渡辺さんの俳句傑作選
2013年 8月の俳句
乱鶯や納戸に古りし軍歌集
夏と言えば必ずめぐってくる戦争の記憶。
一国の歴史というのは、
半世紀過ぎても消えることのない記憶になるから、
ある種怖いという気がする。
国を引きずっていく人というのは、
そこのところも考えないといけないわけだが、
戦前の国のトップにいた人たちには、
そこの自覚はなかったかも・・・。
そう思わせることが多々あり・・・。
国とか国民が個人的なものになっていたというか・・・。
そうなるとだいたい良い方向に行くことはなく。
詰まったところで戦争ってことになりますな。
軍隊軍人には外交センスというもの自体ないですね。
それが国のトップに就いたのが、
そもそもの間違いの始まりなのかも・・・。
個人の歴史などというものは、
どこにも残りはしないが、
国の歴史というのは、
たとえ一冊の軍歌集にも残るということですな。
今の時代に軍歌集はないだろう。
でも、歴史という時間軸の中には残る。
国のトップにいる人は気を付けて欲しいですな
老鶯や北アルプスの天然水
老鶯と書くと置いた鶯と読める。
もう年月を超えて老いた鶯が鳴いている。
そういうことから来てる言葉じゃない・・・。
夏になく鶯が元気がないと思ってはいけない。
夏の猛暑でもガンガン高らかに鳴く鶯なのです。
だいたい漢詩に出てきたのがもともとの言葉で、
年老いた鶯の元気のなくなった鳴き声を、
現そうとしたらしい・・・。
しかし、実際は夏に鳴く鶯が、
元気がないということはなく、
高らかにゴルフ場でも鳴いているらしい。
事実を変えて詩の中の言葉としてしまったようだ。
老いた鶯という言葉から、
嘆きを表現しようということなんだろうな。
ここでなぜ北アルプスの天然水なのか・・・。
今や、普通の水を飲むということはだめで、
水も買う時代になってる。
水の味わいの違いもあるようだ。
水の味わいにまで、
味覚が昇華された時代ということか・・・。
味を極めた時代の究極の味比べだ。
健康のためということも大きいらしい・・・。
だからと言って特に癌が減るわけでもないが・・・。
南アルプスの天然水はどうなのかなぁ・・・。
虫取りを少し控える原爆忌
人類史上最初にして最後に使われた原子爆弾。
使ってみるまでは誰もその威力も何も、
分からないということで、
使ってみましょうで落とされた。
落としてみてその威力が詳細に調べられて、
現代にいたる。
原爆が使われたことに、
いろんなことが言われてますが、
けっこう単純で簡単な動機だったのではないか、
という気がする。
使ってみて、
こりゃやばい・・・、
となっていったんじゃないだろうか・・・。
今や使えない兵器の第一だろう・・・。
だから欲しがる国もある。
毎年自分が生まれる前から原爆の日の式典はある。
毎年原爆の惨禍を訴えていくことと、
犠牲者の冥福を祈るのは大事なことだと思う。
虫取りの宿題もこの時ばかりは自粛。
かごに入れて捕虜にする状況は、
あまり見たくない日でもある。
最近では虫取りをしたくても、
塾に追われてあまりできないということもある。
現代では生き物に触れる機会というのも、
かなり減ってきてるのかな・・・。
筆ペンにインクを詰める終戦日
太平洋戦争が終わって半世紀以上が過ぎる。
戦争というのは常に一般庶民が犠牲になる。
戦争の音頭を取る連中の多くは、
その後もよろしい場合が多い・・・。
庶民にとっては割の合わない仕事であることに変わりはない。
いまでの戦争をやってる国があり、
戦争のための準備を、
多額の費用をかけてやってる国もある。
確実な天敵のいない人類という生物は、
共食いが宿命となっているようだ。
かたや武器でバンバン殺すのが美徳とされ、
かたやバンバン医学で助けるのが美徳とされる。
この矛盾が人間のすべてを現していると思う。
矛盾という言葉は人間にしか当てはまらないだろう・・・。
そういうところに人間という生物の不完全さが凝縮されている。
終戦記念日という消えない過去を記念する日に、
ペンを持って個人的な思いを、
つづるのもいいかもしれない。
戦争へということに限らずだ・・・。
何色のインクを詰めるか・・・。
これについては個人の自由が保障されている。
写経して姿勢を正す終戦日
戦争を知らない世代でも、
そろそろ老境に入る人達が出てきた。
それだけ長い時間が過ぎているということだろう。
戦争を知らない世代で老境に入る頃合いの人たちは、
子供のころに戦争ごっこなんかを経験してる人も多い。
今の子が戦争ごっこなどはゲームくらいでしかやらない。
老境に入る世代の子供たちというのは、
親が戦争に行っている世代だ。
戦争ごっこもリアリティーがある。
戦艦大和、戦艦武蔵、戦艦長門・・・。
ゼロ戦、隼、グラマンF6F、B29・・・。
なんだか登場する船にしても飛行機にしても、
実際に戦争で使われていた名前が、
遊びの中でも出てくる。
戦争そのものを知らなくてもリアリティーがあるのだ。
その後の子供たちとなれば、
リアリティーというのは100パーセントない。
しかもゲームの中の戦争は、
いくら倒してもよみがえってくる。
こういう感覚の中の世の中というのは、
簡単に戦争に突入しそうだ。
要するにゲームの中で軽くなった命の感覚は、
容易に戦前の感覚に戻るということだ。
終戦記念日に写経をするというのは。
各世代が一緒にやらないといけないのかも・・・。
各世代が一緒に姿勢を正すことが必要だと思える。
句会員の句
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音の差に打ちひしがれて発表会
主催者吟
列車降り秋めく日差し蝶二匹
虫の音に変わる本屋の帰り道
思い出の花火の河原一人立ち
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雨やみて池に尾を突く赤とんぼ
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