渡辺さんの俳句傑作選


2018年 11月の俳句


宿題を終えて枯野を遠ざける

宿題というと年代ごとに意味が違う。
学生時代は文字通り科目ごとに先生が出す持ち帰りの課題。
社会に出ると人とのかかわりあいにも宿題があり、
勿論仕事の内容にも多くの宿題が出てくる。
すんなり解決する宿題と、
そうもいかない宿題が社会にはある。
解いても解けない無限地獄のようなこともある。
つい最近赤城春江が死んだ。
まあ、一番印象深いのは「渡る世間には鬼ばかり」だろう。
このドラマを見ていると、
人間のつながりというか、
かかわりというのがかなり興味を引き出してくる。
橋田寿賀子の原作をかみ砕いて演じるのが、
赤城のおばあさん・・・。
長く続いたドラマではある。
ご長寿ドラマというのは、
そこに人間の言うに言われぬ本質が、
内包されている場合が多い。
それがないと短命ドラマとなって再録もないということになる。
人生の終盤に差し掛かって、
なんとなくもろもろの人間界の宿題を卒業して、
枯野をさまよう自分をみなくて済むというのは、
結構な状況だと思う。
松尾芭蕉の最後の一句。
夢は枯野を駆け巡る
なんていう状況は最悪という感じだろう。
死に臨んで寂しさが満タンって気がする…
夢はお花畑を駆け巡りたいのだ。
100歳時代と言われている今、
臨終におよんで枯野は寂しすぎますな・・・。
最後はお花畑で・・・。
個人的な願望でしかないのかな。
夢は枯野を駆け巡る。
芭蕉の寂を喜ばず・・・だ。





見栄を切る菊人形の内蔵助


12月と言えば忠臣蔵って感じ・・・。
今は亡き三波春夫の歌謡浪曲「俵星玄蕃」が聴かせるのです。
全編省略なしで聴くとLPレコード裏表って感じの長さ。
これが活劇調で思わず聞き入ってしまう。
「先生!!」
「おお、蕎麦屋かぁ!!」
の迫真の語りが胸を打つ・・・。
長期の雌伏ののちの吉良邸討ち入り、
というのが絵になるんですな。
赤尾浪士四十七士の万感の思いを込めた吉良邸討ち入り。
山鹿流陣太鼓の音も勇ましく、
なんてくだりもありますが、
深夜に太鼓の音を響かせる訳ないだろうって気がしますな。
浪士の中心には大石内蔵助。
表門から攻め入る組。
大石主税、裏手からの攻め手。
寝込みをそれっとばかりに襲うのですよ。
なんだか卑怯って気もしますがそこはそう言っちゃいけない。
帝国陸軍が奇襲でインパール作戦を立てる元にもなった気もする。
奇襲でもなんでもない桶狭間の合戦をモデルにしたという話もある。
いかにも一本抜けていた軍人さんたちの考えそうなことだ。
奇襲なんて成り立つわけないのに、
付き合わされた兵隊はご苦労さんってなことで、
結局何の成果も無く終わったんだよね。
大石内蔵助の討ち入り成功で大見えを切る姿が、
菊人形でもよく現れるけど、
その後、全員権力の元で切腹。
ま、その後の成果は何もなかったわけだけど、
切腹というのが日本人の心象風景には、
よくマッチしたんだろうな。
このマッチ感はろくなことにつながらないのが残念ではある。
やはり「俵星玄蕃」を聞いてるのがいいのかも・・・。





短日の喫水揺れる氷川丸


日が短くなってきました。
猛暑の夏の時は5:00といってもまだまだ真昼の明るさ。
ほとんどグロッキー気味になってもまだ明るい。
7:00までは確実に明るいから、
なんだか一服という気分にもなれない。
まあ、今になって日が短くなってホッとしてるかというと、
けっこうそうでもないんですな。
日が短くなって来ると、
なんだかちょっと寂しい気もするんですよね。
猛暑との戦い済んでという気分ではあるんですが、
それはそれでなんとなく寂しい気が湧いてくる。
人間の勝手なところでしょうか・・・。
港、横浜山下公園。
氷川丸が係留されてるのです。
国の重要文化財の一つなんですね。
日本とアメリカの太平洋航路で活躍していた氷川丸。
戦前より現存する唯一の客船です。
戦争中は病院船として使われていたようです。
チャップリンもこの船で来日したということで、
その時の客室も残されています。
今や海面に浮かぶ博物館という趣ですかね。
船にも運というものがあるのかな・・・。
同型艦二隻は戦没してしまっていて、
氷川丸のみ戦争を被害を受けながらも生き延びて、
今我々が見ることができる。
地球上に存在するあらゆる物体には、
運というものがあるということ・・・。
なんだかそんなことを考えさせられる氷川丸でございます。
運の良しあしは人間だけではないということですね。
夕日に染まる氷川丸を見ていると、
そんな哲学的なことを考えてしまうのです。
夕日に染まる氷川丸は、
絵葉書だけでしか見たことはないのですが・・・(;^ω^)





