イングランド紋章官人名録
注記
- Godfrey 1963所収のH. S. London による人名録による。(Internet Archiveにて入手可。)
- (修士論文)本文中に登場する(判明する限りの)全ての紋章官と、1680年頃―1740年頃の全紋章官を収める。ただし14世紀前半頃までの本文以上の情報に乏しい紋章官は除く。
- 伝記作成にあたり参照した文献が記載されていたが、本邦では入手しにくいものや未出版のものが多い上、あまりに煩瑣なためここでは省略。
- 「→」はその人物の伝がこの付録に収められているの意。
- 紋章院の13名以外の紋章官の職名は英字表記。
略号
叙 叙任 created
任 任命 appointed
指 指名 nominated
勅 勅許状
令 令状 warrant
保 保証書(?) docquet
覚 覚え書き(?) bill
誓 宣誓
給 給料
縮約
BM British Museum
Coll. of Arms College of Arms
DCL Doctor of Canon/Civil Law
DNB Dictionary of National Biography
EM Earl Marshal
FRS Fellow of the Royal Society
FSA Fellow of the Society of Antiquaries
H & H Wagner 1956
PSA President of the Society of Antiquaries
RA Royal Academy
VC Victoria Cross
アシュモル、エリアス Ashmole, Elias
ウィンザー 勅1660年7月3日、誓8月10日、辞1675年7月9日
1617年 Lichfield 生。馬具屋 Simon Ashmole の息子。恐らくオックスフォード大学アシュモリアン博物館 Ashmolean Museum の創設者として、また The Institution ... of the Order of the Garter (1672年)の著者として最も知られる。多大な才能と紋章官以外の多くの職務と活動に携わる限りない熱意を持つ。忠実な王党派、王政復古時ウィンザーへの任命と、内戦以前からの紋章官 Owen 、 Ryley の直後という特別の序列によって賞される。以後紋章学と尚古学の研究に集中。1664-5年クラレンスー代理として Berkshire 巡察、その際の覚え書きは The Antiquities of Berkshire (1719年出版)の基礎をなす。1675年7月9日辞職、他の幾つかの職に取り組むため。1692年5月18日没。South Lambeth Church に埋葬。
自然学者 John Tradescant の1662年の死に際し、アシュモルは彼の骨董品コレクションを獲得、これが1672年オックスフォード大学に寄付されたコレクションの核をなし、彼は特に建てられたアシュモリアン博物館に住んだ。彼の占星術、錬金術、紋章学、同様の事柄に関する1000巻以上の手稿コレクションは現在 Bodleian Library に。
アンスティス、ジョン Anstis, John
Carlisle 指1707年5月17日、職名は翌日ノーフォークに変更
Norfolk 指1707年5月18日、叙任されず。
ガーター 将来享有権の勅1714年4月2日(玉璽1714年2月7日、更新3月25日)、誓1719年3月29日
紋章院所属者で最も学識のあるうちの一人。1690年 Cornwall 生。St Neots 教区、 Duloe と Lunna 在 John Anstis の息子。オックスフォード大学エクセター・カレッジに学ぶ。1702-22年 Cornwall の様々な選挙区から庶民院議員選出。1722年ミドル・テンプルのベンチャー Bencher 。1700年EMは彼に紋章院の蔵書と記録の利用許可を与える。1707年まずカーライルに、次にノーフォークに指名、しかしどちらの職にも叙任されず。1714年ガーター職将来享有権の勅許状取得、しかし1715年に空位になった際には→ヴァンブルーが指名される。当時アンスティスはジャコバイトの疑いで獄中にいたが、1714年の勅許状によりガーター職を要求。最終的な決定は彼を選び(1718年4月20日)、彼はガーターとしての宣誓を1719年4月に行う。1729年彼と彼の息子を共同ガーターに任命する新たな勅許状取得。1744年3月4日 Surrey 州 Mortlake 没。Duloe に埋葬。
1725年主に彼の教唆により沐浴騎士団 Order of the Bath 設立、同年彼はObservations ... on the Knighthood of the Bathを出版。内容は以前にThe Curia Militaris, The Honor of Earl MarshalとThe Form of the Installation of the Garterとして出版されたもの。しかし彼の最も重要な著作はThe Register of the Order of the Garter (2 vols., 1724年)であり、これは記録簿それ自体に加えて、紋章官と紋章学についての非常に価値ある情報を含む。彼の厖大な手稿コレクションは現在大英博物館、紋章院その他に散在。
アンスティス、ジョン Anstis, John, LL.D., FSA
Blanc Coursier 1726年1月14日
ガーター 父との共同保有の勅1727年6月9日、誓1730年6月18日、単独ガーター1744年3月4日より
1708年ロンドン生。ガーター紋章王→ジョン・アンスティスの長男。オックスフォード大学コルプス・クリスティ・カレッジに学ぶ。1725年5月、沐浴騎士団付系図学者、1726年1月14日ブラン・クルジエ紋章官(前記系図学者職に付随する職)。1736年FSA、1749年オックスフォード大学法学博士、1749年ミドル・テンプルのベンチャー Bencher 。1744年単独ガーター。1754年12月5日 Mortlake 没。Duloe に埋葬。
一般的には有能な人物と見なされるが、→ウォーバートンは、恐らく腹いせに、彼は「その事柄(紋章学)について全く知らないということで著名であるにすぎない」と言った。
彼のブラン・クルジエ及びガーターとしての上着と他の記章はヴィクトリア・アルバート美術館に現存。ブラン・クルジエの上着は当時沐浴騎士団の第一及び首席勲爵士だった Cumberland 公の紋章で飾られている。
ヴァンブルー、サー・ジョン Vanbrugh, Sir John
カーライル 指1703年4月頃、国王令6月14日、叙25日
クラレンスー 指1704年1月7日以前、勅3月29日、叙4月3日
ガーター EM令1715年8月22日、御璽10月20日、任命完遂されず
有名な建築家、劇作家。1664年生、 St Nicholas Acon の教区牧師により両親の家で洗礼。ロンドンと Chester 在精糖業者(sugar-baker) Giles Vanbrugh の成人した最年長の息子。母 Elzabeth は Surrey 州 Imber Court 在 Sir Dudley Carleton の末娘で共同相続人。彼の祖父は Ghent からの新教徒亡命者。Chester の King's School とフランスで学ぶ。第13歩兵連隊将校任官。 Castle Howard の建築者としての働きへの謝礼として、EM代理 Carlisle 伯は、紋章院の抗議にも関わらず、彼を1703年カーライルに、1704年クラレンスーに指名。1706年→セント・ジョージ代理としてハノーヴァーへのガーター使節。1714年9月9日ナイト。1715年→セント・ジョージに代わるガーターに指名、しかし→アンスティスは、自らの将来享有権の勅許状の効力により彼の手続き停止を申請、1719年勝利。その間ヴァンブルーはガーターとして振る舞い、「ガーター被指名クラレンスー紋章王」と勅許状にサイン。1725年2月9日£2000により、→ノックス・ウォードを後任として辞職。1726年3月25日 Whitehall 没。Walbrook 、 St Stephen's の一族地下納体堂に埋葬。
紋章学、系図学の知識を有せず。これらを嘲笑し、職務を怠った。→デールは紋章院の彼の部屋に住んでいた。
Kit-Cat Club 会員。
肖像画が紋章院、国立肖像画画廊に現存。
ウィンイェーツ、チャールズ Whinyates, Charles
リッチモンド 勅1722年11月3日、辞1737年10月14日
Derby 州 Chellaston と Peterborough 在。後 Westminster 、 St John Evangelist 在。1690年2月10日 St John's Peterborough にて受洗。1711年テンプル竜騎兵隊 Temple's Dragoon にて少尉。1713-5年近衛衛兵 Coldstream Guards 中尉。1722年リッチモンド。1727年 Chellaston と Peterborough の地所を売却。1737年10月14日辞職、負債返済の助けとして£500にて→レーンに売官。1742年9月存命。
→スティーヴン・マーティン・リークによれば、紋章官になるのに彼より低い資質を持った者はいないのに、彼は厚かましさだけで紋章官として在職中誰よりも多くの金を得た(Coll. of Arms MS. SML. 65, p.103)。
紋章学に関するかなりの数の書籍(幾つかは彼の手による)を持ち、 Stundley 王立図書館に現存。
ウィングフィールド、ジョン Wingfield, John
リッチモンド 「指」1657年6月
ポートクリス 国王令1660年7月23日、玉璽27日、誓8月10日
ヨーク EM令1663年6月27日、覚7月18日、保25日、国王令10月21日、辞1674年12月22日
1619年頃生。Rutland 州 Tickencote 在 Sir John Wingfield の三男。→小サー・ヘンリー・セント・ジョージの妻 Elzabeth Wingfield のまたいとこ。ヨーク紋章官 G. Owen の娘で相続人メアリ Mary との、また大サー・ヘンリー・セント・ジョージの義姉(妹) Rebecca Dayrell との結婚によってセント・ジョージ家との関係を持つ。ある弁護士に学ぶ。1641-8年国王軍騎兵大尉、しかしクロムウェルによりリッチモンド指名。王政復古時ポートクリス、 Owen の辞職に際しヨーク。Berwick の収税吏。1674年12月22日病と負債によりセント・ジョージの別の親類→デヴェニッシュに売官。1678年12月30日王座裁判所監獄没。Southwark 、St George's に埋葬。
ウォーカー、サー・エドワード Walker, Sir Edward
Blanch Lyon 国王令1635年5月24日
ルージュ・ドラゴン 勅1637年5月19日、叙6月5日
チェスター 勅1638年1月31日、叙2月8日
ノロイ 任1643年後半、御璽1644年4月、勅6月14日
ガーター 誓1645年1月17日、勅2月26日、叙3月25日
1611年1月24日 Somerset 州 Nether Stowey 、 Rooberts 生。Roobers 在 Edward Walker の次男。初め徴発部局 Office of Purveyance で雇われる。1633年EM Arundel 伯に仕える。1635年ブランチ・ライオン、以後ルージュ・ドラゴン、チェスター。1636年レーゲンスブルクへの使節に際し Arundel 伯に随行(報告は Crowne による)。1639年 Arundel のスコットランドへの遠征に際し戦時秘書官。1640年 Carlisle 要塞主計官 Paymaster 。
内戦中ほとんど常時チャールズ1世に、後追放中のチャールズ2世に従う。枢密院臨時書記 Clerk Extraordinary of Privy Council 、戦時評議会秘書官 Secretary to Council of War 、国王資金総管財人 Receiver General of the King's moneys 、戦争担当秘書官 Secretary for War 。1643年ノロイ。1644年11月オックスフォード大学名誉文学修士。1645年ガーター、同年2月2日ナイト。1645年クラレンスーとノロイ職のガーターへの統合を提案。1649年追放中のチャールズ2世のために何度かガーター使節。
1660年紋章院における復職(→バイッシュ追放)、評議会 Council 書記、グレイズ・イン加入。1660-1年 Le Neve 発狂のためクラレンスー代行(国王令1660年7月20日)。彼と後継のガーターをアメリカの国王植民地紋章王とする勅を請願するも不首尾。1663年ブランデンブルクへのガーター使節(1668年スウェーデンとザクセンへは、ヘンリーとトマス・セント・ジョージがそれぞれ代理)。1675年 Stratford-on-Avon 、 New Place のシェークスピアの家を購入。1677年2月20日 Whitehall 没。Stratford 、 Lady (or Clopton) Chape に埋葬。
唯一の子 Barbara は Stratford 近郊 Clopton 在 Sir John Clopton と結婚、彼らの三男→ヒューはルージュ・ドラゴン。
チャールズ1世、2世の忠節かつ有能な従者、また有能な紋章官。しかし1653年 Sir Edward Nicholas は彼をしつこく、野心があり、愚かで、自分自身の目的だけのために研究していると見た。Clarendon 卿の意見も同様。晩年尊大で好戦的、国王への自らの奉仕を頼みEMや地方紋章王としばしば不和。
歴史学的著作(DNB参照)の他 An Account of the Coronation of Charles II (1820年印刷)を著す。
彼のコレクションの多くは現在紋章院にあり、それは48の紋章認可の原本(1673年贈与)、 W. Le Neve の紋章学の分野の幅広い文書を含むWAからW&までの25の大部(1677年贈与)、彼の紋章認可の2つの文書、そして貴族達の紋章の図である 'Walker's Arms of Nobility' を含む。ガーターとしての後継者達に2冊のガーター騎士団に関する本、2巻の貴族の紋章集、戴冠式の本1冊を遺贈。
肖像画は紋章院(Wm. Dobson による)とシェークスピア生誕地に。
ウォード、ノックス Ward, Knox
クラレンスー 勅1726年6月9日、国王令13日
Middlesex 州 Hackeney 、 Suffolk 州 Ipswich 近郊 Wolverston Hall 在。1703年頃生。悪名高い商人 Hackeney 在 John Ward、元 Ipswich 選挙区選出庶民院議員の息子。父はさらし台の刑に処された時、自分の息子が自分の横に立つことを要求した。オックスフォード大学ニュー・カレッジに学ぶ。1721年18歳で入学。1726年→ヴァンブルーより£3000(£2000?)でクラレンスーの位を購入、しかし(→リークによれば――上村)彼は「紋章学の才を全く」持っていなかった。1741年9月30日 Wolverston Hall 没。38歳。同地教会に埋葬。
1729年7月 Elizabeth Nettleton と結婚。同年 Hackeney 在 Holt 嬢に婚約不履行のかどで訴えられる。「ノックス・ウォード、エスクワイヤ」として訴えられたため、彼の勅許状によればクラレンスーは彼の名前の一部であり、彼の名前が不適切に書かれているという弁護により訴訟は却下された。1732年ホウルト嬢は彼を「ノックス・ウォード・クラレンスー」として再び訴え、£2000の損害賠償を勝ち取る(2 Strange 850, 937)。
ウォーバートン、ジョン Warburton, John, FRS, FSA
サマーセット 任1720年6月6日、勅18日、叙24日
1682年2月28日 Lancashire 、 Bury 生。同地在 Benjamin Warburton の息子。Chester 州 Warburton と Arley 在ウォーバートン家の子孫であると主張。1705-18年消費税部局 Excise Department 勤務。1719年3月FRS.、1757年会費不支払につき除名。1720年1月13日FSA、退会(除名?)1752年以前。1720年サマーセット。1759年5月11日紋章院没。 Paul's Wharf の St Benet's に埋葬。
息子 John は尚古家 Edward Rowe Mores の姉妹と結婚、紋章院の職を志望するも不首尾。
出版物は、1716年他 Northumberland 、 Yorkshre 、 Middlesex 、 Essex 、 Hertfordshire の地図、1749年 Middlesex の地図(余白にジェントリーの紋章付)、その精度を彼は London and Middlesex Illustrated で擁護、1753年 Vallum Romanum (ローマ人の防壁 Roman Wall の歴史、ほぼ全て Horsley 著 Britannia Romana よりの引き写し)。
書籍、手稿の多大なコレクションを遺し、それらは彼の死後競売される。その際63群の手稿は Norfolk 公 Edward により£65で紋章院のために購入、即ち15巻の巡察の手稿、5冊の家系図、3冊の図形紋章鑑、11巻の紋章、4冊の認可状の摘要、5冊の差その他のコレクション。これらは→モーデュイットの5巻の'E.D.N. Alphabet'を含む。しかし Simon Segar の'Baronagium Genealogicum'は Edmondson により購入、1860年に紋章院へ。彼の Berkshire 、 Cornwall 、 Hampshire に関するコレクションは尚古協会へ、 Dr John Evans により1886年寄付。
有能かつ勤勉、しかし教養が少なくうぬぼれ屋、嘘つき、不誠実、ほとんど常に同僚と険悪な関係。→リークは彼を第二の→ラルフ・ブルック、ただしブルックの判断力と紋章学の知識抜きで、と見なした。Grose, Olio, p.158その他における描写はかなり戯画的、しかし彼についてよく言う者はいない。恐らく最も好意的な評価は彼の友人William Stukeley によるもの、即ち「素晴らしい(幾つかの)性質とそれと同等の勤勉さ、それらと同等の自尊心を持ち、他の素晴らしい才能と同じく、常識以外の全ての分別を持ち、人間について何も知らなかった。友人関係において気まぐれ、馬車の中で傲慢、ごまをするのに過度に執着、彼の名声と評判への愛着は彼の全ての情熱に勝る。これが彼の飽くなき努力の動機である」(Bodleian MS. Eng. Misc. e. 260、Joan Evans, History of the Society of Antiquaries, p.51に引用)
カーライル、クリストファー Carill, Christopher
Carlisle 1486年ミクルマス頃
ノロイ 勅1494年2月21日
クラレンスー 指1510年11月4日、勅を通らず
Sir William Carlill の息子で、またガーター紋章王 Barker の母 Joan 、従紋章官 Charles 及び Thomas Carill 達の兄弟と言われる。
カーライル紋章官としてヘンリー7世第2-9年にかけしばしば登場。時として彼が従紋章官と呼ばれていることから彼が同じ称号で以前に従紋章官だったことが考えられる。
1494年ノロイ。1510年11月4日クラレンスー指名の玉璽文書を得るが、勅を得ないまま1511年1月8日没。1510年12月 Richmond に居住、しかし Brentford に埋葬。彼の妻は旧姓 Malory で、1507年8月13日没、 Grey Friars に 'Alicia Carlelle alias Norre' として埋葬。
カーライルまたノロイとして、スコットランド、フランス、フランドルへの使節に幾度か遣わされる。
1490年頃類い希に興味深い、北部の巡察を行ったのは恐らく彼。H & H pp.106-7.
