渡辺さんの俳句傑作選


2018年 9月の俳句


東京は起伏ある町星祭

東京オリンピック、パラリンピックも後二年で開幕ですね。
と、前回書いたらまた使いたくなる句が登場。
東京オリンピックが開催されるのはどうも7月らしい。
猛暑が心配されてサマータイム導入というところまで話は進んだ。
結局、本家本元のヨーロッパでは廃止の機運が盛り上がって、
軽い議論のままとん挫・・・。
なんとも節操のない話ですが、
こういうノリでないと被災地の現状を全く見ないで、
お金をじゃぶじゃぶつぎ込めないですよね。
見ざるを決め込んでますよ。
終わったら復興費なんてないんじゃないかと思う。
ま、消費税の再アップもあるかもね。
星祭と言えば七夕。
子供のころは近所の竹林から竹をもらってきて、
近所の子供たちで短冊かなんか書いて飾った、
子供だからなんて書いていいかわからないのもいる。
そうすると年長の子がいじって、
寝小便をしないようにと書けばなんてことを言う。
その気になって書いたりするわけですよ。
子供が近所にうじゃうじゃいる時代の話ですね。
いま竹藪なんてのもないし、
子供自体が少なくてあまり見ない・・・。
星祭というのは俳句の季語ではありますが、
そのうち絶滅季語入りしそうな感じ。
昭和の季語なのかもしれない。
幼稚園を卒業したら見向きもされない七夕。
彦星と織姫星の話というのは今の子は、
ほぼ誰も知らない。
こういうロマンチズムというのは、
昭和でおしまいになってるんですな。
絶滅季語辞典に載りそうな勢いですよ。
東京は坂の街。
名前のついてる坂が多いいですね。
猛暑のマラソンでは見どころ満載になりそうですよ・・・。





台風の目に目薬を入れてみる


最近の台風報道では、
台風になりそうな雲の塊から、
台風になり台風の目がはっきりしてきたと、
時系列的に解説されていく。
これ自体衛星の進歩からきてるんだろうけど、
大型化していく過程も解説される。
テレビの天気予報を見ていると、
なんだか台風が発生するたびに恐ろしくなる。
今年はというか毎年というか、
とにかく台風の被害が大型化している。
それと台風の進路も以前では、
考えられないコースをたどることも多くなった。
テレビ画面で見る台風の目って結構迫力がありますよね。
白い渦巻く雲の真ん中でくっきりあいた穴って感じ・・・。
一番興味がわくのが予報士の語る進路ね。
最近ではアメリカやヨーロッパの予想する進路まで解説される。
日本本土に向かってくる予想だとなんだかがっかりする。
日本、アメリカ、ヨーロッパでコースの予報が微妙に違う。
なんだだろう?と聞いてる人がいましたが、
使われるコンピュータによって違いがあるということです。
一番都合のいいコースを予想してくれてる国の予報が、
一番いいわけですよ。
それが結構日本だったりする。
時刻有利の予報に傾くのかな・・・。
しかし、シビアなヨーロッパ、アメリカの予報が当たることが多い。
なんだか癪に障るんですね。
台風の目に目薬を入れてみる。
これって目薬の種類によって、
かなり結果は違ってくるんじゃないかな。
目が霞む目薬を入れて方向感覚を狂わせて、
こっちに来ないようにする。
フラフラしてこちらに来るコースを外れればシメシメ・・・。
下手して目の疲れがすっきりとれる目薬を入れてしまうと、
目標がはっきりして最短でこちらに向かってきそう。
これはほとんど犯罪って感じですよね。
これはなかなか難しい作業になりそうですよ。