箴言を読みたくなって日記買う

いまは縁遠くなってしまった日記帳。
高校生くらいまでは12月になると、
決まって一冊買っていたと思う。
その頃は文房具店にも売っていた。
冬休みに入る前に学校帰りに手に取って見た。
いろんなタイプがあって厚さもまちまち・・・。
いろいろ手にとってはどうれにしようかなぁ・・・と考える。
そういう日記帳にも毎日偉い人の格言が載っているのもあった。
けっこうためになる言葉が載っていて、
「ためになるなぁ・・・」とパラパラ読んだりするわけです。
第一日目は買わずにその場所を離れるわけですよ。
買ってしまうとすぐに終わってしまうので、
そのあっけなさがちょっと、
という感じでその場は買うのをやめる。
冬休みがぐっと近づいてきて、
日記帳を眺める第2日目ですよ。
あまり厚くても書ききれないしなぁ・・・。
薄くてもなんだか存在感が希薄になってこれもいけない。
手帳くらいの大きさのものもあるが、
これ文字が小さくなって書きにくい。
けっこう大判のものもあって手に取るとずしりと重い。
本棚から取り出すのに結構力が必要で大変だな。
これも候補から外れる。
結局ノートくらいの大きさがいいかなと、
この時点でだいたい決まる。
でもそこでは買わないんですよ。
終業式の日の帰り道。
今日買わないとしょうがないなと、
いよいよ買おうと決心する。
縦書きか横書きか・・・。
縦書きだろうということで手にとって、
パラパラめくると書き出す右手の余白に、
格言が書いてあるんですな。
1月1日から書き出すわけですよ。
新学期が始まるころまでは、
毎日、格言を読み書こうと決心して書くのですが、
三学期が始まると1日抜け2日抜け・・・。
夏休みころまでには終わってる・・・。
その辺りまで読んでいた格言もほぼ覚えていない。
これが毎年繰り返される正月の風物詩かな。
格言をしっかり読み込んでいかずに、
結局、今に至る(*´▽`*)





帰り花忘れし恋にふと出会う

恋などという漢字感じから縁遠くなって久しい。
「恋」という字を感じ変化すると「来い」がまず出てくる。
なんともはやという気がするが、
二度三度変換すると「恋」が出てくる。
なんだか現状を表現し過ぎだよなぁ・・・。
帰り花というのは本来の時期でないのに、
咲いてしまった花を言う。
ほとんど忘却の彼方という恋という感情を、
思いだしてしまうというのは、
よほどの事じゃないとないかもしれない。
作者の恋情を思い図ると、
なんだか愛しい雰囲気を感じますな。
ふと出会うという表現にそこはかとない、
男の純情を見るのですよ。
この歳になってる女性には、
絶対に出てきそうにない言葉だ。
この歳の女性がこんな感情を持った途端不倫に走りそうだ。
ほとんど恐ろしいという場面を想像するけどね。
なんかでもいいよね・・・。
忘れてしまっていた恋心が呼び覚まされる出会い。
まったくそんなことのない身にはジワッとくる。
昔懐かしい「寺内貫太郎一家」のドラマの中で樹木希林が、
沢田研二のポスターの前で、
「ジュリー・・・」ともだえるシーンがありましたが、
ほとんどその場面を想起するのです。
その当時はあっけに取られて見ていましたが、
今となって結構わかってくる場面なんですな。
「寺内貫太郎一家」を見てないなかった人には、
わからないのですよ。
帰り花なんて言う季語が出てくると、
枯れた花が一気に色づいてくる様子を見るようですね。
これこそ縁の無くなった者にとってはいい景色なのですよ。




主催者吟


石投げて波紋追いつつ雪の富士

晩秋や湯船に沈んで目をつぶる

もう出てる本屋の真中新手帳

街路樹の影伸びながら秋深し

冴えし月睨んでいるよ我が頭上




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