ギボン、ジョン Gibbon, John
ブルーマントル 指1670年11月か12月、勅1671年2月23日、国王令4月16日、叙5月21日
1629年11月3日生。Kent 州 Rolvenden 在 ロンドン市民で反物商人 Robert Gibbon の息子。Merchant Taylors' School とケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに学ぶ。1659年ヴァージニアへ移民、しかし1661年イングランドへ戻る。50年近くもブルーマントルだったが昇進せず。1718年8月2日、89歳でブルーマントルのまま、ロンドン、 Ivy Lane (St Faith 教区)没。St Mary's Aldermary に埋葬。以前「ロンドン塔近傍 St Catherine's の Cattshole 」に住む。
ダグデイル及び似たような立場の人と友人。多くの言語に堪能と評判、しかし尊大で、紋章院の書籍に同僚をけなす覚え書きを走り書きするくせがあった。一度以上停職。ハーン Hearne は彼を「風変わりで頭がおかしい」と見ている。
Introductio ad Latinam Blasoniam (1682年)と Day Fatality (1678年)の著者として最も知られ、どちらも個人的な委細について多くを含む。また'Inquisito sincera facta in Collegium Fecialium anno 1673'または'Heraldo Memoriale'の題による、同時代やその他の紋章官に関する興味深い覚え書きを編集、これは→アンスティス、→リーク他によく引用される。彼所有の手稿で現在紋章院所有の'Gybbon's Ordinary'は10の紋章鑑の編集。
歴史家エドワード・ギボンは誤って自らをこのジョンの兄弟の子孫であると主張。
キャムデン、ウィリアム Camden, William
リッチモンド 叙1597年10月22日
クラレンスー 叙1597年10月23日、勅1599年6月6日
「博学なる」と呼ばれる。1551年5月21日ロンドン生。Lichfield 在画家・染色家 Sampson Camden の息子。1575年ウェストミンスター校副校長 Second Master 。1593-1610年同校長 Head Master 。インナー・テンプル加入。Salisbury 名誉参事会員。画家・染色家組合親方。オックスフォード大学キャムデン歴史学講座創設。旧尚古協会会員。彼の論文の幾つかは Hearne, Curious Discourses (1720)所収。1623年11月9日 Chislehurst 没。Westminster Abbey に埋葬。
Britannia (1586)、 Remaines concerning Britaine (1605)、 Annals of Queen Elizabeth (1615, 1627)他の著者。多くの紋章学関連の本と手稿をクラレンスーとしての彼の後継者に遺す。
1597年クラレンスー任命、その前日に形式上クラレンスー叙任。その新しい職において極めて活動的、1621-23年代理により20州を巡察。無理からず、彼の任命は何人かの他の紋章官を不快にさせた。ヨーク紋章官→ラルフ・ブルックは特に被害を受け、1599年 Britannia に対し、彼の Discoverie of Errours で激しく攻撃する。キャムデンは Britannia の1600年第5版で答えるが、ブルックの反論は1724年まで印刷されなかった。
キング、グレゴリー King, Gregory
ルージュ・ドラゴン EM令1677年4月25日、叙5月24日
ランカスター 保1689年6月、勅7月7日、国王令1690年1月3日、叙17日
1648年12月15日 Lichfield 生。同地在 Gregory King の息子。14歳の時に当時ノロイ紋章王の→ダグデイルの書記となり、1663年から彼の巡察に随行。1667年 Hatton 卿に仕える。1672年版画家、地図製作師等としてロンドンで働く。1677年ルージュ・ドラゴン、後ランカスター。1681-3年クラレンスー代理として8州を巡察。1687年紋章院による Anglesey 伯の手稿(Philipot コレクションを含む)の購入に際し、折衝役(費用の半額£25を前払い)。何度かガーター代理。陸軍会計支払官秘書。→ローレンス・クロンプの伯(叔)父。1712年8月29日没。 Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。
紋章官、系図学者、製図家、地図製作師、統計学者、都市計画家として著名。彼にちなんで命名された(ロンドンの――上村)キング(現在 Soho )広場、 Greek St の基礎を築く。彼はクラレンスーかガーターへの昇進に十分に値し、不運にもそれを得なかった。
彼の二番目の妻 Frances は初代 Coventry 伯の二番目の妻 Elizabeth Grimes or Graham の姉妹。キングはこの姉妹が Norton Conyers 在 Grahams の子孫であると主張し、この Grahams の紋章は同伯の葬儀の際に、また彼の像に示された。しかし第二代同伯はキングを騎士裁判所にて自分の継母に対し「根拠のない祖先を考案した」として責め、彼女は実際には初代同伯家政の奉公人の一人で、ただの舵手 Richard Grimes の姉妹であると言った。結末は不明。分配記録 Partition Book は彼が1703年、1707年、1710年に停職していたことを注記しているが、理由は不明。
(さらなる詳細、彼の出版物の題名、未出版の写本についてはDNB参照)
クート、トマス Coote, Thomas
Rose Rouge 国王令1702年4月12日
1693年頃 Essex 州生。Ulster 、 Cavan 州 Coote Hill 在 Thomas Coote の息子。母 Ellianor はガーター紋章王→サー・トマス・セント・ジョージの娘。イートン校とダブリン・トリニティ・カレッジに学ぶ。歩兵連隊大尉。1718年4月没。
クック、ロバート Cooke, Robert
Rose 叙1562年1月25日
チェスター 勅1562年1月29日、叙2月8日
クラレンスー 指1567年3月、勅5月21日、国王令26日
ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ文学修士。系図学者 Sir Edmund Brundenell に養育されたと言われる。後 Robert Dudley 卿の侍従。ローズとしての叙任は4日後のチェスターへの勅のための形式的なものであり、5年後クラレンスーへ昇進。1584年デシック親子の間の期間ガーター代行。
彼の流星のような昇進と彼の職への適合性による成功は、同僚の嫉妬を呼んだに違いなく、彼らの彼の人柄の公私両面への攻撃は、割り引かねばならない。
有能な紋章図師。Walpole は、彼が Suffolk 州 Cockfield Hall にあるヘンリー7世他の肖像画を描いたと考えている。系図学者として年の若さに苦しみ、彼による系図の多くは近代の批判により覆された。巡察担当者として熱心。Hervy の代理として4州を、クラレンスーの代理として26州を巡察、うち19州は1人で。→ラルフ・ブルックは、彼が500件の紋章認可を行ったと主張するが、それは誇張だろう。イングランドの男爵名鑑を編集(Royal MS. 18, C. 17 etc.)、また紋章認可他についての概説を執筆。紋章学とそれに関連する多くの手稿のコレクションを遺し、それらは10または12の、中世の紋章鑑のほとんどは彼自身による複製を含む。多くの彼の手稿は彼の死に際し紋章院により購入。
1593年8月 Hanworth 没。同地に埋葬。彼の娘で相続人 Catherine は Cheshire 、 Shavingon 在 John Woodnoth の妻。
グラハム、リチャード Graham, Richard
ルージュ・クロワ 勅1722年8月2日、辞1725年7月10日
グリーン、ジェームズ Green, James
ブルーマントル 勅1719年6月3日、誓24日
1683年頃生。→サー・ヘンリー・セント・ジョージと→アンスティスの両ガーター紋章王の書記。1737年9月4日紋章院没。Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。有能で勤勉、しかし容姿にだらしなく浪費家。破産状態で没。
グリーン、チャールズ Greene, Charles
Arundel 叙1727年10月9日
ランカスター 任1729年12月8日、叙18日(叙1730年1月28日?)
Yorkshire 、 Sheffield 近郊 Ecclesfield 在。William Greene の年下の息子。母 Alice Smithson 。 Northumberland 公縁戚。1702年生。1743年1月14日没。 Ecclesfield 教会埋葬。一時 Law (フランスにおけるミシシッピ計画企画者)のために働く。Law の没落後アランデル、後ランカスター。→スティーヴン・マーティン・リークによれば、彼はジャコバイトで「気前のいい、善良な性格の男で、良い官吏だったが、全ては酒の中に溺れた。彼は何でも、何時でも、どこでも、誰とでも飲めた」。
グローヴァー、ロバート Glover, Robert
ポートクリス 勅1568年3月23日
サマーセット 勅1570年12月29日、叙30日
ノロイの将来享有権の認可 玉璽1580年3月3日、勅9日
1544年 Kent 州 Ashford 生。同地在 Thomas Glover の息子。1568年ポートクリス。1580年3月9日舅 William Flower はグローヴァーにノロイの将来享有権を認可する新しいノロイの勅を取得。これは批判を呼びグローヴァーは紋章官は常に年功によって昇進するわけではないという証拠を提出させられた。しかし Flower は彼より長生きし、グローヴァーは1588年4月10日ロンドン没。未亡人と5人の子を遺す。Cripplegate 、 St Giles に埋葬。彼の姪 Susan はサマーセット紋章官 John Philipot と結婚。
1570年4月7日 Flower は彼を自分の地方の巡察代理とし、1585年までの間に彼は、1人でまたは Flower とともに6または8州を巡察した。1582年デンマーク、1584年フランスへのガーター使節に随行。
優れた学者、専門的技能に卓越、不断に研究。Round でさえ彼を「自らの研究への忠誠と努力故にエリザベス朝の彼の同輩より名誉ある栄誉に賞される」と見なしている。彼の手稿コレクションは大部分彼自身の作で、極めてすばらしい。多くは現在紋章院の Philipot コレクション。他は大英博物館、 Bodleian 、オックスフォード大学クイーンズ・カレッジ、ケンブリッジ大学カイウス・カレッジ、ダブリン・トリニティ・カレッジなどに散在。彼の著作で彼の生存中に出版されたものはない。彼のイングランドの貴族の系図学は一部1608年に Nobilitas Politica vel Civilis として印刷、全体は彼の甥 Davington 在 Thomas Milles により翻訳、編集され1610年出版。これは普通 'Milles's Titles of Honour' として知られる。'Glover's Ordinary' は15000程の紋章を含み、彼により編集、執筆、略画され、日付は1584年となっている。幾つかの複製は現存、幾つかは紋章図師 John Withie によって加筆されている。
当時の抜きんでた紋章学者であった他に、グローヴァーは早期の紋章鑑の価値に気づいた最初の1人で、30以上が彼により複製された。それ故知られる限り最初のイングランドの紋章鑑が、彼の名前をつけられたのは至極当然である。
クロプトン、ヒュー Clopton, Hugh
Blanch Lyon 国王令1690年5月27日
ルージュ・ドラゴン 御璽1691年1月、勅2月16日、国王令5月5日、辞1700年6月27日
Warwickshire 、Clopton 在 Sir John Clopton の三男。母 Barbara はガーター紋章王→ウォーカーの娘で相続人。1690年ブランチ・ライオン、当時18歳にすぎず。1691年ルージュ・ドラゴン。1700年6月27日辞職。1696年ミドル・テンプル法廷弁護士。1732年ナイト。1751年12月28日 Stratford-on-Avon 、 New Place 没。
クロンプ、ローレンス Cromp, Laurence
ポートクリス 御璽1689年11月、国王令1690年1月3日、叙17日
ヨーク 指1700年9月18日、御璽10月、勅11月23日、国王令12月5日、叙11日
Carolina 1705年6月1日
ランカスター紋章官→グレゴリー・キングの甥。間違いなくキング夫人の姉妹 Eleanor の息子。父 Gloucestershire 、 Tuffley 在 Richard Cromp 。元は Worcester の紋章製図家。1690年ポートクリス、後ヨーク。1715年6月11日破産状態で没。Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。何度か(紋章院)代理記録官。
1705年6月1日付開封勅許状によりカロライナ植民地領主団 Lords Proprietors は彼をカロライナ紋章官に任命。
ケッテル、ジョン Kettell, John, FSA
ウィンザー 勅1736年8月12日、叙1741年12月21日
1697年12月2日受洗。ロンドン在小間物商人で市民 William Kettel の息子。1745年5月9日紋章院没。
1736年ウィンザー任命、EM代理により1736年9月9日叙任式免除、しかし1741年執行。1743年FSA。Coll. of Arms MS. SML. 24.(歴代ロンドン市長の名前と紋章、1189-1736年のシェリフの名前)作成。クラレンスー紋章王→ノックス・ウォードの息子2人の名付け親。自分の遺言書の執行人に→スティーヴン・マーティン・リークを指名。
善良、有能な事務官、良い製図者、職務に疲れを知らず、紋章と家系図の素晴らしい記録により紋章院に多大に貢献。
サンドフォード、フランシス Sandford, Francis
ルージュ・ドラゴン 許1661年5月25日、勅6月6日、叙16日
ランカスター 叙1675年11月16日、辞1689年
一族は忠実な王党派で、内戦中激しい苦難を味わう。
1630年 Wicklow 州 Carnow Castle 生。Salop 州 Sandford 在 Francis Sandford の三男、母は Oxfordshire 、 Williamscot と Carnow Castle 在 Chalcott Chambre の娘 Elizabeth 。1641年アイルランド人の反乱のため Sandford に来る。ダブリン大学トリニティ・カレッジの文学学士と言われる。1661年ルージュ・ドラゴン、1675年ランカスター。1666年大火災後にロンドン市の調査を Wenceslaus Hollar とともに委任される。紋章院再建に建築家、監督として活発に関わる。1672年(紋章院の)会合において警安のため院への居住を委託される。1689年ウィリアム3世即位宣言を拒み辞職、→グレゴリー・キングに£220で売却。Bloomsbury 、Great Russel St に居住。1694年1月17日負債のため Fleet (Newgate ?)監獄没。St Bride's 上部付属墓地 upper churchyard に埋葬。
恐らく1662年 Shropshire の巡察において→ダグデイルに随行、この巡察に関する公的複製文書は彼による教会についてのいくつかの覚え書きと彼の以前の(1633年他)スケッチを含んでいる。1664年ロンドンと Westminster の教会他の巡察においてバイッシュ代理。1670年 Flintshire の巡察において→ダグデイル代理。
A Genealogical History of the Kings of Portugal(1662年)、The Order ... at the Interment of the ... Duke of Albemarle(1670年)(版画)、最も価値ある著作 A Genealogical History of the Kings of England ... (1677年、1707年第2版は→ステビングにより増補)、 The History of the Coronation of ... James II(1687年)出版。後2作は→グレゴリー・キングに大きく助けられる。
彼による Shropshire の家族の系図はBM Add. MS. 28616。
恐らくウィーン、 Albertina Gallery 蔵の Sir Peter Lely による2人の紋章官の白黒の線画の右の人物が彼。
シーガー、サー・ウィリアム Segar, Sir William
ポートクリス 御璽1585年5月26日、勅6月4日、叙10日
サマーセット 覚1588年12月25日、御璽1589年1月4日、勅8日、叙2月4日
ノロイ 叙1597年10月23日、勅1602年7月2日
ガーター 御璽1604年1月、新たな御璽と勅1607年1月17日