漢文に帰り点付け無月かな


帰り点というと漢文ですな。
漢文の授業で習った、
オニと合うたら戻れ・・・。
などということを教わった記憶がある。
漢文の読み下しにはこれが必須である。
どっちにしてもよく分からないのが漢文って感じ・・・。
しかし、漢詩に関してはなかなかいいものがあった。
杜甫などの五言絶句と言われる漢詩。
李白などもよかった。
杜甫は内省的な雰囲気がいい味を出していたし、
李白は天才肌で豪壮な詩風が良かった。
白髪三千丈なんて大げさすぎるというきらいはあるものの、
気宇壮大な雰囲気がいい。
一方、国破れて山河ありという杜甫の詩は、
なんとも言えない心情が感じられてよかった。
今は読むこともなくなったが、
高校生の頃は学校図書から借りてきて、
夜な夜な読んだという記憶がある。
なんだか懐かしい・・・。
今読んでもなかなかいいものだという気はする。
現中国にはあまり縁のない世界って気がする。
杜甫、李白のころの中国人と、
今の中国人は別物と言われている。
中国も戦乱を繰り返してきたから、
純粋な漢民族ってもういないという話を聞いたことがある。
杜甫、李白の時代の感性というのは残っていないということか。
月が雲に隠れた秋の夜に、
漢文化漢詩にレ点を打つ・・・。
なんだか風情を感じる光景ではある。
猛暑の中ではとてもやる気がしない。
やはり秋というのはこういう風情がいいのだと思う。
それにしても現代日本にも、
こういう漢詩を愛でるなんて風情は無くなっている。
詩自体をたしなむなんて気風もなくなってるね・・・。





恋愛にセミコロン打つ秋時雨

恋愛なんて単語が出てくると、
なんだっけな?・・・。
なんてことも起こりかねないところまで来ている。
60歳の還暦で一皮むけて、
70歳の古希で色を失う・・・。
なんだか寂しい話になっていきそうでやだね。
還暦過ぎての恋愛話は老いらくの恋という分類に入ってしまう。
これだけでもさみしい話ではある。
古希なんてなると古来まれなるという話になってしまう。
まれな生身魂ということだと、
恋愛なんて色のついた話は出てきそうにないね。
60歳の還暦でも色のついた話はかなり苦しいが、
現代では無いということもない。
加藤茶みたいに45歳年下の嫁さんをもらうなんてことがある。
45歳年が違うと、
なんだか地平線のかなたっていう気がしないでもない。
そういうふうに感じてしまうこと自体、
やはり古来まれな領域に入ってるってことですな。
いくら歳を重ねても感情というのは常に持ってるわけだから、
恋愛という感情は呼び起こすことはできるんです。
でも、それがそのまま現実味のある話にはならず、
結局、セミコロンを打って終わりになるんですね。
なんだかセミコロンを恋愛という二文字の後に、
打つなんていきなりさみしい・・・。
恋愛というに文字にのすぐ後にセミコロンという発想が、
なんだか寂寥感があるね。
そこからの発想がないって決められちゃう感じがします。
好きだと一気に感情が盛り上がっても、
そこでセミコロンね・・・。
いやはや秋のうら寂しい空気感が、
いやに身に染みる句ですな。





けん玉で技競い合う敬老日

一時けん玉というのが流行ったのかどうなのか、
テレビでけん玉名人なるものが登場していたことがあった。
クラシックギターの世界の人でけん玉名人がいて、
テレビに出たとかなんとか・・・。
けん玉というと子供のころの遊びという認識だったが、
最近はほとんど流行語の主流の地位を占めつつある、
ボケ防止ということに役に立つと言われてきている。
確かにあの細い穴に細いでっぱり棒を通すのは、
かなりの集中力と気力が必要という気はする。
それ以外にもけん玉のいろんなところを使った、
技があるということだ。
手先の器用さのない自分は子供のころから
兄にかなわないので、
小学校に行く頃には全く興味がなくなっていた。
今また団塊の世代の間でけん玉が見直されているそうな。
若い世代にもその技の難しさで、
名人が登場してるという話もある。
そういう若者が年寄りにコーチをするということもあるらしい。
団塊の世代の間では昔懐かしいけん玉ということで、
技を競う会も敬老の日にはあったとか・・・。
なんだか震える手でけん玉を投げ上げる姿を想像すると、
なんか痛々しい気もする。
しかし、どんな状況でも団塊の世代にとっては、
確実にボケ防止には役立ちそうだ。
=たまを~~上げましょう~陽気にたまをね~~~,
手から出まかせ出ほうだい
手間も~~かからず~元手もいらずぅ~~~
投げればこの世にー春が来る~~~(*´▽`*)>=
なんて植木等の歌の替え歌を歌いたくなる風情ありかな。
ボケ防止のためにけん玉の技を皆で磨きましょう!!





主催者吟


うろこ雲富士までとどき木の葉散る

秋が来た侘しさ戻る謎の場所

電気代一気に落ちて猛暑去る

給湯器温度を上げる秋初め

店仕舞いジェラード店の秋支度




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