渡辺さんの俳句傑作選


2018年 12月の俳句


歳晩や歩きたばこはご法度です

仕事も終了。
なんとなく年末が迫ってきてる状況。
気分は焦ってるような感じ・・・。
考えてることは大掃除も億劫だなぁ・・・、
という逃げの気持ちがだんだん大きくなってくる。
やらないとなぁ・・・という気持ちと、
やりたくねえなぁ・・・という気持ちが、
頭の中でせめぎあっている。
頭の中ではせめぎあってるのだが、
心の中ではいかに手を抜くかをじめっと考えている。
若い時と違って勢いでというのがどうも足りなくなっている。
というか、勢いという言葉自体に後ろ向きなんだろうな・・・。
まだ去年の年末正月が抜けきってないうちに、
次の年末が迫ってくる。
あきらめともその早さが許せないという気持ちと、
これまたせめぎあっている。
往生際の悪い年ごろなんだと思う。
平成も終わるというところに来て、
往生際の悪さが一気に表に出てきた感じ・・・。
いろいろ難しい歳ごろに差し掛かってるのかな。
一気にすべて投げ出すという気分と、
まだまだという頑張りの気分と、
二つがきっちり半分づつという感じがこのお年頃。
気分がどっちにも軍配を上げられない、
もどかしさでついたばこ・・・。
煙草に逃げるといってもとっくにたばこはやめている。
そうなると逃げ道はぜんざいあたりに絞られてくる。
歩きたばこはご法度!
ぜんざいも糖尿病予備軍を作るからご法度!
どこにも逃げられないこの辛さ・・・。
このお年頃は大変なのかも(*´▽`*)





冬の田をまっすぐ抜けるポルシェかな


ポルシェなんてほとんど車の神って感じじゃ荷かな・・・。
箱根駅伝の山の神は今年は現れず・・・。
青学監督の目算はもろくも崩れ去った。
高度成長からバブルにかけては、
ランボルギーニみたいなスーパーカーが、
クルマ好き言葉の橋に出てくることも結構あった。
ポルシェなんかも結構あこがれの車だったと思う。
日活の昔の映画なんかにも出てきたりしている。
ロマンポルノよりもっと以前、赤木圭一郎なんかの時代。
この時代から吉永小百合が出ていたというのも凄いことだ。
吉永小百合偉大なりというのも、
この息の長さから見れば当然かもしれない。
亀有公園前派出所の漫画の中にも出てきますよね。
でも、これは結構昭和の人のイメージなんですな。
現代平成も終わるころの人はもう車に乗らない。
もしくは借りる。
車をレンタルで乗り回す。
ハイブリット、電気自動車が話題にはなる。
最新の話題は空飛ぶ自家用車。
もうスーパーカーの時代ではなくなっている。
そう言える状況が出現している。
高齢化した田舎の道をスーパーカーで走る。
高齢化した人の目にはまだスパーカーは生きているかもしれない。
都会に出てくると物珍しさの目で見られるかもしれない。
ポルシェといっても「なんだ???」って反応かな・・・。
田舎の道をポルシェというのがなんかなぁ・・・という感じ。





私の過去の栄光ダイヤモンドダスト


人には血気盛んな若き時代がだれにもある。
若い血潮の予科練の~~・・・。
あんまり楽しくない軍歌もある。
しかし、血気盛んな様子はイメージできる。
徹夜しても次の日、しっかり仕事ができる。
疲れ切っても一晩しっかり寝れば次の日は元気いっぱい。
人が最も輝くのが若い血潮の時代。
いろんな武勇伝があるのもこの時代。
平成も終わる今、昭和生まれにとっては、
特に昭和の初期生れにとっては、
日本の高度成長とも重なり、
夢も希望も実現できた時代だ。
少々無理難題も通ってしまう懐の深さが日本にはあった。
自分本位で何かできた時代だ。
失敗しても飲み込んでくれる度量の深さがあった時代だ。
平成の終わりを迎えるにあたって、
なんだかその時代が思い出される・・・。
高度成長からバブルくらいまでが日本の栄光であり、
個人一人一人も輝くことができた時代かも・・・。
今はもう下手に輝くと思いっきり使われて、
輝くどころか過労死に追い込まれてしまう。
若いのに輝くこともできない。
今の若い人が歳いってから過去の栄光と言って、
スマホの難しいゲームを制覇したということが、
話題になるのかもしれない。
すでにそういう気風になっていってる気もする。
ほんとに個人の血潮も小さくなって、
ダイヤモンダストの輝きも見いだせないんじゃないかな。
ただ単純に無事だったことで安堵する・・・。
そんな時代になっていくんじゃないかな。
国がしぼんでいく状況で一番影響を受けるのは若い世代。
これから温暖化でダイヤモンドダストも見られなくなるかもしれない。
スマホの世界だけで輝こうって感じ・・・。





