第六話



その当時のギターの弦事情は、かなり厳しい状態にあった、

2弦、3弦は三味線の弦、1弦は釣り糸を使った、

低音弦はどうにもならずにスティール弦を使った。

ガット弦は、よほどのことがない限り使うことはできなかった、

一回使うとすぐに取り外して保管した、

値段が高く貴重だったので、なかなか買うことが出来ないしろものだった。

三共時代の話に戻ろう、

当時、三共製薬の工場が品川にあった、

そこに勤務していたわけですが、その当時はすべてが手作業だった、

ラベル貼りにいたるまで全部女工さん達の手作業だった、

手作業だからその女工さん達の数も半端ではない、1000人はかるくいた、

作業場へ行けば、ドアを開いただけでまず数百の目がこちらに向いた、

とりあえず若かったのでそれだけで緊張する。

戦後すぐの当時は、娯楽というものが皆無に近かった、

会社もそのへんは良く考えてくれていて、昼休みなどシッカリ時間を空けてくれた、

そして我々の出番が来る、

軽音楽部の定期演奏会もこの工場内で行われた、

会社の仲間とバンドを組んで、この休憩時間に皆の前で演奏した、

人数も反応も半端でないから楽しかった、

第一ヴァイオリン/光枝惇三、第二ヴァイオリン/田丸壽吉、アコーデオン/大来仁郎

ギター/近藤輝夫、ピアノ/武川洋三、ドラム/高橋 廣、以上6名のバンドで演奏した、

皆、懐かしい名前ばかりだ・・・・・・。

曲目は、イタリーの庭、碧空等で、好評を博した。

もう一つ良く覚えてることに、第二ヴァイオリンの田丸君のことがある、

彼は、音に対する抜群の感覚を持っており、

ラジオから流れる音楽をタブ譜で書き取ってくれた、

それを元にギターでコードをつけて演奏した、

それが正しいコードだったかどうかは、今や藪の中だ。

クラシックギターの独奏も演奏した、

アルハンブラの思い出などを演奏した。

この曲も、今では当然のように演奏されていますが、

その当時では素人が演奏するということは、かなり珍しかったと思う、

内容がどうであったかは当然ながら藪の中だ。

戦後の荒廃した世情の中で、

文化を育てていこうとする意欲が会社にもあり、よくバックアップしてくれた。

我々のバンドは好評で、工場内だけではなく、

明電舎の会場に呼ばれたり、大井町の祭りにも、ちょくちょく呼ばれて演奏した、

我々の活動に、会社および地域ぐるみの理解をしてもらい、順調だった。






2003年 ボランティア活動に参加、演奏する。


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