ロンドン St Giles Cripplegate 教区 High Holborn 在、後 Surrey 州 Richmond 在。Arnhem 在でヘンリー7世の時代にイングランドに居住したドイツ人の子孫。Francis Segar と Anne Sherard の息子。公証人として育てられる。Sir Thomas Heneage の従者。1585年ポートクリス。1586年オランダに赴く Leicester 伯に随行。1588年サマーセット。1596年フランスへのガーター使節に随行。1597年4年間空位だったノロイに就任。1603年6月デンマークへのガーター使節においてガーター代理。1604年サー・ウィリアム・デシックの剥奪決定によりガーター指名、以後ガーターとして振る舞うが任命は1606年12月10日のデシックの辞職まで効力なし。1616年11月5日ナイト。1616年12月30日→ラルフ・ブルックによるブラバントのカントン付きのアラゴンの紋章をロンドンの絞首刑執行人 Gregory Brandon のそれとして確認するという罠にかかったことを認め王座裁判所監獄 Marshalsea に送られる。すぐ釈放。1617年3月1日グレイズ・イン加入許可。2度オラニエ公へのガーター使節、1612年 Moritz 、1627年 Hendrik 。1627年 Gustavus Adolphus 、1633年 Karl 選帝侯へのガーター使節では→H. セント・ジョージと Philipot がそれぞれ代理。1633年12月13(10?)日、 Richmond 没。Richmond 教会内陣に埋葬。
ブルーマントル従紋章官 Thomas Segar と N. Charles の妻 Penelope の父、 Honores Antglicani 他の著者 Simon Segar の曾祖父。
BM MS. Harl. 6085は1604年ジェームズ1世に献呈された美しく描かれたイングランド諸王の紋章と記章の手稿で、恐らく彼自身の作。似たようなリストであるColl. of Arms MS. L.14 'misc. Curiosa'はHarl. 6085の下書きのように見える。大英博物館Add. 8933は紋章学と紋章の概説。他の手稿についてはDNB参照。
Segar's Roll は原本を1605年に彼が保管したためそのように呼ばれる。
Round による彼の Weston 家系図の非難については Family Origins, p.103参照。
ジェニンズ、ウィリアム Jenyns alias Gedding, William
Guisnes 任1509年または1510年
ランカスター 玉璽1516年5月7日、勅5月22日
1510年8月23日 John Keer の遺言書に William 'Geynys pursevant' (即ち Guisnes)として署名。恐らく1509年 Wall の昇進の際に任命。1516年ランカスター、同年11月11日新たな勅。1527年10月頃没。Coll. of Arms MS. L. 6と1380年頃編集の 'Jenyns' Ordinary'を所有、後者は1900年頃 H. F. Burke によって紋章院に贈与。Ipsley 在 Jenyns の先祖。
シェファード、アーサー Shpherd, Arthur
Blanch Lyon EM令1719年5月13日、叙1720年6月24日
ルージュ・ドラゴン 勅1721年9月4日、給1720年ミクルマスより
Middlesex 州、 Hackeny 、 Church St 在。50年近く消費税部局 Excise Department 書記。EM秘書官。1719年ブランチ・ライオン、後ルージュ・ドラゴン。1745年→モウソンに代わりウィンザーへの昇進をあきらめる。1755年3月2日 Hackeny 没。72歳。Lamb's Conduit Fields 、 New Burying Ground に埋葬。賢明で善良。もし時間をそれに捧げていれば、すぐれた紋章官となっただろう。
ジョーンズ、フィリップ Jones, Philip, FSA
ヨーク 勅1722年11月9日、辞1735年6月9日
1723年1月28日EM秘書官。1723年12月5日FSA。1735年4月29日当時負債により Fleet 監獄にいたため停職。1735年6月9日£400で→タウンレイに売官。
スタントン、リチャード
Wallingford ヘンリー6世の時代
ブルーマントル ヘンリー6世の時代
チェスター ヘンリー6世(エドワード4世?)の時代
March 1480年頃
Lant の紋章鑑ではヘンリー6世の下でウォリングフォード、ブルーマントルとチェスターとなっている。恐らく1480年7月1日、20 Ed. IV, m. 10d の封緘勅許状で 'Richard Chester alias Richard Marche, King of arms, of Harow on the Hill' と呼ばれる人物。しかしチェスター及び辺境への任命の日付は不明。
スティブズ、エドワード Stibbs, Edward
チェスター 勅1720年12月15日
Somerset 州 Tiverton 在。1682年頃生。治安判事で三度 Bath 市長を務めた John Stibbs の息子。1720年→モウソンよりチェスター職を購入。1740年1月10日紋章院没。Bath Abbey の一族地下納体堂に埋葬。
→リークによれば彼は分別のある男で、よい官吏だったが、身長は5フィートに満たず、ずんぐりしてがに股だった。常にゴシップ屋で王国の誰よりプライベートな歴史について知っていて、そのことは彼を愉快な仲間にした。
ステビング、サミュエル Stebbing, Samuel
Rose Rouge EM令1698年5月3日、国王令7日、叙17日
サマーセット EM令1700年4月27日、覚5月6日、勅・叙31日
Suffolk 州 Woodbridge と Kent 州 Eltham 在。Henry Stebbing の四男。1683年頃→グレゴリー・キングの助手(彼とキングの筆跡は酷似)。1698年ローズ・ルージュ。1700年→バージルよりサマーセット職を購入。1690年ベルリン、1706年ハノーヴァーへのガーター使節に参加。1707年→サンドフォード著 Genealogical History of the Kings of England の増補改訂版出版。1708年 Guillim 著 Heraldry の新版編集を提案、しかしEMによって禁じられる。EM秘書(?)。1719年8月21日 Eltham の彼の姉(妹) Barksdale 夫人宅没、未婚。同地の教会付属墓地に埋葬。
スマート、ジョン Smert, John
Guyenne 1444年(?)
ガーター 叙1450年3月28日、勅4月3日
ガーター紋章王→ウィリアム・ブルージュの娘婿。両親は不明、しかし Gloucestershire 、 Mitcheldean に土地を所有、恐らく同地の家系。法律家だったと言われる。恐らく1444年ブルゴーニュへ送られた'Guyan pursevant'で、また1449年様々な使節だったギエンヌ紋章官。1450年ガーターとしての勅許状ではギエンヌと呼ばれる。特にスコットランドとブルゴーニュへの外交官としてよく用いられる。1468年 Margaret 王女のブルゴーニュ公 Charles le Téméraire との婚礼に付き添う。1469年ブルゴーニュ公へのガーター使節。1475年フランスにエドワード王が船出する前にルイ王に挑戦を申し込むために遣わされ、 Picquigny 条約という結果を生むことになる打診を持ち帰る(Commines によるこの使節の報告は彼を→ベリンジャーと混同している)。1478年→ライズがガーターに任命された7月6日のすぐ前に没。桁職人組合、獣脂・ローソク職人組合、手袋職人組合と2人の個人の紋章を認可。
スミス、ウィリアム Smith, William
ルージュ・ドラゴン 叙1597年10月23日、勅1603年3月20日
商人、旅行家、地図作製師、尚古家、紋章官。1550年頃 Chester 州 Warmingham 生。同州 Oldhaugh 在で恐らく1567年2月オックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジ文学士 Randle Smith の年若の息子。1575年頃ロンドン市民で服飾小間物商。1578ドイツ在。一時ニュルンベルク、ガチョウ亭滞在。1584年父の死に際しイングランド帰国、1585年 Cheshire 居住(以上の日付はDNBによるが、本人の German Armorial では彼は1571-91年にドイツ居住となっている)。1595年頃彼を「正直な生活と交友、学問と語学の才あり、女王に奉仕する才能があり、それ故我々の会 Society の一員に値する」とする保証するガーター、クラレンスー、紋章官4人と従紋章官4人の支持を得て紋章院の職を請願。1597年ルージュ・ドラゴン。1618年10月1日没。St Alphege's 教会付属墓地に埋葬。
紋章官として有能で勤勉、しかし恐らく昇進を得なかったことに腹をたて、彼の同僚に悪意のある批判をしがちだった。例えばワシントン、 Folger Shakespear Library のMS. 1186. I の 'Abuses ... to the prejudice of the Officer of Arms' 。
多くの系図学、地誌学の手稿コレクションを遺し、その中には 'The Particular Description of England' (1879年印刷)、 'A History of Cheshire', 1585 (D. King, Vale Royal, 1656 所収)、 'Alphabet of Arms' 、スミスの名の家系の紋章鑑である 'Smith's Ordinary' (Coll. of Arms MS. E.D.N. 22)、イングランドの貴族名鑑、1605年と1609年のロンドン市長、シェリフ、参事会員達の紋章鑑 'The XII Worshipful Companies of Misteries of London' などがある。彼の手稿の幾つかは紋章院 Philipot コレクション、他は大英博物館、 Bodleian など。
1605年の 'XII Worshipful Comapnies' の手稿(Bodleian)の複写が1875年に企画されたが(Brit. Arch. Assoc. J., XXXI, 502-3)、実現せず。1609年の手稿はロンドン Guildhall Library 蔵。
セント・ジョージ、サー・リチャード St George, Sir Richard
Berwick 叙1602年4月22日
ウィンザー 叙1602年4月22日、玉璽11月、勅12月18日
ノロイ 保1604年1月28日、勅1607年1月24日
クラレンスー 勅1623年12月17日、国王令21日、叙23日
一族は長く Cambridgeshire 、 Hatley St George に在住。同地在 Francis St George の次男。ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに学ぶ、1569年入学。1602年ノロイを志願するが、彼の学識にも関わらず紋章院は部外者の押入りに抗議。にも関わらず1602年ベリックに任命、直後にウィンザーに、そして→シーガーがクラレンスーに指名された1604年ノロイ指名。1623年→キャムデンに代わりクラレンスー。1616年9月28日ナイト。1617年3月3日グレイズ・イン加入許可。1635年5月17日ロンドン、 High Holborn の自宅没。Holborn 、 St Andrew's の内陣に埋葬。
有能かつ行動的な紋章官。キャムデン、 Cotton 、 Spelman などの指導的尚古家と親しい。復活した、しかし短命の尚古協会会員。
1611-15年ノロイとして自ら8州を巡察、1634年クラレンスーとして自らまたは代理により12州を巡察。Randle Holme を Cheshire 、 Lancashire と北ウェールズの代理に任命。また1615年 Wakefield 在 Richard Lister と York 在 Thomas Hodgson を West Riding の代理に任命。
多くの彼の手稿コレクションは現在紋章院蔵、→H. セント・ジョージ(子)を見よ。幾つかは大英博物館蔵(例えばLans. 861-2-3)、他は Bodleian 、ケンブリッジ大学カイウス・カレッッジ、ダブリン・トリニティ・カレッジと私蔵。
Wiltshire 、 Lydiard Tregoze 在 Elizabeth St John と結婚、同地の St John 家の碑と Battesea Church の窓のために系図学資料を提供。
三男→ヘンリーはガーターとなり、その息子2人もガーターと1人はアルスター。四男 George は St George 卿家の、五男 Richad は Woodsgift 在バロネットの家の先祖。ローズ・ルージュ員外従紋章官→クートも彼の子孫、ヨーク紋章官 Owen と→デヴェニッシュも婚姻によりセント・ジョージ家と縁戚。
セント・ジョージ、サー・ヘンリー St George, Sir Henry
Rose 上衣への令1609年12月11日、叙1610年5月
ブルーマントル 保1611年12月10日、勅18日、叙23日
リッチモンド 御璽1616年2月、勅3月11日、叙23日
ノロイ 保1635年6月19日、勅24日、国王令28日
ガーター 任1643年後半、勅1644年4月6日
クラレンスー紋章王→サー・リチャード・セント・ジョージの三男で成人した最年長の息子。1581年1月27日 Hatley St George 生。1609年3月頃紋章院に雇われる。1609年12月ローズまたは Rose Rouge 。1611年 Patten よりブルーマントル職購入。1616年リッチモンド。1618年3月3日グレイズ・イン加入許可。1625年 W. Le Neve とともにフランスに赴き王妃 Henrietta Maria にイギリスへの安導券を渡す。1627年スウェーデンの Gustavus Adolphus へのガーター使節に際し→シーガー代理、1627年9月23日前者は彼をプロイセンの Darsau の宿営においてナイトに叙し、彼に紋章の加増を与える。1635年ノロイ。1639年4月EMにより停職・罰金、父の署名を偽の紋章認可のために偽造したため。しかし1640年4月6日国璽により赦免され復職、国王は明確にEMの行動を是認。内戦中国王に従いオックスフォードへ。1643年5月3日オックスフォード大学医学博士。1643年後半ガーター。1644年11月5日オックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジ没。Christ Church Cathedral に埋葬。
父に従い1611年 Derbyshire と1613年 Cheshire の巡察に参加。→キャムデンのために1619-23年 Cambridgeshire 、 Devonshire 及び Cornwall 、 Wiltshire 、 Dorset と Somerset を、父のために1633-5年ロンドンを巡察。ノロイとしては巡察を行わず。
'Catalogue of the Nobility of England, 1628'編集。
彼のコレクションは息子→サー・ヘンリー・セント・ジョージに渡る。
Lillingston Dayrell 在 Mary Dayrell と結婚、その姉(妹) Rebbeca はヨーク紋章官 George Owen の妻。息子2人→トマスと→ヘンリーはガーターとなる、他の息子 Richard は1660-83年アルスター紋章王。娘 Frances は1700-4年ノロイ紋章王→デヴェニッシュの妻 Elizabeth Tucker の母。
セント・ジョージ、サー・トマス St George, Sir Thomas
サマーセット 勅1660年7月12日、誓8月10日
ノロイ 御璽1680年1月
ガーター 御璽1686年2月、勅3月11日、国王令4月22日、叙24日、誓26日
Essex 州 Woodford 在。1615年生。→サー・ヘンリー・セント・ジョージの長男。1660年サマーセット、以後ノロイ、ガーター。1669年ドレスデンへのガーター使節においてウォーカー代理。1669年6月1日ナイト。1691年国王ウィリアムがハーグにて Zell 公を授爵した際に随行。しかし1690年ベルリン、1693年ドレスデン、1701年ハノーヴァーへのガーター使節では→グレゴリー・キングを代理に。1693年、 St Paul's Cathedral 再建委員の1人。1703年3月6日紋章院没。78歳。 Essex 州 Woodford の教会の中庭に埋葬(祭壇墓)。娘 Eleanor は→トマス・クート(1702年 Rose Rouge 員外従紋章官)の母。
彼が死んだ時、彼の価値ある手稿のコレクションは→ピーター・ル・ネヴによって購入され、ル・ネヴによる追加とともに1731年に売却される。いくつかはそれ以来紋章院に、それ以外は大英博物館とその他のコレクションの中に入る。
→アンスティスは、彼は「ジェントルマンのような gentlmenlike 多くの資質を持った人物」と言ったが、ブルーマントル従紋章官→ギボンは、ガーターとなるのに£1000をかけたことで、彼(トマス)は、自分が無知なごろつきであることを証明したと言った。
セント・ジョージ、サー・ヘンリー St George, Sir Henry
リッチモンド 勅1660年6月18日、誓8月10日
