第十話




 三共の品川工場に居る時はギターで楽しいことがいろいろあった、

まず、昼休みに音楽会を開催したことだろう、

何しろ工場の中には3000人からの女工さんがいた、

なんでも手作業の時代だから、ビンにラベル一枚張るのにも人手だった、

しかも娯楽というのがほとんどない時代だから、

昼休みにコンサートを開くという情報を流すと200人〜300人はすぐ集った、

工場長も「音楽会を開きたいんだけど」と相談すると、すぐに昼休みを長くしてくれた、

まあ、なんとものんびりした時代というか、

30分は平気で延長してくれた、

仲間の田丸君が歌を歌いたい人をあらかじめ募集しておいて、

本人に歌わせてそれをスラスラと数字譜に書き取っておく、

音楽会での本番で歌いたい人が前に出てくるとその歌に合わせて、

伴奏をした、数字で書いてあるので簡単に伴奏できた、

拍手喝采で大いに受けた、楽しかった思い出だ。


 教室を開いて教えているころ、

教室の連中と銀座のヤマハに出かけて行って、

順番に演奏してレコードに録音した、

演奏する部屋と録音する部屋がガラス戸で仕切られていて、

演奏する部屋にはマイクがひとつあり、

その前に座って一生懸命ギターを弾く、

レコード盤に直接針で彫っていく方式なので、

弾き直しはできない、結構真剣だった。

終わってその場でレコード盤を渡してもらい、

まだ戦後の色濃い銀座を、ギターを持って3〜4人でフラフラ歩いた。


このころナイロン弦というのは非常に貴重で、

今のように頻繁に変えることも出来なかった、

ナイロン弦が入荷したという情報を得るとすぐに買いに行った、

渋谷の道玄坂を登ったところに店はあったが名前は忘れてしまった。

渋谷もそのころは3階建てくらいのビルがちらほらあるくらいで、

今のように近代的な街ではなかった。

とにかく一度使ってしまうと、またいつ入荷するか分からないので、

コンサートで使うくらいで普段の練習では使えなかった、

普段は鉄弦だったり釣り糸であったりなかなか大変な時代だった。





昭和23年 6月12日の昼休みのコンサートのチラシです、
タンゴアンサンブルの中に近藤さんの名前が見えます。






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