物の名がすんなり出ずに隙間風

物の名がすんなり出ない。
人の名がすんなり出ない。
人間四十過ぎたあたりから徐々にその傾向は強くなって、
だんだんその傾向に磨きがかかって、
ほとんど三日目ぐらいにいきなり思い出す。
次の時に話そうと思っていても、
次にしゃべるころにはもう忘れていて、
また三日後に思い出したりする。
いま、NHKの朝ドラで始まってそうそう死んでしまう役なのだが、
夢枕に立つという役柄で出演してる、内田有紀・・・。
この女優さんの名前が出てこない。
最近になって内田まで出てきた。
しかし、そのあとの名前が出てこない。
奥さんにでも聞けば手っ取り早いのだが、
なんだか聞くのも癪に障るから、
なんとか思い出そうと「内田、内田」と繰り返して、
年を越えて猪年が幕を開けてようやく出てきた。
内田有紀・・・。
なんともトホホホの状況なのだが、
思い出しただけいいかなと・・・、
どっかで慰めてたりするんですよね。
毎年物の名前が出なくなるわけですが、
隙間風どころか暴風雨って感じになりつつある。
すんなり物の名前が出てくる確率は20パーセントくらい・・・。
一度思い出しても次に出そうと思うともう残ってない。
その見事さに感服したりする。
あれ、それの会話にも磨きがかかってきて、
物の名前が出ない状態でも通じてしまう。
お互いが分かっていても、
お互いがその物の名前が出てこない。
こういう会話ってもう一つの言語になりうるんじゃないかな。
新言語としてこれから認知されるような気がする。
高齢化社会になれば、
ほとんどが老人になるわけだから、
あれ、それ言語が普通になっていきそうだ。
言葉も常に進化するのですよ。





自分史に四苦八苦して虎落笛

自分の記憶がしっかりしているうちに、
自分の生い立ちからここまでの歴史を書き残しておきたい。
なんだか単純にあの世に旅立つのも寂しいという感じ・・・。
いろいろ思い出しながら自分の歴史をたどってみる。
けっこう、子供のころの記憶はしっかりしていて、
イメージがしっかり残っていたりする。
だんだん記憶の映像が薄れてきて、
四十過ぎくらいからなんだかはっきりしなくなる。
なんだか断片的でつながりがあいまいという感じだ。
五十過ぎてくるとほぼはっきりしない。
記録、メモを見ないと前後が分からなかったりする。
あれが先か、これが後か・・・。
どうも前後関係が怪しくなってくる。
四苦八苦するのはこのあたりの記憶かもしれない。
幼稚園、小学校、中学校、高校・・・。
このあたりはかなり鮮明だ。
思い出しても結構楽しいことが多い。
いじめなんてものもあったかもしれないが、
今ほど陰湿ってこともない。
その時つらかった出来事も時がたつと、
けっこう楽しいというよりいい思い出になってたりする。
自分史がどう締めくくられるのか・・・、
これもけっこいう大事なことで、
いい状況で締めくくられればそれに越したことはないが、
ろくでもない状況の中で締めくくられるとなると、
なんだかちょっと気分的に落ちるね。
昭和、平成、次はなんか出てくるんだろうけど、
三期にわたる自分史。
源氏物語のようには絶対にならないだろう・・・当然。





主催者吟


露天風呂のぼせてみかん染み渡り

晩秋や湯船に沈んで目をつぶる

もう出てる本屋の真中新手帳

街路樹の影伸びながら秋深し

冴えし月睨んでいるよ我が頭上




topへ