略歴
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- 1977
- 埼玉県飯能市に生まれる。ただし家は隣町の日高市(当時は入間郡日高町)。なお当時法律改正で「暁」という字が人名に使えなくなる可能性があり、その場合「渚」と命名される予定だった。もしそうなっていたら人生がかなり変わったと思う。
- 1979
- 千葉県浦安市に引っ越す。今でこそまるで東京都浦安市を装っている浦安であるが、当時は町(東葛飾郡)。しかも総武線に忘れられた盲点的に辺鄙な町だった。
- 1980
- 入院する。初めて一人で夜を過ごす。病院の前の大通りを窓から見下ろしていた。「あれがお父さんの車かな」と思いながら。夜はずっと泣いていて、看護婦さんにあやされていた。
この頃、2歳年下の弟と二人で留守番する。弟が泣き出すのだが、面倒をみきれず自分も泣く。
この頃まで「井の頭線」を「うにくらやせん」と言っていた。
いとこ(女性)に連れられて、何故かいとこがその頃通っていた自動車学校へ行く。桜上水あたり(注: 当時の記憶に基づいているので不確か。下北沢とかかも…)。そんな所へ何のために行ったのかはさっぱり不明(そのいとこにきけばわかるのだが)。しかし当時まだ緑色の京王線(or井の頭線)が走っていてそれに乗ったと思う。ちなみにいとこの教習仲間からガムを1枚もらった。ロッテのレモン味のやつ。
- 1981
- 幼稚園入学。ばらぐみ。
この頃?、弟と公園で遊んでいたら、弟が迷子になる。勝手に迷子になったのが悪い。交番に保護されていた。
京都に家族旅行。何故か色々覚えている。当時、京福電鉄が廃線になるという話があったらしく、その話を母親から聞かされて思わず泣いてしまう。梅小路では、機関車によじ登ろうとするもその大きさにまた泣く。外国人の子供が上で見て笑っていた。清水焼の皿を焼く。といっても自分でやるのは色を塗るだけだが、それがうまくいかずにまたまた泣く。隣でカニの置物に色を塗っていたお姉さんがいたのだが、当時は皿よりそっちのほうがいいと思ったのと、色塗りがうまく見えたのでよけいに泣く。(以上順不同)
この頃まで毎晩夜泣きをしていた。あまりにうるさいので一度など向かいのおじさんが、夜中に二回の寝室まで怒鳴りこんできた。本人は朝にはけろっとしていて、そのおじさんに「おはようございます」などと挨拶していた。
口紅が物珍しく、よくつけては外出していた。
- 1982
- 幼稚園がいやで、多分年長組(にじぐみ)のこの頃逃げ出す。近所中大騒ぎになったらしいが、本人はどっかで遊んでいた。
この幼稚園ではずいぶん緊張していて、お弁当には毎日ほとんど手をつけなかった。しかしもっと神経質な子がいて、その子は食べたお弁当を毎日もどしていた。保母さんが手を焼いて、ある日、そのもどしたものを無理矢理食べさせた。その時の気持ちはかわいそう、と当然だ、の半々だった。
ひきがえるの卵を採取してふ化させるが、ちょうどカエルになったあたりでひからびさせてしまう。
東急東横線都立大学駅で自動改札を通ろうとしたら、扉が閉まって顔にぶつかる。死ぬほど痛かった。
幼稚園の家庭訪問(前年?)。先生に出すケーキを家で作ったのだが、ホイップクリームをひねり出して(形よく)のせる役が僕だった。うまく行かなかった……。
中耳炎にかかる。幼稚園からの帰り道で耳が痛くなる。タクシーでえらく遠くの(にしかない)耳鼻科まで連れられる。治療は死ぬほど痛くてずっと泣きわめいていた。
秩父に栗拾いいく。カエルかイナゴを見つけたが逃げられた。あと栗はかなりのが虫に食われていた。
祖母の家で足をくじく。
ビスケットとガムを一緒に食べるとガムが簡単に飲み込めることを発見。やらないほうがいいけど。
- 1983
- 小学校入学。入学式の時に着た晴れ着を、絶対汚すなと言われていたのだが、早速汚い指でネクタイにさわり、跡をつける。黙っていたら、どうやらバレなかったらしい。