ノロイ 勅1677年4月27日、叙5月24日
クラレンスー 勅1680年1月28日、給1679年ミクルマスより
ガーター 勅1703年6月16日、国王令18日、叙25日、給1703年イースターより
セント・ジョージ姓で紋章院で職を保持したのは彼が最後。1625年7月 Hertford 州、 St Andrew's 教区生。→サー・ヘンリー・セント・ジョージの三男だが、成人した二番目の息子。王政復古時リッチモンド、以後ノロイ、クラレンスー、ガーター。1669年ストックホルムへのガーター使節においてウォーカー代理。→ウォーカーの死から→ダグデイルの叙任までガーター代理。1677年5月25日ナイト。1693年聖ポール大聖堂再建委員の1人。1715年紋章院没。91歳。8月18日 Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。
アンスティスが(Noble によるが、Coll. of Arms, MS. O.A. や Reg. Garter には見えない)彼を「誰にでも支配される臆病な動物で、彼の鉄の櫃とその中身だけを気にかける」と呼ぶ一方で、 Hearne は、彼はうち解けない性格で、強欲で、学がなかったと言った。とは言え、彼の短所がどうであれクラレンスーとして彼は活発に紋章巡察を行い、12州が1681-1700年(ママ――上村)にかけて巡察された。そのうち4つは→キングと→デールの補佐を受けて彼自身が巡察し、残りは代理が巡察した。→キングはいずれの場合にも参加した1人。そのうち6つからの利益、計£530を彼は紋章院再建への寄付とした。
彼の死に際して、紋章院は困難を払って彼の遺言執行人から、院に属する本のいくつかを取り戻した。残りは遺言執行人によって Percival 卿、後の Egmont 伯に売られ、1738年彼のコレクションから200巻以上の手稿が競売された。そのうち4巻は1846年 J. G. Teed によって紋章院に与えられ、他は大英博物館 Lansdowne 手稿群、ケンブリッジ大学カイウス・カレッジの Knight コレクションの一部となっている。さらに他のものは Phillipps コレクションから Sir Anthony Wagner によって購入された。
セント・ジョージ夫人 Elizabeth 、旧姓 Wingfield はヨーク紋章官→ジョン・ウィングフィールドのまたいとこ。
ソーヤー、エドモンド Sawyer, Edmund
Brunswick 1726年2月1日
詳細不明。
ソーンベリー、トマス Thornbery, Thomas
ポートクリス 指1745年9月1日
ウィンザー 勅1745年12月19日、給受胎告知祭 Lady Day (3月25日)より
1719年頃生。ロンドン在市民で製塩業者 Thomas Thornbery の孫、ガーター紋章王→トマス・ブラウンの縁戚。軍需品事務局 Ordnance Office 吏員。Mile End 在住。1745年ポートクリス指名、しかし勅を得ず。3ヶ月後ウィンザー。1752年オラニエ公へのガーター使節において秘書官。1757年7月24日 Tottenham Court Road 没。Buckinghamshire 、 Great Marlow に埋葬。
彼の任命を推薦したリークは、彼は良い資質を持っていると言ったが、酒にひたり、タウンレイは彼を「飲み過ぎの可哀想な男」と呼んだ。
ダウンズ、ダドレイ Downes, Dudley
ルージュ・ドラゴン 勅1704年5月27日
1672年頃生。Essex 州 Wanstead 在、後 Holborn 、 St Andrew's 在。弁護士。クリフォーズ・インとインナー・テンプルの一員。財務府割符裁判所 Tally Court 侍従代理。1720年10月27日 Islington にて池に投身自殺。
タウンレイ、サー・チャールズ Townley, Sir Charles
ヨーク 勅1735年8月26日、国王令11月11日、叙12月13日
ノロイ 勅1751年10月19日
クラレンスー 勅1755年1月11日、給1754年12月19日より
ガーター 勅1773年4月27日
Leicestershire 、 Long Whatton 在。Townley 在タウンレイの分家筋。1713年5月7日ロンドン、 Tower Hill 生。Tower Hill と Surrey 州 Clapham 在、商人 Charles Townley の息子。Merchant Taylors' School に学ぶ。1735年、ヨーク紋章官職を→フィリップ・ジョーンズより£400で購入。1735年9月3日、EM代理により儀礼的叙任、12月13日、EMによる実際の叙任。彼の勅許状は紋章官への勅許状として初めて英文。1749年、 Anspach へのガーター使節において秘書官。後ノロイ、クラレンスー、1773年ガーター。1761年9月26日ナイト。1774年6月7日、 Islington 、 Camden St 没。East 、 St Dunstan's の一族地下納体堂に埋葬。
彼のM.I.に関するコレクションと彼の'Attendance Book'は紋章院に現存。後者は同僚の紋章官についての率直なコメントを含む。BM MS. Add. 14834は尚古協会のための33葉の紋章の草稿(使用されず)を含む。
彼の肖像画が紋章院に現存。
1755年頃相当の額の遺産を相続、→リークは、それ以後彼が職務を怠り横柄かつ気難しくなったと不満を述べている。
ダグデイル, サー・ウィリアム Dugdale, Sir William
Blanch Lyon 叙1638年9月24日
ルージュ・クロワ 御璽1640年3月14日、勅16日、叙18日
チェスター 勅1644年4月16日、叙1645年3月18日
ノロイ 勅1660年6月18日、誓8月10日
ガーター 勅1677年4月26日、叙5月24日、誓6月1日
Warwickshire 、 Blythe Hall 在。恐らく紋章院の全所属者の中で最も著名。1605年9月12日 Warwickshire 、 Shustoke 生。かつてオックスフォード大学セント・ジョン・カレッジの会計係だった John Dugdale の息子で相続人。少年時代より尚古学に身を捧げる。はじめは父に、後に Sir Symon Archer や、当時の他の尚古家に、さらに後には友人でありパトロンである Sir Christopher Hatton に援助される。Hatton を通じて1638年ブランチ・ライオンに任命される。ほぼ同じ頃、来るべき争乱を予見し、彼、 Hatton 、 Sir Edward Dering 、そして Sir Thomas Shirley は新たに一つの協会'Antiquitas rediviva'を結成する。彼らのもくろみがどの程度実行されたのかはわからないが、その成果のうちには(1)'The Book of Drafts': Hatton の出費によりダグデイルによって蒐集された碑 monuments の図集。(2)'The Book of Seals': 1950年'Sir Christopher Hatton's Book of Seals'として出版される。(3)最も価値の高い紋章鑑の複製集、現在Soc. Antiq. MS. 664。
内戦時、ダグデイルはオックスフォードへ国王に随行(1642年文学修士)。彼の財産はそれにより議会によって差し押さえられるが、1646年それを示談で解決することを許される。その後、彼はロンドンを幾度か訪れることができ、紋章官としては振る舞わなかったが、少なくとも1653年以後紋章院に部屋を持つ。
こうした、職務からの強いられた休暇は彼にMonasticon Anglicanum(1655、1661、1673年、 Roger Dodsworthとの共著)、The Antiquaries of Warwickshire(1656)に集中することを可能にさせた。これら及びThe Baronage of England(1675-6年)は、恐らく最も知られているとはいえ、決して彼の著作の全てではない。Sir William Dugdale, 1605-86; A List of his Printed Works(Warwick, 1953)を見よ、これは彼の現存する手記も記載している。
王政復古時ノロイに任命、1677年ガーター。1660年グレイズ・イン加入許可。1677年5月25日ナイト。1686年2月10日 Blythe Hall 没。Shustoke に埋葬。
ノロイとして1662-6年、彼自身で彼の管轄であるイングランドの10州全てを巡察、たいてい→グレゴリー・キングを書記兼図師として伴う。1662年にはまた、→バイッシュの代理として Shropshire を巡察、1670年→チャロナーと→サンドフォードを Flintshire の巡察の代理として任命。
紋章院への偉大な貢献者。彼自身の著作の複製といくつかの重要な手稿を贈呈した他、何人かの蒐集家に多くの書籍と手稿を紋章院に与えるよう説得する際にも労をとる。
彼の唯一成人した息子→ジョン(後にノロイ)は1684年ガーター代理に任命され、彼の娘 Elizabeth は→エリアス・アシュモルと結婚。彼の最後の直系の男系子孫は Mowbray 員外紋章官→ジョン・ダグデイル 。
ダグデイル、サー・ジョン Dugdale, Sir John
ウィンザー 御璽1675年7月、叙10月26日
ノロイ 御璽1686年2月、国王令3月22日、叙24日
ガーター紋章王→サー・ウィリアム・ダグデイルの成人した唯一の息子。1628年6月1日生。オックスフォード大学とケンブリッジ大学文学修士。グレイズ・イン所属。一時大法官 Clarendon 付議院主任侍従 Chief Gentleman of the Chamber 、後 Coventry 州副統監 Deputy-Lieutenant 及び治安判事。
1675年→アシュモルの辞職に際しウィンザーに任命、1684年父の健康損耗によりEMは彼をガーター代理に任命。父の死に際しガーターの継承を求めるも、EMの意志は彼をノロイに任命するのみだった。1686年3月ナイト。1690年枢密院の命令により3月30日付で停職、しかし2ヶ月後停職は解かれる(1690年6月5日及び8月16日E.M.令)。停職の理由は述べられず。1700年8月31日コヴェントリー没。Warwickshire 、 Shustoke に埋葬。
紋章学には全く耽溺せず。一切を→グレゴリー・キングに任せ、彼のためにノロイ辞職を希望するが、EMは許可を拒否。
1685年新年、彼は国王にA Catalogue of the Nobility of England (1685年、1690年印刷)を上程。
ダグデイル、ジョン Dugdale, John
Blanch Lyon EM令1707年11月21日
Mowbray 国王令1713年6月10日、叙17日
1690年5月2日 Warwickshire 、 Blythe Hall 生。1749年8月4日没。Warwcishire 、 Shustoke に埋葬。ノロイ紋章王→サー・ジョン・ダグデイルのただ一人の息子 William Dugdale の息子で相続人。→サー・ウィリアム・ダグデイルの最後の直系男系子孫。後継なく死ぬに際し、彼は彼の姉妹 Jane の長男 Richard Geast に Blythe Hall を遺贈し、1799年ダグデイルの名前と紋章を彼が継いだ。そして彼の子孫が Sir William Stratford Dugdale (1936年バロネット、FSA)。
タング、トマス Tonge, Thomas
ヨーク 玉璽1513年4月26日、勅30日
ノロイ 勅1522年10月20日、叙11月1日
クラレンスー 玉璽1534年5月27日、勅6月7日、叙8月2日
ヘンリー6世の時代 Antelope とルージュ・クロワ、エドワード4世(ママ)の時代リッチモンドだったと言われる。1513年4月のヨーク以前の任命については信頼できる情報はない。1513年9月 Surrey 伯のスコットランド遠征に随行。1519年フランスへの使節において Sir Thomas Boleyn に随行。1520年 Field of Cloth of Gold 参加。1522年別の複数の対外使節。1530年頃 Greenwich から Gravesend の下水道委員。1530年北部諸州を職権により、特に授権書なしで巡察。1533年 Anne de Montmorency へのガーター使節。1536年没、遺言書は3月19日付、検認4月4日。Southwark 、 St Mary Overy に埋葬。
彼の未亡人 'Susan Clarenciux' or 'Clarentia anicula' は旧姓 White で彼の死後30年近く存命(メアリ1世執務室 Privy Chamber の第一侍女 First Lady)。
チール、ジョン Cheale, John
Arundel 叙1741年11月16日
ノロイ 勅1741年12月12日、叙16日
友人達から「王様」チールと呼ばれる。彼らは彼を「非常にいい男」と評した。 Sussex 州 Findon 在 John Cheale の息子。1699年生。1751年5月8日 Findon 没。 Newcastle 公及び Richmond 公のコネを通じてノロイとなる。その一月前に形式上アランデルに叙任。ノロイとしての職務を怠り、全てをチェスター紋章官→ハッチェンソンに任せる。リークの彼の描写はお世辞である以上に面白い。
チャロナー、ロバート Chaloner, Robert
ブルーマントル 御璽1660年7月、誓8月10日
ランカスター EM令1667年7月24日、国王令11月14日
1613年頃生。Denbigh 州 Lloran 在、元ノロイ代理で Chester 在トマス・チャロナー Thomas Chaloner の甥(姪)の息子 Robert Chaloner の四男。王党派軍中に勤務。王政復古時ブルーマントル任命、1667年ランカスター。ほとんどを Wiltshire 、 Roundway に過ごす。1675年11月14日ロンドン没。 Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。
1670年クラレンスー代理として Flintshire 巡察。
チャンプニー、リチャード Chambneys, Richard
Calais エドワード4世の時代
ブルーマントル エドワード4世の時代
Falcon 紋章官、エドワード4世の時代
Gloucester エドワード4世の時代、任1483年7月7日以前、勅1483年9月18日、没または辞ボズワースの戦い以前
Lant の彼がカレー、ブルーマントル、ファルコンだったとする記述の裏付けはない。むしろ Gloucester 公だったリチャード3世に仕えるグロースター紋章官だったように思える。1483年7月紋章王としてリチャード3世の戴冠式に参加、同年9月14日彼をグロースターの名で紋章王及びウェールズの首席紋章官とする勅を得る。1484年3月2日の紋章院設立の認可状でグロースターと呼ばれる。その直後に死んだはず。
デヴェニッシュ、ロバート Devenish, Robert
ヨーク EM令1674年12月18日、国王令1675年2月19日、叙23日
ノロイ EM令1700年9月17日、勅11月22日、国王令12月5日、叙11日
Surrey 州 Lincoln's Inn と Mortlake 在。1637年頃生。ロンドン、 Fetter Lane 在で Dorset 州 Upsidlinge のデヴェニッシュ家の分家筋 Robert Devenish の息子。大法官高等裁判所 High Court of Chancery の裁判記録記録官。1674年ヨーク職を→ウィングフィールドより購入。1704年4月7日モートレイク没。同地に埋葬。
妻 Elizabeth は Milton 在 George Tucker と Frances St George の娘で、→サー・トマスおよび→サー・ヘンリー・セント・ジョージ両ガーター紋章王の姪。
デール、ロバート Dale, Robert
Blanch Lyon EM令1694年2月7日、国王令9日、叙27日
Suffolk EM令1707年2月7日、国王令9日、叙3月25日
リッチモンド 叙1721年5月3日、勅17日
1666年5月23日生。Yorkshire 、 Great Smeaton 、 Crosshill Hall 在 Thomas Dale の息子。1684-8年→サー・ヘンリー・セント・ジョージの書記、後→大アンスティスによく雇われる。1704年よりロンドン塔記録事務所 Tower Record Office 書記官。1694年ブランチ・ライオン、それ以後同時に、またサフォークとして紋章院記録官代理。1715年1月19日国王令によりサフォークへの任を撤回される、しかし1720年頃回復。後リッチモンド。1722年8月4日没。Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。
うぬぼれが強くもめ事が多かったが、彼の時代における最も活動的な系図学者の一人。彼のコレクションのうち27巻ほどは紋章院に、残りは大英博物館に現存。
1684-7年の巡察のうち4度クラレンスーに随行、公的複製文書は彼の手による。1697年 An Exact Catalogue of the Nobility of England 出版。
デシック、サー・ギルバート Dethick, Sir Gilbert
Hampnes 玉璽1536年6月14日、叙16日、勅18日
