知ってます?」
「いや、分かりません。何ですか」
「サトウキビの事ですよ。島唄にも出てくるでしょう。
♪ウージの森で、あなたと出会い♪ってね」
運転手さんは、サラッと2小節を歌った。
「ヤマトの人はススキと間違うみたいね。
12月くらいにススキみたいな穂が出るから。
夕日に照らされると綺麗なんですよ。琥珀色に輝いて」
そんなサトウキビ畑を見てみたいと思った。
「もうすぐ雨が降ってきますよ」
見る間に辺りが暗くなり、激しい雨がフロント・ガラスを叩いた。
スコールだ。
雨に煙ったサトウキビ畑を見た。
島唄を思い出した。
あっ!
全く気が付いていなかった。
今まで何度も口ずさんだことのある歌なのに。
この歌は、沖縄戦の歌だったんだ・・・
「島唄」 作詞:宮沢和史
でいごの花が咲き (1945年4月1日 春が訪れ)
風を呼び 嵐が来た (沖縄本島に米軍が上陸した)
でいごが咲き乱れ (4月から6月にかけて)
風を呼び 嵐が来た (米軍の侵攻が続いた)
繰り返す 哀しみは (残酷な殺戮は)
島わたる 波のよう (寄せては引く波の様に繰り返され島を覆った)
ウージの森で (サトウキビ畑で)
あなたと出会い (出会った、あなた)
ウージの下で (ガマ=鍾乳穴=防空壕の中で)
千代にさよなら (永遠のお別れをした)
島唄よ 風にのり (島唄よ 海の向こうの本土まで届けておくれ)
鳥と共に 海を渡れ (亡くなった人々の魂を、沖縄の悲しみを)
島唄よ 風にのり
届けておくれ (島唄よ 海の向こうのニライカナイまで届けておくれ)
わたしぬ涙 (亡くなった人々の魂を、私の思いを涙を)
でいごの花も散り (1945年、夏 たくさんの尊い命が散った)
さざ波がゆれるだけ (今はあの悪夢が嘘のように静かだ)
ささやかな幸せは (幸せな日々の生活は)
うたかたぬ波の花 (波の花のように、はかなく消え去った)
ウージの森で (サトウキビ畑で)
あなたと歌い (一緒に歌い遊んだ、あなた)
ウージの下で (防空壕で自決する前に)
八千代に別れ (泣きながら故郷を一緒に歌った)
島唄よ 風に乗り (島唄よ 風に乗って)
鳥とともに 海を渡れ (魂と共に 海を越えて)
島唄よ 風に乗り (あの人の居るニライカナイへ)
届けておくれ (私の愛を届けておくれ)
私の愛を
海よ
宇宙よ
神よ
命よ
このまま永遠に夕凪を (今、あなたを思い、永遠の平和を祈る)
ああ、何てことだ・・・
全く気が付かなかった・・・
この歌は象徴していた。
のほほんと生きている自分自身を。
ショックだった。情けなかった。
色を失った風景が甦ってくる。
台風で倒れたサトウキビ畑が、スコールに打たれている。
やがて激しい雨は止み、すぐに強い陽ざしが照りつけるだろう。
傷ついたサトウキビは、また立ち上がる。
太陽に向かって伸びてゆく。