自習時間中にもよおしてきて、机からはなれようとしたら「授業中に立っちゃだめだよ」と隣の女の子に言われた(余計なお世話だよ、小学生的ではあるけど)。仕方なくそのまま我慢していたのだが、当然限界が来て、おもらしした。
幼稚園まではピンクが好きな色だったのだが、この頃矯正されて、しばらくは好きだったことすら忘れていた。ピンクについては、井の頭線に(この電車の売りは、編成ごとに車両の色が違うことで、全7色ある)乗るときに、当然ピンク色の電車に乗りたかったのに乗れなかったので泣いたことがあった。
弟が口紅を塗りだしたが、兄貴風を吹かせてみっともないことはやめろと言う。
紺色を「コーン色」と間違えていて恥をかく(ってほどでもないか)。
この頃までオネショしていた。夢の中でトイレに行きたくなり、ああ間に合ったと思って目が覚めると……、というパターンが多かった。
父が「バッテリー」(車の)を買いに行くと言ったのを「バッテラ」と聞き間違えて、喜々としてついて行く。帰りに泣く(マジで)。
母への電話を受けて、受話器を渡さずにあやまって戻してしまう。その後祖母の家で電話を受けた時には、自分の姓を名乗ってしまう。
小学校へ入ったのを機に習字を習い(習わされ)はじめる。が、僕の肉筆が常識を超えた汚さなのは衆目の一致するところ。唯一身についたのは「うそ?」ときかずに「本当?」ときけと教わったこと。また、最初に、お手本をなぞれと言われて「なぞる」という言葉の意味が何となくしかわからず「上から重ねて書くんですか?」ときく。意識的に言葉を覚えた初めての経験。
良寛の伝記を読んで「そばがき」を食べたくなる。どこかで豆乳という飲み物の存在を知り飲みたくなる。どちらもその願いはわりとすぐかなえられたが、どっちもそんなに大したものじゃなかった。というか豆乳はまずいと思った(今はそれほどまずいとは思わない)。何年か後にもオートミールという食べ物の存在を知って、やはり食べてみたが、食べるものじゃないと思った。
- 1984
- 宅地造成地にできた水たまりで遊んでいて、落ちる。胸までつかった。
学校でかけ算九九を習う。口頭試験で、「ににんが?」と聞かれて「ににんしがし」と答えたらバツになった。「ににんが?」には「し」だけ答えればいいからだと。僕はどうしてもクセで「ににんがし」と言ってしまうので、何度も不合格になった。班で練習していたので、他の子から恨まれる(一人でも不合格だと先へ進めない)。当時も今も何でいけないのか理解できない。
この頃、自転車に乗れるようになる。乗り始めは嬉しくてむやみに飛ばして何かの拍子に転ぶ。
この頃、手の不自由な友達とケンカする。その時その子のお母さんに、手が不自由だからっていじめないでねというようなことを言われる。そういうつもりはなかったのだが、言われてみるとそうかも知れないと思った。
初めて、パソコン(NEC PC-9801F2)に触る。以後、キーボードでないとゲームが出来ない体になる。嫌なガキだ。
近所の飼い犬の頭をなでようとして手を噛まれる。以来犬はあまり好きではない。また、近所の野良猫を捕まえようとしてやはり手を噛まれる。以来猫もあまり好きではない(これは自業自得)。
「ジミントウ」がどこかの島と争っているのだと勘違い。それでも政党がなんなのかは理解できなかった。またそのせいか「ヨロントウ」が政党だという気がしてならない。
東京タワーの土産物屋で、指を入れるギロチンのおもちゃに無理やり指を突っ込まされて泣きわめく。刃を落とすとニセモノの指がぽろっと落ちるのだが、本当にちょん切れるんじゃないかとこわかったから。
祖母(姓のイニシャルはK)の家で電話をとって、思いっきり「はい上村です」と答える。
ハイポ(魚を飼うときに水道水に入れるやつ)をベビーフードの瓶を入れておいたら、家に来た祖母に「氷砂糖と間違えて使うところだった」と怒られる。