ルージュ・クロワ 任1540年12月
リッチモンド 叙1540年12月25日、玉璽1541年2月5日、勅3月8日
ノロイ 玉璽1547年1月、3月、8月11日、勅8月16日
ガーター 叙1550年4月20日、玉璽21日、勅29日
デシック家は紋章院の歴史において最も重要な家系の一つ。サー・ギルバート、息子 Nicholas と→ウィリアム、曾孫→ヘンリーが全て紋章官だっただけでなく、共和国期の従紋章官Watson と Exton はデシック家の者と結婚し、→ローレンス・クロンプの伯(叔)母 Elizabeth はデシック家の者の妻である。
サー・ギルバートは恐らく1500年頃生、 Derbyshire 、 Dethick Hall 在デシック家の子孫と主張しその紋章を使用、しかしネーデルランドまたはドイツ生まれでヨーマンの武具師、 Greenwich の武器庫に雇われた Robert Dethick の息子。ギルバートと彼の兄弟 Derick と Matthew はヘンリー8世第34年(1542-3年)の議会法により帰化。
明らかに1536年 Hampnes となる前から国王特使として仕える。後ルージュ・クロワ、リッチモンド、ノロイと最後にガーター。1551年3月31日ナイト。1584年10月3日没。Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。サー・ウィリアムの Old St Paul's における記録によれば84歳。
紋章官としての48年間(ガーターとして34年半)を通じて、外国への、主に大陸、時としてスコットランドへの外交に用いられる。1547年 Musselburgh 包囲戦ではスコットランド軍に射殺されそうになった。
旧尚古協会会員、良い学者との評判。大英博物館とケンブリッジ大学カイウス・カレッジに残る彼のコレクションは彼が信頼できる紋章学者、系図学者であることを示す。確かに有能な外交官。彼の奉仕をヘンリー8世は Poplar の屋敷と1エーカーの土地によって称賛、同所に彼の子孫は200年ほど居住。エリザベス1世の時代、彼と女王は例年新年の贈り物を交換しあった。ガーター在職中彼は紋章認可を1人で140以上、地方紋章王と共同で40ほど行ったと言われる。
デシック、サー・ウィリアム Dethick, Sir William
ルージュ・クロワ 叙1567年2月9日、勅11日
ヨーク 勅1570年3月24日、叙25日
ガーター 勅1586年4月21日、誓1587年4月22日
1542年頃生。→サー・ギルバートの次男で結局は相続人。ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに学ぶ。後グレイズ・イン所属。1564年、ルージュ・クロワとなる3年前フランスへのガーター使節において父に従い、後何度かガーター使節に赴く。
サー・ギルバートの死に際し、反対意見と18ヶ月の空位(その間→クックが代役)にも関わらずガーターに任命。ヨークとして彼自身の印章により紋章を認可、承認するという逸脱を起こし、今度は自分の勅にガーター職には前例のない、巡察を行う権限を与える条項を不正に挿入させる。
旧尚古協会会員、同会は紋章院の彼の部屋で会合するのが常だった。彼の職業上の資質は高く、彼の昇進の際には彼は当時最も有能な紋章官と見なされていた。残念ながら、彼は尊大、短気で同僚達と他の人々の両方と常にもめ事を起こした。結果として彼の免職は不可避で、1604年1月→シーガーをガーターに任命する文書が御璽局に通る。しかしデシックは抵抗し、完全な免税と£200の年収の認可により彼が職をあきらめるのは1606年12月10日のことだった。1612年没。セント・ポール大聖堂に埋葬。1603年5月13日ナイト。
多くのライズレイによる手稿を所有、その幾つかと彼及び彼の父のコレクションの幾つかは後に紋章院が獲得、他は大英博物館、ケンブリッジ大学カイウス等に存在。
彼の子孫の中にはリッチモンド紋章官→ヘンリー・デシック、ブルーマントル従紋章官 John Watson の妻 Anne 、ルージュ・ドラゴン従紋章官 Everard Exton の妻 Elizabeth がいる。
デシック、ヘンリー Dethick, Henry
ルージュ・クロワ 横領1658年9月頃、特許状1659年2月25日、御璽による承認1660年7月23日、誓8月10日
リッチモンド 勅1677年4月30日、叙5月24日、辞1704年2月4日
1623年 Blackwall 生。Poplar 在 Henry Dethick の三男、ガーター紋章王→サー・ウィリアム・デシックの孫。同家で紋章院に職を持った最後の人。イートン校、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジ(1650年文学士、1645-56年フェロー)に学ぶ。Tower Hamlets 副統監 Deputy-Lieutenant 。1680年代ウェストミンスター主教代理法廷 Westminster Commissary Court 記録官。
オリヴァー・クロムウェルの下でルージュ・クロワとして横領、リチャード・クロムウェルより同職の特許状を得る。しかし他の簒奪した紋章官とは異なり、王政復古時職の保持を許され、後に昇進。
大火後紋章院再建基金収集代表人の一人で、再建中の早い段階には院内に居住。大抵 Poplar 在。
クラレンスー代理として1663年 Middlesex を、1681-3年他の6州を巡察。1704年2月4日辞職。1707年 Poplar 没。6月19日一族地下納体堂に埋葬。
トムズ、ピーター Toms, Peter, RA
ポートクリス 勅1745年12月
著名な版画家で Westminster 、 Masham St 在 William Henry Toms の息子。Reynolds 他の著名な芸術家に雇われ、掛け布の画家として非常に成功。1768年RA創設。1745年ポートクリス、しかし滅多に職務をせず。没落し酒にふける。1777年非常な困窮の中 Oxford St 、 Rathbone Place 没。St Giles-in-the-Fields の共同墓地に埋葬。
バージル、フランシス Burghill, Francis
Mowbray 叙1677年5月24日
サマーセット 御璽1680年1月、勅3月24日、辞1700年3月25日
モウブレイ1677年、サマーセット1680年。1681年彼とルージュ・ドラゴン従紋章官→グレゴリー・キングは Northampton と Rutland の巡察において紋章王代理、しかし→キングはバージルが自分に全ての仕事を押しつけたと不満を漏らしている。1700年3月25日辞職。
バイッシュ、サー・エドワード Bysshe, Sir Edward
ガーター 横領1643年頃、議会による承認1646年10月20日、免職1660年
クラレンスー 議会による任1650年6月12日、辞1658年、勅による任1661年3月10日
Surrey 州 Burstow 、 Smallfield Place 在 Edward Bysshe の長男。1615年同地生。1640-68年 Surrey の様々な選挙区選出庶民院議員。1640年騎士裁判所を違法と宣言した委員会の一員にも関わらず、1645年コンスタブルとマーシャル職執行委員の1人となる。1643年誓約しガーター職横領、1646年10月20日議会に承認される。1650年さらにクラレンスー、しかし1658年 Ryley のために手放す。王政復古時ガーター職より追放、しかしすぐ後に Le Neve に代わりクラレンスーに任命。1661年4月20日ナイト。1679年12月15日没。St Olave's Jewry に埋葬。晩年EMと同僚両方、特に→ウォーカーと不和。
良い尚古学者で→ダグデイルと Dodsworth の友人。系図学にはほとんど関心がなく、1662-77年(18州)の彼の巡察は同僚から厳しく批判される。だが明敏で熟達した紋章学者、 Upton 、 Johannes de Bado Aureo と Spelman の彼が注釈した版(1654年)が示すように。
パイン、ジョン Pine, John
ブルーマントル 勅1743年12月1日
版画家としてより知られる。1690年生。1743年ブルーマントル。御璽・切手事務局 Signet and Stamp Office 付彫刻家、ファウンドリング病院 Foundling Hospital 理事 Governor 。1756年5月4日 Soho 、 King St の自宅'Golden Head'没。Soho 、 St Anne's に埋葬。肖像画家 Robert Edge Pine (1790年没)、細密画家 Simon Pine (1772年没)の父。Alexander Cozens (1751年ルージュ・クロワ指名)の舅。
とりわけ'The Procession ... of the Order of the Bath, 1725'(1730年出版)、1733年マグナ・カルタの複製、1746年ロンドン計画図製作。
でっぷりとして陽気な男。容姿、振る舞いがサテュロスに似ると→トムズに言われる。Hogarth の'The Gate of Calais'中の托鉢修道士のモデルで、それにより「托鉢修道士パイン」とあだ名される。
バウンド、ジョン Bound, John
ルージュ・クロワ 御璽1704年3月、勅4月5日、給1703年クリスマスより
恐らくルージュ・クロワとしてその後を継いだ→ピーター・ル・ネヴの秘書。1721年3月26か30日没。Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。
ハッチェンソン、フランシス Huchenson or Hutchenson, Francis
Arundel EM令1735年6月16日、国王令30日、叙9月
チェスター 勅1740年2月22日
1707年頃生。William Huchenson と Effingham 卿 Francis Howard の娘 Elizabeth の息子。母を通じて Newcastle 公と縁戚、 Newcastle 公の執務局事務員、 Caroline 王妃の大膳長 Gentleman Sewer 。1732年EM代理秘書官。1735年アランデル、後チェスター。1752年6月22日 Westminster 、 Dorset Court の自宅没。St Margaret's Churchyard に埋葬。→ジョン・チールの友人で代理人、彼はノロイとしての彼の全ての職務を→ハッチェンソンに任せた。彼は整った容姿で多才だったが、衣装と遊蕩を過度に好み、職務を怠った。
ブキャナン、パトリック Buchanan, Patrick
Mowbray 国王令1681年11月2日、叙9日
スコットランド人。Norfolk 公の厩舎長 Master of the Horse 。1683(1684?)年3月18日没。St Clement Danes に埋葬。
ブノー、トマス Benolt, Thomas
Berwick エドワード4世の時代
ルージュ・クロワ エドワード4世の時代
ウィンザー 勅1504年5月6日
ノロイ 玉璽1510年11月7日、勅20日
クラレンスー 玉璽1511年1月16日、勅30日
カレーの人。彼の母は→マカドの友 John Meautis の姉(妹)。Lant は彼をベリック、ルージュ・クロワとして載せるが、作り話のように見える。ウィンザー、ノロイ、クラレンスー。1534年5月8日没。Bishopsgate 、 St Helen's に埋葬。
紋章官=外交官として卓越。1505-33年海外へ常時遣わされる。そのため1511年7月ガーター紋章王→ライズレイと、後者が本国で彼を代行することで合意。しかし1530年ガーターが自分を利用しているのに気づき、国王からガーターを抑制し、巡察に際し自分にあらゆる支援を与える地方紋章王の権威を享受させる授権書を取得。彼の権威はこうして強化され、1530-1年にかけ14以上の州を巡察、一方南ウェールズ、 Hereford とロンドンの教会は代理によって巡察される。→ライズレイとの論争の報告については Wagner, H. & H. 第2、9、10章参照。
彼の外交官としての活動にも関わらず、ブノーは100以上の本、手稿を収集。大部分は紋章学関連。これらを彼は当時カーライル紋章官の Thomas Hawley に遺贈、後者の死後それらが彼の後のクラレンスー紋章王達に渡るという条件で。
ブラウン、トマス Browne, Thomas
Blanch Lyon 叙1727年10月9日
ブルーマントル 勅1737年12月16日、給受胎告知祭 Lady Day (3月25日)より
ランカスター 勅1744年5月5日
ノロイ 勅1761年5月6日
クラレンスー 勅1773年5月13日、給4月27日より
ガーター 勅1774年8月15日、給6月7日より
「有能な」 Brown と区別するため、「分別の Sense 」ブラウンと呼ばれる。優秀な土地検査官。彼の紋章院への任命は、この才能によって Norfolk 公に仕えたことに負っていると言われる。サマーセット紋章官 J. C. Brooke によれば、紋章学について全く知らず、紋章官の義務を怠っていた。
1702年3月13日 Derbyshire 、 Ashbourne 生。Ashbourne の Compton 在 John Brown の三男。一時サマーセット紋章官→ジョン・ウォーバートンの下で調査官として働く。引き続きブランチ・ライオン、ブルーマントル、ランカスター、ノロイ、クラレンスー、ガーター。1788年2月22日 Bedford Row 、 James St の自宅没。Hertfordshire 、 Wymondley Priory 在 George Nedham の娘で共同相続人 Martha と結婚。長男 George はブルーマントル。
フリス、ローランド Fryth, Rowland
Mowbray EM令1698年5月4日、国王令7日、叙17日
ランカスター 勅1712年11月14日、叙19日
1651年頃生。Staffordshire 、 Shenstone 教区 Thornes 在 Edward Fryth の息子。1712年12月7日没。Shenstone に埋葬。彼の妻 Elizabeth Wightwick はヨーク紋章官→トマス・ワイトウィックの伯(叔)母。
チェスター 勅1398年6月8日
Guyenne 恐らく1413年3月21日―4月9日の間に任
ガーター 1415年6月30日頃
ランカスター紋章官 Richard Bruges の息子。1375年頃生。1398年チェスター任命、1399年よりヘンリー王太子に仕える。ヘンリー5世登位に際しギエンヌ紋章王。1415年7月4日の少し前にガーター。ガーターとして直ちに騎士団の紋章王、また職によりイングランドの紋章官の長。不運にも後者の権能における彼の権限は明確には規定されず、それによる不確実さが、ガーターと地方紋章王の間の長期の軋轢の背景である。
最初の、あるいはほぼ最初の外交活動に専門化した紋章官。チェスター、ギエンヌ、ガーターどの場合でもそのために用いられた。ヘンリー6世の下、最低一度、外交使節として用いられない年はほとんどなかった。
1450年3月9日没。Kentish Town に居住したが Stamford 、 St Georege's に埋葬。同所に対し彼は非常な恩人、その再建のために多額を与え、法衣や他の価値ある装飾品を遺贈。またその窓にエドワード3世とガーター騎士団創設騎士達の像を提供。
1439年呉服商組合に紋章を認可。エドワード王とガーター騎士団創設騎士、 St George 騎士団員、ブルージュ自身を色付きで描いた'Bruges's Book'を受託、1430年頃作成、金羊毛騎士団創設と関わりがあるかもしれない。
娘で相続人 Katherin はガーター紋章王→ジョン・スマートと結婚。
ブルック(ブルックスマス)、ラルフ Brooke (Brooksmouth), Ralph
ルージュ・クロワ 叙1580年10月18日
ヨーク 御璽1592年2月1日、勅4日、叙3月26日
元はブルックスマス。自らをブルックと呼び、 Cheshire 、 Leighton 在ブルック家の子孫と主張。1553年頃 Wigan 生。Merchant Taylors' School に学ぶ。紋章図師として開業(1576年画家・染色家組合の特権取得)。1580年ルージュ・クロワ、1592年ヨーク。1625年10月25日 Kent 州 Reculver 没。
熟練した製図家、有能で勤勉な紋章官。しかし彼の馬鹿げたうぬぼれと妬みやすい気質は彼を特に同僚とEMと絶え間ない論争に巻き込んだ。1616年、1621年停職。
とりわけ→キャムデンのクラレンスー任命に激怒、1599年頃 A Discoverie of certaine Errours ... in the 'Britania' を出版。第2の Discoverie of Errours は1619年執筆、しかし1723または1724年まで印刷されず。また A Catalogue ... of the Kings, Princes ... of England (1619)出版、1622年改訂。多くの手稿コレクションを遺し、現在それらは紋章院、大英博物館などに散在。
フレウィン、チャールズ Frewin, Charles
Brunswick
詳細不明。(1726-63年のいずれかの年にブラウンシュヴァイク――上村)
ブレルトン・ウィリアム Brereton, William
リッチモンド? 1467年頃
Guyenne 紋章王、1475年頃
1475年クリスマス 'Willemus Brerton Gyan Rex Armorum' がローマのイングランド人宿坊に収容される('Englishmen in Rome during the Renaissance', in Modern Philology, xxxvi(193809), 137)。彼は恐らく1472年10月13日にギエンヌに叙任されたリッチモンド紋章官で、1467年他にもリッチモンドとして現れる人物だろう。
プロット、ロバート Plott, Robert, DCL, FRS
Mowbray EM令1695年1月20日、叙2月2日
Kent 州 Borden 教区 Sutton Baron or Sutton Barne 在。同地在 Robert Plott の息子。1640年同地生、12月13日 Borden にて受洗。Kent 州 Wye Schoool 、Magdalen Hall 、オックスフォード大学ユニヴァーシティ・カレッッジに学ぶ。1661年文学士。1671年DCL。1677年FRS.、1682-4年(王立協会?)秘書官。1683-90年アシュモリアン博物館 Ashmolean Museum 初代学芸員、オックスフォード大学化学教授。1688年王室修史官 Historiographer Royal 。1687年EM秘書官、騎士裁判所記録官。1695年1月20日モウブレイ員外紋章官、22日紋章院記録官。紋章王への任命を企図するが、空位の生じる前に1696年4月30日 Sutton Baron 没。Burden に埋葬。
イングランド自然誌を企画するが、Natural History of Oxfordshire (1677年)、Natural History of Staffordshire (1686年)を出版したのみ。他の出版物についてはDNBとそこに引用されている文献参照。
手稿に'History of the Office of Earl Marshal of England'、'Discourse concerning the reasonableness of the revival of the Earl Marshal's Court'、'Defence of the Jurisdiction of the Earl Marshal's Court'。最後のものはハーン Hearn のCurious Discourses (1775), II, 250中に印刷。
彼の死に際し騎士裁判所の幾らかの記録は紋章院に留まる。残りのうち彼が所持したものは1715年紋章院がリッチモンド紋章官→ヘアより£4. 10sで購入。
美食家で良き仲間。当時のほとんどの学者、尚古家の友人。極めて軽信。Staffordshire のあるジェントルマンにより情け容赦なくペテンにかけられたという。非常に欲張り。彼が以前に借りた骨董品を返すように言われたとき、受け取ったら決して返却しないのは尚古家の間の決まりだと答えた(Hearne, Collections, I, 67)。
ヘア、ジョン Hare, John, FSA
ルージュ・ドラゴン 御璽1700年7月、勅11月22日、国王令12月5日、叙11日
リッチモンド 勅1704年5月26日
Norfolk 州 Snetterton 在。1688年頃 Syderstone 生。Norfolk 州 Bromsthorp 在 John Hare の息子、 Stow Bardolph 在 Sir Ralph Hare (1664年バロネット)の弟。Kyng's Lynn で、またケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッッジに学ぶ。1689年文学士、1690年インナー・テンプル加入。1700年ルージュ・ドラゴン。1719年FSA。1720年5月14日紋章院にて自らを(剣で)刺し死亡。Paul's Wharf 、 St Benet's 教会付属墓地に埋葬。
多大な蔵書を持ち、ノロイ紋章王ウィリアム・フェローによる序列その他についての重要なコレクションを含む紋章学関連の全ての書籍と手稿を紋章院に遺贈(Coll. of Arms MSS. R.36, 37)。
1719年リッチモンド所領に関する著作についての提案を出版(後、 Hearne によれば Roger Gale により1723年出版)。
ヘスケット、ジョン Heskett or Hesketh, John
ポートクリス EM令1700年9月18日、勅11月25日、国王令12月5日、叙11日
ランカスター 勅1713年6月4日、国王令9日、叙18日、辞1727年5月18日
Exeter で弁護士。しかし1727年には Dover (Kent 州)、 Lancashire 、 Cork 州在。1700年ポートクリス、後ランカスター。1727年5月18日辞職、→スティーヴン・マーティン・リーク(後ガーター)に譲る。彼の肖像が紋章院に現存。
ベリンジャー、ウォルター Bellengier or Bellingham, Walter
Ireland 叙1467年6月9日、辞職(リチャード3世かヘンリー7世による免職かもしれない)
Bellengier という姓から Dieppe の人、イギリス風には Bellingham 。彼自身の記述から1422年頃から紋章官のはずだが(Coll. of Arms MS. L. 14, 211b)、1467年 'Walter Ireland' が 'King of Arms of Our Lande of Ireland' に叙任されるまでは何も分からない。当初アイルランドで用いられたが、後スコットランドと海外へ遣わされた。エドワード王の死後すぐ退職したと思われる。1487年5月3日没、妻は9日後没。
1475年2人の従紋章官に伴われ、エドワード王の最後の挑戦をルイ王に届けたのが一番目立つ任務。Commines はこれをガーター紋章王→スマートによる以前のそれと混同。
教区書記組合の特権を持ち、1479年その紋章を認可。
ホークスロウ、ウィリアム Hawkeslowe William
Wallingford ヘンリー6世の時代
ブルーマントル ヘンリー6世の時代
Leopard ヘンリー6世の時代
Guyenne エドワード4世の時代
クラレンスー 1461年頃
ヘンリー6世の時代ウォリングフォード、ブルーマントル、レオパード、エドワード4世の時代ギエンヌ紋章王だったと言われる。1435-63年かもっと遅くまで Wrexworth がギエンヌ紋章王だったため、同職の保持はあり得ない(あるいはギエンヌ紋章官だったのか?)。1460年12月―1461年11月の間にクラレンスー任命。1461年スコットランドに Margaret 女王により連れ去られた Sir Andrew Ogard の年若の息子を連れ戻すため遣わされる。1475年フランスへの遠征に随行。1476年スペインの海で溺死。5月7日 St Mary Somerset で鎮魂のミサ。負債を帯びて死んだため、エドワード4世は1478年2月26日付玉璽文書で彼の未亡人と遺児達のための基金の用意を命じる。
1461-75年にかけ室内装飾職人、家具職人、料理人、矢羽根職人、ビール醸造職人、フリーメーソンの組合を含む1ダース以上の紋章を認可。→ブノーは 'A book of visitation of many shires with London & other noble records made by William Hawkeslowe alias Clarenciux king of arms, painted with men of arms' を所有。
ホースレイ、ウィリアム Horsley William
Guyenne 紋章官、ヘンリー5世の時代
クラレンスー 1419年頃
1420年1月20日 'Guillaume Horsely autrement dit Clarenceux Roi d'armes des Clarenceux' として Rouen における紋章官達の会合に参加。
幾つかの目録は彼をヘンリー5世の時代 Leopard 紋章官及びアイルランド紋章王だったとする。Lant は彼をギエンヌ、クラレンスーとだけ呼ぶ。
ホーム、サー・トマス Holme, Sir Thomas
Falcon ヘンリー6世の時代
ルージュ・クロワ 1457年5月19日頃
ウィンザー 1461年イースター期頃
ノロイ 任1464年頃、玉璽1467年9月23日、勅10月8日
クラレンスー 勅1476年8月1日、1484年2月17日確認、辞1485年1月4日、再任の勅1487年5月1日
Essex 州 Walden 在。ファルコン従紋章官だったと言われる。以後ルージュ・クロワ、ウィンザー、ノロイ、クラレンスー。1462年9月1日まで北部管区長 Marshal of the North 。1471年7月11日チェスター紋章官 Water の良い振る舞いの保証人。1476年クラレンスー任命、1484年確認、しかし1485年1月4日辞職。続く2年一見雇われず、その間ノロイ紋章王→ジョン・モアがその役職に Normandy の称号で当たったかもしれない。1487年5月1日勅により再任。1482年 Alms Knight of Windsor 、勅3月29日。1493年没。遺言書は7月13日付、検認1494年6月10日。St Paul's Cathedral 、 Holme Chapel への埋葬を希望。
どの職においても外交官として頻繁に用いられる。何度もスコットランド、ブルゴーニュ、フランスへ、またブルターニュとデンマークへ遣わされる。
幾つかのロンドンの組合へ紋章を認可。1482年7月16日付教区書記への認可では、アイルランド紋章王→ベリンジャーによる同じ紋章の、以前の認可を越権として「無効にし非難した」。
→トマス・ライズレイの名付け親。所有する全ての紋章の本、記録、碑の本をクラレンスーとしての後継者達に遺贈、しかし最低1つは大英博物館にある(Harl. 4205)。
ボール、ヘンリー Ball, Henry
Rose Rouge 任1675年12月頃
ルージュ・クロワ 御璽1677年4月、叙5月24日
ウィンザー 御璽1686年2月、国王令3月22日、叙24日
チャールズ1世の軍で陸軍大尉 John Ball の息子。彼の姉妹はウィンザー紋章官トマス・ホルフォードと結婚。
Newcastle (公)の取引相手(? customer)、秘書官 Sir Joseph Williamson の吏員、 Williamson は彼のローズ・ルージュへの指名を獲得、以後ルージュ・クロワ、ウィンザー。1687年2月3日 Piccadilly 、 Air St 没。Holborn 、 St Andrew's に埋葬。
ホルウッド、ジェームズ Whorwood, James
ウィンザー 任1726年12月2日、勅17日、叙1727年10月9日、辞1736年7月23日
Oxfordshire 、Holton 在で Staffordshire 、 Sandwell Hall 在のナイト Sir Thomas Whorwood (1634年没)の長男、一時 Oxfordshire の高等シェリフ High Sheriff 、 Thomas Whorwood (1704年没)の四男で末子。母 Holton 在 Geroge Brome の娘で相続人 Ursula 。1726年ウィンザー。1736年通風による身体障害のため→ケッテルに売官。7月23日辞職。Cornhill 、 St Peter's に埋葬。
ホルフォード、トマス Holford, Thoms
ポートクリス EM令1663年5月26日、御璽7月25日
ウィンザー 御璽1687年2月、叙4月21日、辞1691年1月
大主教 Laud (チャールズ1世に仕え殺害)の侍従 Benjamin Holford の息子。ウィンザー紋章官→ボールの姉妹と結婚。1663年ポートクリス、後ウィンザー。画家。1664年(紋章官の)会合の命により→バイッシュ代理としてロンドンの教会を→サンドフォードとともに巡察、そこに掲げられた故人の紋章 hatchment と槍旗 pennon を報告。1665年4月25日、バイッシュにより改竄された紋章院の手稿について報告。1690年ある画家たちにより、彼らに与えられるはずの仕事をしたことで訴えられる。1691年1月ウィンザー職を→モーデュイットに売却。ポートクリス従紋章官→トマス・ホルフォードの父。
ホルフォード、トマス Holford, Thomas
Blanch Lyon 指1686年4月、叙5月3日
ポートクリス 御璽1687年2月、勅3月17日、叙4月21日
ウィンザー紋章官→トマス・ホルフォードの息子。1686年ブランチ・ライオン。1687年ポートクリスとして父を継ぐ。1689年アイルランドで事務官として軍で奉仕中に没。
ポンフレット、リチャード Pomfret, Richard
ルージュ・クロワ 勅1725年7月22日、叙1727年10月9日
Bedfordshire 、 Cardington 在。1702年生、8月21日Bedfordshire 、 Maulden で受洗。Maulde 教区牧師 John Pomfret 師の息子で相続人。1725年ルージュ・クロワ。1733年ハーグへのガーター使節において→大アンスティスに随行。1751年3月24日紋章院没。未婚。Northamptonshire 、 Harrowden に埋葬。
→リークによれば理解力に優れた人で、彼の職について幾らかの学と知識を持っていたが、どもり症。主に Bedford 近郊の地所により暮らす。概して尊敬されたが、さる恥ずべき汚名により友人に見捨てられ、紋章官への昇進を失い、「ジンへの殉教者」(Coll. of Arms MS. SML. 65, p.182)として死ぬ。
彼による幾つかの紋章学的コレクションはBM MSS. Lans. 584, 864, 887-8。
マカド、ロジャー Machado, Roger
Leicester 1483年4月頃
リッチモンド 紋章官1484年頃、紋章王1485年8月22日―10月30日
ノロイ 任1485年クリスマス、玉璽1486年3月8日、単独ノロイ1491年4月22日の→モア没以後
クラレンスー 1493年ミクルマス、勅1494年1月24日
出自は曖昧。古くはブルトン人と言われたが、姓はポルトガルかスペイン語であり、フランス人であるというのはおかしい。恐らく父はブレストに居住したポルトガル人(ポルトガルとの干鱈の交易?)。
レスター紋章官として1483年4月エドワード4世の葬儀の際に初めて登場、同年12月カレーで国王のために働く。恐らく1478年1月 York 公リチャードの婚儀に従ったレスターも彼。1484-5年 Dorset 侯のためネーデルランドで働く、恐らく Henry of Richmond の代理。ボズワースの戦いの前、ヘンリー(7世)に仕えるリッチモンド紋章官だったと言われる。1485年9月21日リッチモンド紋章官ことロジャー・マカドとして Southampton の関税検査官に任命。1485年10月までリッチモンド紋章王。1485年クリスマス、ノロイ任命。→モアは1478-91年にノロイだった故、この任命は将来享有権であるはず。あるいは、よりあり得るのは、代行(モアは職務を執行できなかった? 例えば老齢、病気、あるいは解任?)。何故なら1487年11月宮廷での伺候輪番表ではノロイではなくリッチモンドとなっているため。1491年単独ノロイ。1493年クラレンスー。ノロイ、クラレンスーどちらでもリッチモンドの称号を単独でまたはノロイ、クラレンスーとともに用いる。1504年ガーター職を→ライズレイのために諦め、ガーターの俸給より年20マルクの受け取りを認められる。
卓越した外交官。1486-1502年多くの外国使節に用いられ、幾つかは極めて難しいもの。それらの使節に忙殺されたため(そして彼のワイン交易のため?)、ライズとライズレイのガーター紋章王達が彼の本国での紋章学的職務を代行することで合意。彼による巡察は知られていない。ノロイとしての彼による紋章認可は知られていない。1494-1505年40近くの特許状がクラレンスーとして彼の名で発行される。しかし原本が存在しないため、彼自身とライズレイとどちらが作成したのか不明。1507-10年彼とライズレイの連名で7つの特許状が発行されている。紋章院の公的蔵本についての論争と彼の関連については H. & H., passim と R. & C., p.9 を見よ。
関税検査官として1485年 Southampton に居住。少なくとも1484-99年ワイン輸入業者。
メイ、トマス May, Thomas
ルージュ・ドラゴン 勅1675年12月16日
チェスター EM令1677年4月24日、勅5月6日、叙24日
1644年2月生。Sussex 州 Wadhurst と Mayfield 出身で Leicestershire 、 Sutton-Cheyney 在 Thomas May の長男。チェスター紋章官→トマス・リーの娘婿。Market Bosworth 、ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジ、ロンドンのニュー・インに学ぶ。1675年ルージュ・ドラゴン、→リーの死に際しチェスター。1681-3年クラレンスー紋章王→セント・ジョージの Northamptonshire と他の5つの州の巡察において共同代理人。1689年12月22日肺病により Sutton-Cheyney 没。
モア、ジョン More, John
Antelope ヘンリー6世の時代
ルージュ・クロワ 1460年頃(?)