父がガソリンスタンドに洗車に行くのについていく。洗車の間、車から降りているか尋ねられて、乗っていると答えるが、洗車で車が勝手に(ではないが)動いて周りじゅうから水をかけられると怖くなって泣き叫んでドアを開けて降りようとする。いま思うとすごい迷惑な話だ。
近所で、その辺の家から逃げたとおぼしきインコを発見。持っていた捕虫網でつかまえようとするが見事に失敗。インコの行方は不明。
新宿駅南口で開かれていた恐竜化石の展覧会に父と弟と3人で行く。その後今度は友だちと2人で再び行く。今にして思うと何がそこまで魅力的だったのか少し不思議。たしかに好きではあるけど。
キビダンゴとはキビの実でできているからキビダンゴなのか、吉備の国の名産だからキビダンゴなのかで悩む。同じくカニクイザルとは蚊が憎いのかカニを食うのかで悩む。
高田馬場で母に頼まれてタクシーを呼び止めさせられる。回送中のタクシーに向かって手を挙げてしまったが止まってくれた。向こうもびっくりしたと言っていたが。
土踏まずが発達しすぎると、結局また扁平足になるのではないかという疑問を抱く。
- 1985
- この頃はファーブルの『昆虫記』をよく読んでいた。読みすぎて眼鏡をかけるようになる。当時裸眼視力0.2。
初恋。同級生を好きになる。が、担任の先生が何故か、小学校の同級生で結婚する奴なんかいないというようなことを朝の会かなにかで話す。かなりショックだった。そうでなくてもその子の兄さんが恐い人だった。
嫌いな女の子ができる。性格ではなくて容姿のせいだったから、自分でもよくないとは思うが、どうしても好きになれなかった。遠足のバスで隣同士になり最悪だと思った。
友達にそそのかされてタバコを吸う。が、その後担任の先生がまたもや何故か、学級会か道徳の時間で、この中でタバコを吸ったことのある奴はいるかと聞いた。全員目をつぶって手を挙げさせられたのだが、僕は黙っていた。でもその友達は挙げたらしい。
コップに入った誰かの飲みさしの紅茶を(気の抜けた)コーラと勘違いして口に含む。すごくまずかった。
みそ汁の実だけ食べて汁を残すくせがあるのを(誰かに)指摘される。いまだに直りきらない……。
学校で募金があり、母親に断った上で1000円札を1枚持っていった。すると担任曰く「それはもったいないから」と、お釣りをよこした。今なら「もったいない」という意味もうなずけるが、当時は全く納得いかなかった。
小学校の図書室の本をなくす。どうなくしたのかさっぱり覚えていない。ある日気づいたら見あたらなくなっていた。あかね書房の図鑑的な本で、非常に入手しづらかったらしくかなり怒られた。
- 1986
- 東京都八王子市に引っ越す。浦安が都会になるのはこの後。新しい環境になじめず、いじめられる。女子にも。
引っ越しの当日はひどい大雪で、浦安から八王子まで12時間くらいかかった。
一度浦安を訪れる。東西線の浦安駅から昔の自宅に行くには必ずバスに乗らなくてはならない。しかし引っ越した八王子ではしばらくバスを使わなかった。浦安でバスに乗っていたときは、いつも運転手さんのすぐ後ろの席に座り、対向のバスの運転手さんと交わす敬礼を真似してやっていた。久しぶりに乗ったそのときも、「いつもの」席に陣取ったのだが、敬礼はできなかった。その時初めて漠然と自分が変わったことに気づいた。
こどもの国?(神奈川県)でポニーの後ろ足に自分の足を踏まれる。重かったし痛かった。自分が動くと蹴られそうな恐怖を感じて向こうが動くまで待つ。なかなか動いてくれなくてしんどかった。
- 1987
- 友達が昔ピンクが好きだったと知って大笑いする。この頃は自分もかつてそうだったことを忘れていた。
脱皮中のカナヘビを捕まえて、皮をはがす。カナヘビは日焼けした後みたいに皮がむけるのでついやってしまう。