ウィンザー 1468年10月頃(?)
ノロイ 勅1478年7月9日
? Normandy 1485-7年
恐らくギエンヌ紋章王 Thomas More の息子。ヘンリー6世の時代アンテロープだったと言われる。恐らく1462年4月テームズ河口の海賊を捕縛するために遣わされたルージュ・クロワ。何故なら1470年6月22日の同様の使いに 'John More alias Windsor herald' が送られているから。恐らく→ホームの職2つをそれぞれ1460年頃と1468年に後継。1465年ブルゴーニュへの使節、1471-5年フランス、スコットランド、スペインへの使節。1475年紋章管区長 marshal (ノロイ紋章王ホームの下で?)。1478年ノロイ。エドワード4世の葬儀、リチャード3世とヘンリー7世の戴冠式、 1485年10月28日 Bedford 公 Jaspar Tudor と他の貴族の授爵に参加。1485年10月30日ガーターとともにノルマンディー紋章王がヘンリー7世の戴冠式に参加していたことは、モアが、→マカドに(ノロイを)取って代わられている間この職を保持していたことを示唆し、また同職のまま、ホームが辞したクラレンスー紋章王職遂行に当たっていたのかもしれない。1486年ノロイの勅と年金更新。1491年4月22日没。Newgate St 、 Greyfriars (Christ Church) に埋葬、同地には St Francis 聖日前夜に没した 'Margaret Norrey' も埋葬されている。1491年4月10日付遺言書では自らをノロイと呼び、妻の名を Eleanor としているので、 'Margaret Norrey' は恐らく娘。1479年5月20日付皮革商組合の紋章を証明する特許状では妻が同組合の者であるとしている。息子は Blanch Sanglier 従紋章官。
モウソン、チャールズ Mawson, Charles
Blanch Lyon 国王令1680年3月5日
ルージュ・クロワ 御璽1686年3月、国王令22日、叙24日
チェスター 勅1690年1月16日、国王令2月6日、叙8日、辞1720年7月16日
Strand 、 Norfolk St と Hertfordshire 、 East Barnet 在。1646年4月12日 Leicestershire 、 Wigston 生。王党派軍騎馬大尉で Great Wigston 在 Thomas Mawson の年下の息子。1680年ブランチ・ライオン、後ルージュ・クロワとチェスター。1680年ノーフォーク公の「記録保管人」として A particular of the Lordship of Bittesby... のために資料を提供。1709年引き続き同公の記録のために働き、EM職についての文書を収集。1720年7月16日退職。1721年ノロイ紋章王→ピーター・ル・ネヴによりランカスターへの彼の代理に任命。1723年1月5日 East Barnet 没。同地に埋葬。ウィンザー紋章官→リチャード・モウソンの父。
モウソン、リチャード Mawson, Richard
ポートクリス 勅1717年12月11日、国王令18日、叙23日
ウィンザー EM令1745年9月1日
チェスター紋章官→チャールズ・モウソンの末男。1686年ロンドン、 St Clement Danes 教区生。1717年ポートクリス。1745年9月1日ウィンザー指名、しかし相続者なく9月2日没。East Barnet に埋葬。
紋章院在住。職務に勤勉。正直との評判、しかし優秀ではない。妻に£1000を遺す。
彼の書籍の一部は紋章院が、残りは→ウォーバートンが購入。後者は'Mawson's Obits'、1720-9年の婚姻、死亡、埋葬に関する記録を含み、→ウォーバートンから Norfolk 公が購入、紋章院に寄付(Coll. of Arms MS. E.D.N. 61)。
モーデュイット、ピアズ Mauduit, Piers
ルージュ・ドラゴン 国王令1690年1月3日、叙17日
ウィンザー 保1691年1月、勅2月16日、国王令5月3日、辞1726年12月3日
Devon 州 Ottery St Mary 在で一時 Kent 州 Penshurst の教区牧師 John Mauduuit (神学士)の長男。1690年ルージュ・ドラゴン、→キングより£100で購入。1691年→ホルフォードよりウィンザー職を購入。1693年 Mary Deeble の起訴(理由?)により投獄、しかし国王の従者としての特権により釈放。1710年紋章院の書籍窃盗により停職・投獄、しばらく後釈放。1726年12月3日辞職、→ホルウッドに売官。1729年没。11月10日 Essex 州 Leyton に埋葬。
J. C. Brooke によれば幾らかの専門知識を持っていたらしい。→ウォーバートンの死に際し Norfolk 公によって買われ紋章院に与えられた5巻の手稿紋章鑑('E.D.N. Alphabet')を編集。
ライズ、ジョン Wrythe John
Antelope ヘンリー5世(ママ)の時代
ルージュ・クロワ ヘンリー5世(ママ)の時代
Falcon 1473年頃
ノロイ 玉璽1477年1月23日、勅25日、叙2月2日
ガーター 勅1478年7月6日、辞1485年1月4日、復職8月22日
ガーター紋章王→サー・トマス・ライズレイ、ヨーク紋章官 William Wriothesley の父、 Southampton 伯 Thomas 、ウィンザー紋章官→チャールズ・ライズレイの祖父。John Minne (ヨーク?)の義父。
紋章院の歴史において最も重要なうちの一つであるこの家系の出自は不明。ライズレイという古い家系から彼らが由来するとするエリザベス朝期の系図は実証的学徒達により退けられる。恐らく Cricklade 選挙区選出庶民院議員で Somerset 公 John (Margaret Beaufort の父)の管財人 Receiver だった William Wrythe の息子。
ヘンリー5世(ママ)の下でアンテロープ及びルージュ・クロワ、ヘンリー6世の時代に Leopard だったと言われるが従紋章官職については証拠はなく、レオパードではなくファルコン紋章官だった。1476年クラレンスー紋章王→T. ホームの妻 Christian (Hall)の遺言書に'John Wrethe otherwise called Fauken Herod'と連署しているように。また勅許状でも Faucon と呼ばれる。疑いなく1474年2月に見出され(Sandford, p.234 n.; etc)、後にブルゴーニュへ遣わされる Faucon 。1477年1月よりノロイ、18ヶ月後ガーター。1479年、1480年、1482年(Northumberland に伴われる)スコットランドへ、1483年フランスへの使者。1483年11月30日任命確認の勅。1485年1月4日辞職(理由不明)、しかしヘンリー7世の登位に際し復職。1486年2月13日、前年8月22日以来の未払い俸給の支払とともに再度任命確認の勅。1486年7月10日年£40増給の勅。ヘンリー7世第1年回復令において彼の給料は明確に(没収その他)控除。1486年 Maxmillian への使節、1488年アイルランドへ、1489年ブルターニュへ。1491年 Maxmillian へのガーター使節。1491-4年ブルターニュ、ブルゴーニュ、カレー、フランス他への使節。1504年没(遺言書は3月25日付、検認4月30日)。Cripplegate 、 St Giles に埋葬。
サー・トマスは彼をナイトと呼んだが、同時代のどの文書にも、また彼の遺言書でもそのように称されていない。
Spelman によればエドワード4世の時代に(紋章上の)分家のしるしを発明を考案し「普及させた」と言われる。
1484年ロンドン市民、反物商人。
リチャード3世による紋章官の団体結成とコールドハーバー下賜時ガーター、ヘンリー7世によるその没収は間接的に公的記録の処分などの議論を引き起こした。
ノロイ及びクラレンスー紋章王→マカドはライズと、後者がマカドの紋章官の職務を本国において引き受けると取り決めるのが都合が良いと思いつき、後のガーター対地方紋章王達の論争の種を播くことになる。1499年彼らは巡察遂行の共同許可状を得るが、実際には何かを行ったということは全く知られていない。
全体または一部が彼により編集された手稿の中に'Wrythe's Book'、'Wrythe's Book of Knights'、'Wrythe's Garter Book'があるが、紋章院及び大英博物館の他の手稿にも彼の手による記入が含まれ、彼が1490年 Ballard の未亡人から買った'Ballard's Book'中の追加の幾つかも彼のものだろう。
彼の遺言書は Cricklade などの彼の父の土地に言及しているが、彼の成功の源は恐らく、 January de Dunstanville or de Caslecombe (Wiltshire)の娘で相続人 Barbara (1480年没)との結婚だろう、そしてそれにより彼らの子孫は Castlecombe と Barbara の曾祖母 Lusthill 家の紋章を受け継いだ。
ライズまたはライズレイ、サー・トマス Wrythe alias Wriothesley, Sir Thomas
Wallingford 叙1489年10月1日
ガーター 勅1505年1月26日
Wiltshire 、 Castlecombe 近郊 Cricklade と Colatford 在。Colatford 生。ガーター紋章王→ジョン・ライズの長男。母 Barbara de Catlecombe or de Dunstanville 。名付け親クラレンスー紋章王→トマス・ホーム。ガーターとなって後、彼と弟 William はライズレイの名を用い、それは彼らの子孫にまで続く。1509年 Richard Weynman への特許状中では自分を'Thomas Wrythe alias Wryotheley'と呼ぶが、1519年(John Wylkynson alias Harlyn への特許状)までに彼はライズをなくし、自分を単に'Thomas Wryotesley'と呼んでいる。
1489年 Arthur 王子(後 Henry 王子)に仕えるウォリングフォード従紋章官。1489年父に従いブルターニュへ。1504年ライズの死に際し→マカドは年齢と衰弱によりガーター職をあきらめ、ガーターの給料から差し引かれる年20マルクの受領により、代わりにライズレイを全ての紋章官の頭上を通り越して任命するよう国王を動かす。トマス・ライズとしてガーターに任命、しかし1509年10月9日'Thomas Wriotesley alias Writh filius Johannis Wriotesley alias Writhe'として新たな勅を取得。
1513年 Thérounanne への遠征、1520年 Field of Cloth of Gold 、1532年カレーでのフランソワ1世との会合に際しヘンリー8世に随行。1514年 Mary 王女のルイ12世との結婚に随行。
1503年 Urbino 公 Guido Ubaldi とカスティリャの Philip 、1523年オーストリアの Ferdinand 、1527年フランソワ1世へのガーター使節。
1534年5月彼は「老齢と悲しむべき衰弱により引退」、同年11月24日没。Cripplegate 、 St Gilesに埋葬。
1504年ロンドン市民と反物商人(の特権)を父より継ぐ。1523年 Ferdinand 大公によりニュルンベルクにおいてナイト叙任。
Westminster Tournament 紋章鑑に肖像画。
ガーター就任に際し Cripplegate 、 Red Cross St に'Garter House'の名の大邸宅を築造。
息子→チャールズはウィンザー紋章官。
彼の第2の妻 Agnes 旧姓 Ingleby は恐らく Carlisle 紋章官 Leonard Warcop の縁者 Robert Warcop の未亡人。
マカドと→ブノーは主に外交活動に携わったためライズレイは本国での職務を自由に行った。彼は彼の父とマカドの取り決めを更新し、同様の取り決めを1511年7月5日ブノーと、1511年2月4日ノロイ紋章王 Younge と、1534年8月2日 Wall 及び Hawley と結んだ。1530年までにブノーの外交職務は縮減あるいは終わり、彼はライズレイの紋章認可と巡察の事実上の独占を見出す。それは彼自身の権利にとって不愉快でありまた侵害だった。これにより1530年の授権書と彼らと彼らのそれぞれの後継者達の長い争議がもたらされる。ブノーはまた紋章官達がコールドハーバーを追放されて以後、ライズレイとその父が紋章院全体に属する記録を保持したことに不満を述べている。
彼の前任者達と他の何人かの紋章官達と違い、純粋に儀礼的であるガーター使節を除いてどんな外交使節としても遣わされなかったようである。これはマカドやブノーといった有能な外交官が用いられたため以上の理由によるものではないだろう。紋章官の職務のもう一つの分野において「彼の能力に疑いはない……彼によってまたは彼のために編集された多くの紋章目録及び紋章鑑、序列と系図の本は、この主題における広範な愛好と知識を示す」。彼の仕事の成果の中には'Prince Arthur's Book'(Coll. of Arms, Vinc. MS. 15)、'The Book of Standards'(I. 2, De Walden Library, Banners, Standards and Badges)、紋章院のL.8, 9, 10と12、M.7, 10と14と1st M.17(紋章院における分類番号――上村)、尚古協会MSS.476と443と'Wriotheley's Roll of Grants'、BM Add.5530、Harl.1074と1417、3つの旧 Clumber MSS. Add. 45131-2-3とEgerton 1713 'Willement's Roll'がある。これらはとりわけE、H、P、RとSの見出しの紋章鑑、シュヴラン、クロス、フェス、ライオンとその他の図形、クレスト、獣(サポーター)の図形紋章鑑を含んでいる。他の手稿は Bodleian と他の私蔵コレクション中にある。
ライズレイ、チャールズ Wriotheley, Charles
ルージュ・クロワ 任1524年、勅1525年5月29日
ウィンザー 叙1534年12月25日、玉璽28日、1535年1月21日
1508年5月8日 Garter House 生。ガーター紋章王→サー・T. ライズレイの年若の息子の1人。母 Jane Hall 。Berwick だったと言われるがそうではない。1524年16歳でルージュ・クロワ。大法官 Audley の侍従。1529年(1521?)グレインズ・イン加入許可。1534年ウィンザー。1544年フランスへの軍に随行。初め Garter House に居住、後(1534年以後) St Sepulchre 教区、 Newgate の外のクラレンスー紋章王→キャムデンの父の家に住む。1562年1月25日同地没。1月27日 St Sepulchre's に埋葬。葬式代は紋章院によって支払われる。
Coll. of Arms, Vinc. MS. 152, p.71では 'Charlys Wryotesley, of Guyer' と呼ばれる。
2度結婚、子はいない。
多くの本を所有、恐らく父のもの。Stow は彼がそれらをあまりに長く学者の目に付かないままにしたと不満を述べた。Noble によれば多くは彼の死に際し→サー・ウィリアム・デシック(父の→ギルバート?)により購入。父サー・トマスの本の一部は確かにデシックが所有。例えばColl. of Arms Vinc. MS. 152 はデシック家の者による加筆を含む。例えばp.147のデシックの紋章は明らかに抹消の上に加筆されたもの。
1519年以後の重要な一次史料Wriotheley's Chronicle の著者
DNB他では1522年土地と手数料で£38 6s. 8d.、動産で£40の借金(を作れる?)と見積もられている Cripplegate 、 St Giles' 在 'Charles Wreotesle' ではないかとしている。これはあり得るだろうか? 彼は当時まだ14歳で、父は£40、ノロイは動産で£40、手数料で£20と見積もられているのに。
ラント、トマス Lant, Thomas
ポートクリス 上衣への玉璽1588年12月19日、御璽1589年4日、勅9日、叙2月4日
ウィンザー 叙1597年10月23日、勅1600年11月29日
1556年頃 Gloucester 生。Stafford と後 Gloucester 在 Thomas Lant の息子。母 Salop 州在 Mayens of Mary Mounsloe 。Chapel Royal 少年聖歌隊員。1568年頃 Gloucester 主教 Cheyney 付小姓、1579年頃 Todington 在 Cheyney 卿の小姓。Sir Philip Sidney の従者でネーデルラントへ彼に随行。1586年秘書官 Walsingham に用いられる。1588年ポートクリス。1597年ウィンザー。1601年没。Sidney の葬儀行進の巻物の下絵制作、 Th. de Brij により版画作成、1587年印刷。
1595年女王にヘンリー5世以来の紋章官の目録(Lant's Roll)を献呈、紋章官が、常に員外従紋章官から従紋章官、紋章官、紋章王と昇進していたことを示すのが目的。これは明らかに、少なくとも部分的に、→グローヴァーのノロイへの将来享有権の認可によって引き起こされた。大英博物館他に多くの複製がある。残念ながらこれはあまり依拠できず、多くは純粋に創案のように見える。
'Lant's Observations' (Coll. of Arms MS. Arundel XL)は1590年頃の紋章院の鮮やかな描写。
1589年→クックの Baronage の増補版を編集。
恐らく Daily Exercise of a Christian (1590)の作者。