横断歩道で信号を待っていたら、前の人が信号無視をしたので、自分もついていったら、僕だけひかれそうになる。今では、子どものいる前では信号無視はしない。偽善かどうか迷うが。
バスにうっかり無賃乗車。支払わなかったことに自分も気づかなければ、運転手氏も気づかなかった。
理科の実験で使うはずだったジャガイモの葉を、ビニール袋に入れたまま学校の机の奥に数ヶ月放置。
同級生の女の子が、高田馬場の駅から見える質屋の広告塔を知っていてひそかに驚いた。知っていたことよりそれを口に出したことに。「おすもうさんと裸のお姉さんがくるくる回ってる」なんて女の子の口から聞くとは思わなかったから。
某先生に「声だけは一人前だな」と言われる。そういうわけで声変わりしなかった。
- 1988
- この頃にはいじめはおさまっていた。が、自分が知恵遅れの子どもをいじめてしまう。
体育の時に女の子が休むようになる。知らなかったとはいえ、しつこく理由を聞いてしまったのはよくない。
小学校低学年と間違えられる。
恐い夢を見て病気になる。普通に考えれば熱にうなされて恐い夢を見たのだろうが、夜寝るときには全く健康だったのに、恐怖のあまりに目を覚ましたときには病気だったので、今でも恐くて熱を出したと思っている。
家の近くにスズメバチ(僕の観察によれば恐らくキイロスズメバチ)。無謀にも友人と一緒に攻撃する。友人だけ刺される。別に命に別状はなかったらしい。今でもピンピンしているはずだ。
雪が降った翌日、登校時に校門前で派手に転ぶ。尾てい骨が折れたかと思った。実際そうとう長く痛みがひかなかったので折れてたのかも……。
通っていた某有名進学塾の校舎の前でニュース番組(?)のインタビューを受ける。後日小学校の隣のクラスの人間に「今朝、テレビに出てた」と言われた。しかしどういう出方をしたのかは全く不明。
近くの駐在所に学芸会か何かの案内状を持っていくお使いをさせられる。いま思うともうちょっとうまくやれたんじゃないかという気がして残念。
クラスの某M女史が朝っぱらの授業中に「コロコロポロン」の歌詩をノートに書いていたのを先生に発見される。怒った先生はそれを黒板に書き出したためMさんは泣き出してしまった。その子のことは嫌いだったけどやりすぎだと思った。
宮沢賢治の全集を読破しようと試みる。最後の2、3巻を残したところで卒業してしまった。
- 1989
- 小学校卒業。卒業式は嫌で出なかった。以後一度も出ていない。
私立暁星中学入学。最初の授業の日に、ほとんど全ての先生に名前を呼び間違えられる。いまだに直接書く気にはなれないのだが、音読みされた。以後6年間(中高一貫なので)のあだ名がその時点で決定する。一部の人間には今でもそう呼ばれるが、最初の頃は耐え難かった。そういうこともあっていじめられる。
カレーと一緒に炭酸飲料を飲むと非常にまずいことを発見。
英語があまりにできなさすぎて、授業中に泣く。マジで。ただ高校に入る頃から急にできるようになってきた。語学は継続が物を言うと思う。
部活の合宿で二日目の朝起きたら前日夜寝たときと頭と足の位置が逆転していた。こんなに寝相が悪いのは後にも先にもこれっきり。
- 1990
- アリの巣を掘り返して、タマゴを食べてみる。噛まずに飲みこんだので(噛むほど大きくない)、味は不明。その前にアシナガバチの巣を手に入れ(蜂を追い払って)、幼虫を食べようとしてさすがためらわれてやめた経験があったので、今度こそ食べることにした。
友達と二人で一週間旅行する。二人の旅行は絶対するもんじゃないと思う。
夏休みに三省堂書店新宿店で3時間立ち読みする。いまだに最長記録である。この頃は西村京太郎をよく読んでいた。
『三国志』(岩波文庫版)の第6巻を拾う。途中から読んだにもかかわらず死ぬほど面白くて、全巻揃える。後に吉川英治版の第5巻もやはり拾うが、絶対小川環樹の訳が優れていると今でも思っている。
右後頭部に円形脱毛症ができているのを床屋で発見される。原因はストレス?
合宿の帰り、盛岡で上り急行「八甲田」を待つために、夜の街をうろついていたら、ほろ酔い加減のおじさんに「塾の帰りか?」と道で尋ねられる。事情を説明するのも面倒くさいため、「はい」とだけ答える。えらいな、だかがんばれよとか言われた気がする。
- 1991
- 西村京太郎に飽きる。代わりに陳瞬臣(字あってる?)を読むようになる。
小学生と間違えられる。
友人の学校のロッカーのダイヤル錠の組み合わせを休み時間を利用して全部試してみて途中で開ける。8484だったか? 言ったら死ぬほど怒った。
電車の中で(京王相模原線稲城―京王よみうりランド間)、全く見知らぬ高校生のグループに声をかけられる。「君って弟いるでしょ? お父さんって眼鏡かけててかくかくしかじかな感じでしょ?」と尋ねられる。たしかに僕自身、父にも弟にも似ているんだけど、ここまで似ているとは思っていなかった。
- 1992
- 中学卒業。卒業文集には「昔町中を歩く高校生はひどくかっこよく見えた。なのに今自分は高校生になろうとしているが、自分はその当時と全く変わった気がしない」というようなことを書く。
陳瞬臣にも飽きる。代わりに宮脇駿三を読み出す。
山形県置賜郡小国町でカメラ用三脚をなくす。
- 1993
- 宮脇駿三にも飽きる。代わりに塩野七生。
鉄道模型のトミックスが季刊で出している『キロポスト』(当時100円)をタダだと勘違いして、結果的に万引きする(新宿東口のさくら屋ウォッチ館で)。
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を定期試験直前に読む。明らかに失敗だった。
中学生と間違えられる。
朝の通学時に猛烈な便意を催して(大きいほう)、調布あたりからずっと脂汗を垂らしながら学校の教室に駆け込む。教室に戻ってきたときにはHRが始まっていたがわけを話したら遅刻にならずにすんだ。
- 1994
- 塩野七生にも飽きる。代わりに古典的な名作文学をよく読む。芥川龍之介など。受験生のくせにJ.R.R.トールキンの『指輪物語』を再読し始める。無謀だ。
登校時、九段下駅のエスカレーターを登り切ったところにブラジャーが落ちているのを発見。白。下校時、隣を歩いていた女子高生2人連れの話によると、小さくて中学生くらいので、汚かったそうだ。
多少太っていたので、ダイエットを試みる。単にスナック菓子(しょっぱい系)を食べるのを一切やめただけだったが、それだけで結構体重が減った(効果が出るまで時間はそれなりにかかる)。以後2002年現在まで全く食べていない。
しゃっくりを連発しながらブティック(購買)でノートを買い、店の姉ちゃんの失笑をかう。
- 1995
- 上智大学文学部史学科に入学することになる。その直前の3月に、アメリカ人の遠縁の親戚に、ヨーロッパ史を専攻するなら、ミッションスクールは絶対駄目だと面と向かって言われてショックを受ける。しかもそれを否定できなかった(今でも)。
インターネットを利用し始める。最初にネットニュースから入ったのはその後の方向を決定したと思う。
日記をつけ始める。毎日とはいかないが、今でも続いている。
ドイツ語の試験で独和辞典が持ち込み可だったため、巻末の和独をこっそり使う。
母校に行ったら、新任の体育教師に呼び止められる。「お前、私服で学校に来たのか?」「僕、OBなんですけど」「あ、そう。そりゃご苦労」
- 1996
- 上記のショックで大学では高校の時より真面目に勉強していたと自分では思う。
この頃まで毎年一回はなんだかんだで泣くことがあったのだが、確かこの年は一度も泣かなかったと思うし、それから後も一度も泣いていない。ただ、ひょっとして自分が無感動になってしまったのではないかと、ちょっと不安。
フランス語の先生に、歴史学は所詮文学だと言われる。確かにある意味で正しいのだが、本当にそうなのか今でも考えている。
フランス人は文盲でもリエゾンできるという画期的事実に気づく。
高校生と間違えられる。もっとも電話だと父親と間違えられる。
- 1997
- アルバイトでプログラマ(VB)をする。あるソフトのバージョンアップを手伝ってもらいながらも一人でする。今まで唯一まともに人に役立つことをやったと思う。ただし、ああいうコードのソフトが市販されているのは恐いかも。今でも手直ししたい気分になることがある。
ノートを写させてくれと同じ学科の女の子に言われて困る。なぜなら字が汚すぎて写す際に見られるのがヤだし、そもそも見ても何が書いてあるか判然としないから。
- 1998
- 自分はそろそろ結婚できる歳であるが、と言うことは自分が昔あれほど頼りきっていった両親は、今の自分とそう変わらないんだと思う(実際にはもっと年上だったが)。
足を踏ん張ったとき、小指が他の4本から離れる(薬指との間に広い隙間ができる)のが変と弟に指摘される。これは右足で顕著で左足ではそれほどでもない。しかし変か?
- 1999
- 卒業論文の口頭試問をすっぽかす。相当間抜け。それでも上智大学卒業。
一橋大学大学院社会学研究科修士課程地域社会研究専攻入学。
またプログラマのバイト。
- 2000
- 母校に教育実習に。しんどかった。終わったときの達成感は相当なもの。帰り道で思わず泣きそうになったくらい。
- 2001
- またまたプログラマのバイト。リストラでくびになる。
- 2002
- 自動車学校に行く。第1段階で30時間近く乗って卒業できないんじゃないかとあせる。
一橋大学大学院修了。