リー、ロジャー Legh or Lygh, Roger
Wallingford ヘンリー5世の時代
ルージュ・クロワ ヘンリー5世第8年
Gloucester 紋章官、1431年2月22日頃
クラレンスー 叙1435年5月8日
ウォリングフォード、ルージュ・クロワ、チェスターだったと言われる。最後のはあり得ない。従紋章官だったことは裏付けられない。実際に Gloucester 公 Humphrey (位1414-47)の紋章官、グロースター紋章官だった。1431年2月22日付保護証は彼をロジャー・リーまたはグロースター紋章官と呼び、1436年3月4日付別のそれは 'Rogerus Legh de Londonia Heraud, alias dictus Rogerus Gloucestre, alias dictus Rogerus Gloucestre de Newyonton in Comitatu Surriae, alias dictus Rogerus Clarenceux Rex Arrmorum de Newyonton in Comitatu Surriae, Heraud' とする。彼は当時フランスへ赴く York 公に随行するところだった。
恐らく1426年 St George's Feast においてランカスター紋章官とともに国王の贈り物を受け取り、また1427年にはポルトガルの Coimbra 公にガーターのお仕着せを届けたグロースター紋章官。1432年フランスに遣わされ、9月彼と Sir John Fastolf に仕える Segret 従紋章官 de Fugiers は Rouen から Dieppe への途上強盗にあう。1435年クラレンスー。1436年3月スコットランドへ、同年ノルマンディーへ赴く York 公に随行。1441年再びノルマンディー、1451年スコットランドへ。1453年 John Newport とともにアラゴン王、ポーランド王にガーター爵を授けに遣わされる。
1460年もしくはそのすぐ前に没。1460年11月30日付玉璽文書は彼は非常な貧乏の中で死に、彼の未亡人は慈善に頼って生きていると言っている。
13の紋章特許状が1440-50年にかけ彼によって与えられたことが知られる。1440年 May へのそれは、その紋章が被授与者、その相続人、その受託人によって帯びられるとする点で特徴的。
→ブノー遺贈の本の中には 'a booke of Visitation of many shires wit Lond. and princes painted wit men of armes, made by Roger Legh als. Clarenceux King of armes' がある。この巻はすぐ破損し、4つの部分が現在 Military 紋章鑑('many shires' 、MSS. Harl.4205とAdd. 45133)、ロンドンの市参事会員(または巡察)(Guildhall Library)、イングランド諸王の像('princes' 、Harl. 4205)、パーラメンタリー紋章鑑のバネレット騎士達('men of arms', ibid.)として同定されている。全て1440年代作。同じ人物による市参事会員(の紋章)が Bruges' Book に描かれている。
リー、リチャード Lee or Leigh, Richard
ポートクリス 勅1571年3月22日、叙3月30日
リッチモンド 指1584年、御璽1585年5月26日、叙6月10日
クラレンスー 保1594年5月8日、勅11日、叙5月18日
1531年頃生。Cheshire 、 Lee Hall 在 Lee 家の分家筋で Staffordshire 、 Aston 在 Roger Lee の次男。1571年ポートクリス、以後リッチモンドとクラレンスー。→クックの代理として1574-5年 Oxforshire 、 Buckinghamshire とオックスフォード大学を、1584年 Shropshire を、1592年 Lincolnshire を巡察。1566年の Cheshire の巡察を追補。Oxfordshire と Buckinghamshire の巡察中、両州の教会に関する覚え書きを作成。Coll. of Arms MS. R. 37は1570年彼により 'the howse of Mr Smarte latte Sword bearer of London' において購入、その一部は彼が収集したもの。1597年9月24日 Philipot Lane 没。未婚。London Wall 、 St Alphege に埋葬。彼の死に際し紋章院は「その多大な費用により」当時彼が保持していた全ての本、紋章鑑、記録をクラレンスー紋章王クックのそれらとともに購入。巡察担当者としては勤勉だが信頼できないとの評価。
リー、トマス Lee, Thomas
チェスター 御璽1660年6月、誓8月10日
なめし革業者の息子(→ジョン・ギボン'Inquisitio sincera')。Middle Temple 在。ロンドン塔記録事務所 Tower Record Office 事務官。王党派軍大尉。王政復古時チェスター。有能な紋章官で→サー・エドワード・ウォーカーに対するEMの忠実な支持者。ウォーカーの娘婿 Sir John Clopton は彼を「父のあの執念深い敵」と呼んだ(Hamper, Dugdale, p.409)。ウォーカーの死に際しガーター職を提供されるが、健康不良のために断る。1677年4月23日没。紋章院に何冊かの本を遺す。ロンドン、 Green Park 近傍 Brick Close 所有。彼の娘 Frances はチェスター紋章官→トマス・メイと結婚。→グレゴリー・キングの友人。
リーク、スティーヴン・マーティン Leake, Stephen Martin, FRS and FSA
ランカスター 勅1727年6月1日、叙10月9日
ノロイ 勅1729年12月17日、国王令21日、叙1730年1月28日
クラレンスー 勅1741年11月30日、国王令12月21日、叙22日、給10月1日より
ガーター 勅1754年12月19日
「紋章院に光輝を添える人物、最も有能かつほとんどの問題、とりわけ紋章の学問と彼の職務についてよく知見を持っている。私生活では最も立派な、すばらしい人物」、このようにガーター紋章王 Young は1841年に書いた。
Essex 州 Thorpe Hall 在。1702年4月5日生。海軍大佐 Stephen Martin の息子。父親は海軍少将 John Leake の養子相続人で、その名前と紋章を彼は帯びた。ミドル・テンプル法廷弁護士。1723年水先案内人協会 Trinity House 下級会員 Younger Brother 。1724年 Tower Hamlets 副統監 Deputy-Lieutenant 。1726年FSA。1727年FRS。1727年→ヘスケットの退職に際しランカスター、同職に対し350ギニーを支払う。以後ノロイ、クラレンスー、ガーター。1731-2年EM秘書官。
生涯を通じて紋章官の権利と特権のために戦う。1732年騎士裁判所の失敗に終わった復興に指導的な役割。1733年沐浴(騎士団)紋章王へのウェールズの紋章管轄権認可に成功裏に反対。1738年紋章官の独占紋章作画権他の令状の請願を書き上げるが不首尾に終わる。1747年紋章院にて非国教徒及びユダヤ人のための出生登録開始。1759年 Braunschweig-Bevern の Ferdinand へのガーター使節及び、1764年 Mecklenburg-Strelitz の Adolphus Friedrich への同使節において共同全権大使。1773年3月24日 Middlesex 州 Mile End 没。Essex 州 Thorpe-le-Soken 教会に埋葬。
Nummi Britannici Historia(1726)、Reasons for granting Commissions to the Provincial Kings at Arms for visiting their Provinces(1744)、Life of Sir John Leake(1750)、Remarks on the Origin & Usage of Arms(1834)、The Sovereign Arms...at the Accesson of King James I, 1603, with Remarks on the Order of the Thistle(1855)、'Account of the Heralds' Office'(1767)(Genealogist, N.S. XIII, 138において刊行)の著者。
彼の手稿コレクションは彼の次男チェスター紋章官 John に遺贈され、その末弟である George の1834年の死に際し、大部分はスティーヴン自身の手による75巻は紋章院により購入。いくつかのわずかな、より私的なものは、 Hertfordshire 、 High Cross 、 Marshall's の John の子孫が所有、1953年陸軍大佐(VC) Arthur Martin Leake の死に際し大英博物館に寄贈。
リークの手による、'Heralds' College Papers'としてまとめられたいくつかの文書はヨーク紋章官 G. W. Marshall によって紋章院に遺贈。
エセックス関連の9巻のリークの書籍及び手稿はエセックス考古学協会所有。
リークは系図学にとりわけ関心があったわけではなく、彼のコレクションは紋章官の歴史と権利(14巻)、騎士裁判所、ガーター騎士団、儀礼その他に関わるものである。
彼の年下の息子ジョンとジョージは相次いでチェスター、長男 Stephen は Norfolk 。1727年彼自身のランカスターへの任命以来、1834年ジョージの死まで107年間、彼の家族の最低1人は紋章院に所属。
ルフェーヴル、ジャン Lefèvre, Jean, Sire de St Rémy
従紋章官? 1415年
1395年頃 Ponthieu 州 Abbeville 生。1415年イングランド軍とともにアジャンクールの遠征参加。1425年頃ブルゴーニュの Philip 善良公に仕える Charolais 紋章官。1431年11月金羊毛騎士団付の初代金羊毛紋章王。'Grand Armorial Equestre de la Toison d'Or et de l'Europe' (1890年 Lorédan Larchey によりパリで出版)。歴史的著作の著者。1468年没。
Larchey の St Rémy がイングランドの従紋章官だったとする説は疑われてきていて、1415年彼がイングランド軍とともにいたという事実は、それ自体確実ではない。しかし彼が生まれた時点で、またそれ以後しばらく Ponthieu はイングランド王に属し、それ故 St Rémy はその臣民だった。そして彼が、アジャンクールの後イングランドに戻るヘンリー5世に随行していたという事実は、 Larchey の考えをうまく肯定する。彼が国王のまたは私的な紋章官のどちらだったのかを示す事実はない。後 Ponthieu はブルゴーニュに割譲され、 St Rémy は公に奉仕するようになる。
ル・ネヴ、ピーター Le Neve, Peter, FRS., PSA
ルージュ・クロワ 勅1690年1月17日、国王令2月6日、叙8日、給1689年ミクルマスより
リッチモンド 御璽1704年3月、勅4月5日、給1703年クリスマスより
ノロイ 勅1704年5月25日
ロンドン生。1661年1月22日、 Cornhill 、 St Michael's で受洗。ロンドン市民で呉服商、 Cornhill の室内装飾業者 Francis Neve の息子で相続人。Ringland 在 Norfolk 員外紋章官 Firmian Neve の孫、クラレンスー紋章王 Sir William Le Neve の遠戚。ル・ネヴの名前を再び(?)用いる。Merchant Taylors' School 、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、ミドル・テンプルに学ぶ。FRS。1707-24年(DNBは1687-1724年とする――上村)尚古協会初代会長。1690年、ルージュ・クロワ、1704年リッチモンド、数週間後ノロイ。1693年頃-1706年財務府侍従代理。ノロイとして精力的に自らの職位の権利を維持する。→アンスティスのガーター任命への紋章院の反対の指導者。1706年オスナブリュック司教(ジョージ1世の兄弟 Ernest Augustus)へのガーター使節。1729年9月24日 Norfolk 州 Great Witchingham 没。同地の教会内陣に埋葬。ユニテリアン、フリーメイソン。
→リークは彼を外見にだらしがなく、気質は下劣で自己中心的、行状はけち、ただし彼が出費を惜しまなかった彼の蔵書に関することを除いては、と評した。Hearne は彼をけちで風変わりだが、善人でつきあいやすいと評した。尚古家として勤勉で、並外れた労働力を持つ。主に記録の整理分類とノーフォークの歴史と家系に関する資料の収集に専念。これらのコレクションは Blomfielsd と Parkin の Norfolk の中心要素となる。1703年→サー・トマスの死に際し、セント・ジョージのコレクションを購入。彼の全てのコレクションを紋章院に遺すことをもくろむが遺贈を完遂せず。彼のコレクションは現在散逸。Paston 家書簡と多くのノーフォークの資料を含む多くの部分は彼の未亡人を通じて彼女の2番目の夫、 Palgrave 在 Tom Martin に渡り、彼は1731年の売却時にさらに多くを購入。これは800程の手稿、紋章鑑、契約文書を含む。
彼の5巻の覚え書きの抜粋は Norfolk Arch. Soc. Trans., II 、 Gent. Mag., N.S. XV, XVIII, XX 、 Topographer and Genealogist, II と Crisp, Fragmenta Genealogica に印刷。3巻の手紙の原本はBM MSS. Harl. 4712-13, 7525、1895年 Norwich の Walter Rye によって分類。
パストン家書簡以外に、彼が所有した2つの興味深い手稿は'William Jenyns' Ordinary'(紋章院)と'Peter Le Neve's Book'MS. Harl. 6163、Two Turdor Book of Arms, De Walden 本の一部として出版された2つの15世紀の紋章鑑の2番目)。
レイクまたはオザレイク、ジョン Lake or Othelake, John, alias March
March 1377年11月頃
ノロイ 1386年1月頃
Doyen 1394年頃
? Ireland 1395年
辺境 March 伯 Edmond Mortimer の紋章官で伯は1377年11月1日彼の年給1マルクを認めた。1381年より国王に奉仕、しかし辺境 March と呼ばれ続ける。1384年ミクルマスには紋章王。すぐ後、北部の責任者。1386年1月11日 'John March, Noreys King of arms' と称する。1394年 Froissart は彼を 'roy d'armes d'Angleterre' と呼ぶ。それはイングランドの紋章官の最高権威者 doyen の意。しかし1395年には 'roy d'Ireland tant que en armes' 。彼がアイルランドと呼ばれたという証拠は他になく、リチャード2世第19年(1395年)ミクルマス付支出録 Issue Roll では辺境と呼ばれ、これが公的記録における彼の最後の出現。全職歴を通じ元は Mortimer によって与えられた辺境の名を用いる。カレーに土地を所有。
レーン、ジェームズ Lane, James
リッチモンド 勅1738年1月27日、給1737年10月14日より、辞1755年5月30日
1752年EM代理の秘書官、紋章院記録官。1755年出納官。1755年5月30日辞職、→ウィンイェーツからの購入時£500しか支払わなかったのに Grose に£800で売官。勤勉だが杜撰。→大タウンレイによれば「全ての面においてふらち」。肖像画が紋章院に現存。
ロート、サー・ペイン Roet, Sir Payne
Guyenne 1334年頃?
Hainault の騎士。恐らく Philippa 王妃の養育のためにイングランドへ来る。John of Gaunt の妻 Catherine とチョーサーの妻 Philippa の父。Old St Paul's の碑では 'Guyenne rex armorum' と呼ばれる。任命の日付と没年不詳。1334年 Thomas Andrews とその兄弟達に紋章を認可したと言われるが、文書は明らかに偽造。恐らく1352年頃没。
ワイトウィック、トマス Wightwick or Whitwick, Thomas
ポートクリス 勅1713年6月5日、国王令9日、叙18日
ヨーク 勅1717年10月25日、国王令12月18日、叙23日
Kensington 在。1690年頃生。ロンドンの商人で Stafford 州 Wightwick 在ワイトウィック家の分家筋 Richard Wightwick の息子。伯(叔)母 Elizabeth は Mowbray 及びランカスター紋章官→フリスと結婚。1713年ポートクリス、1717年ヨーク。1722年6月17日 Temple Bar 近郊 Shear Lane の義兄(弟) Charles White 宅没。Paul's Wharf 、 St Benet's に埋葬。無遺言、破産状態。遺産管理権は White に許され、彼は四冊の本を紋章院に与える(1723年3月)。
Hearne によれば White は1718年8月5日「同じ名の」(恐らくワイトウィック)ある女性と結婚したという。もしそうなら彼女は彼より早く死んだことになる、何故なら姉(妹)の Martha White は彼の唯一の相続人だったため。