渡辺さんの俳句傑作選


2019年 9月の俳句


老妻のリコーダー響く秋の昼

10月になってもなんだか夏の亡霊を引きづるように、
30度の日が出現するというより、
続いてるって言ったほうが当たってるかも・・・。
北海道でも暑い日が続いてる。
なかなか秋にならない。
10月に入ってなをクーラーが必要というのは、
やはり異常だ。
10月に入ればあちこちから虫の声が聞こえてこないとおかしい。
今もってほとんど虫の声は聞こえない。
さすがに蝉の声は聞こえないのは当然だが、
どうみても虫の声が聞こえてこないのはおかしい。
音の空白期間が新たに出現したような感じだ。
日本には四季があり、
その季節ごとに自然の音があるのが普通だ。
それがついに無音の状態が出現したのだ。
これを異常と言わずして何が異常なのかなぁ・・・。
若干グレタ・トゥーンベリさんが、
地球の自然の危機を国連で訴えていたではないか。
ほとんどの大人がせせら笑ってるわけですよ。
自分には未来につながる子供は、
存在しないと思ってるんだな。
人間の愚かさがまともに出てるよね。
人間というのは、
しょせん後は野となれ山となれの精神構造なんだろうな。
パリで40度越えの気温が出現しても、
べつにという感じじゃないですか・・・。
秋はしみじみつぃた気分に浸りたいわけですよ。
ちょっと寂しい気分で夜長を佇んでみたい。
なんだか内省的になって芸術が生まれるわけですよ。
昔の日活の映画のラストシーンなんか、
なんだかちょっと物悲しいような場面が多かったじゃないですか。
男と女のちょっとした寂しさがよく出ていた。
そんな季節感も過去のものってことかな。
ま、昭和の遺物と言ってしまえばそうなんですが・・・。
リコーダー世代なんですね・・・。
この句に登場する老妻の方は。
秋のしんとした夜長にリコーダーの音を響かせる。
昼というところが令和なんですね。
なんとなく昭和のリコーダー世代の寂しさを消してしまう。
やはり令和の情緒はここにも押し寄せていますね。
秋の夜霧というのは令和では、
演歌の歌詞にもならないんですよね・・・。





終活にあれこれ挑む夜長かな


齢いも古希に近づいてくると、
なんとなく終了感というのが出てきますね。
どこまで生きるだろうと、
秋の夜長では、ふと頭に浮かぶんですよね。
武豊がフランスの凱旋門賞で、
一着を取るのを目撃できるのか・・・。
2020年のオリンピックで、
金メダルをいくつとるのか目撃できるだろうか・・・。
東京オリンピックまではなんとかなるかな。
しかし、武豊の凱旋門賞は分からないですね。
紀平梨花のフィギュアの金メダルはどうだろう。
これは運が良ければみられるかもしれない。
ロシアの怪物選手の前では厳しいか・・・。
もうほとんどフィギュアはアクロバットみたいになってるから、
何回回ったかで勝敗が決まるから、
あまりワクワク感はなくなった気がする。
北京のころには四回転を何回回ったかで、
勝敗が決まるんじゃないかな。
サーカスを見るのと一緒かも・・・。
まあ、終活をどこの時点で始めるかというのも、
結構大きなことなんですね。
まだいいだろうなんて思ってると、
いきなりゴールのテープが目の前に現れたりしますからね。
そこから終活しようなんてこと、
無理・・・。
しかし、早すぎると今度はいやに手持無沙汰で、
毎日を過ごさなくてはいけなくなる。
これもどうかなぁ・・・。
終活のタイミングって結構難しいもんですね。
江戸時代の人なんか終活なんて言っても、
そもそも何も持ってないから楽ちんだったと思うな。
宵越しの金は持たねぇ!
なんて言ってたくらいだから、
終活なんて言葉もなかったんじゃないかな。
令和の御代となるとそうはいかないですよ。
ローンはどうした、株はどうした、
携帯電話の契約はどうする。
とにかく掘り出すと切りなくありそうだ。
さあ、秋の夜長にじっくりと、
終活のタイミングと自分の持ち物をチェックしよう。
後の人が困らない程度には、
なんとかしておいたほうがよさそうだ・・・。





イワシ雲渋谷天空遊園地


イワシ雲・・・。
秋を象徴するような俳句の季語の一つ。
語感に何となく懐かしさがありますよね。
空一面に広がったイワシ雲を見て、
小学生の時の帰り道。
二学期も始まってしばらく経って、
なんとなく風がひんやりしてくるころなんですね。
古希に近い人の小学生時代ですよ。
舟木一夫の「高校三年生」なんかを歌った世代です。
このころははっきり季節感があって、
イワシ雲というと秋の風物詩だった。
今やニュースで言われるだけになってしまった。
10月この暑さの中で、
イワシ雲って言われてもなっていうのがありそうです。
天空の遊園地って、
誰でも孫悟空になれるってことかな・・・。
夏目雅子のつるつるの坊主頭を思い出しますね。
いやに色気がある三蔵法師だった。
堺正章が孫悟空でね。
あまりに風貌からしてぴったりなのが印象的だった。
きんとん雲に乗って縦横無尽に空を駆け回るのが、
今や渋谷のビルの屋上に出現したそうだ。
令和になるともう西遊記というのは、
過去の遺物のように語られてしまうのかも・・・。
たぶん孫悟空の冒険と言っても、
さしたる新鮮味はないかもしれない。
現実に天空の遊園地で、
それなりの冒険ができてしまうわけだから。
その昔その昔、
「ノンちゃん雲に乗る」という映画があった。
鰐淵晴子が少女時代に主演した映画だ。
公園で映画会があった時代かな。
公園にござを持っていって大画面で見るわけですよ。
雲に乗る場面が印象的だった。
鰐淵晴子も少女でかわいかった。
今はもうこんな映画もダメなんだろうな。
自分が天空の中で遊べる時代なのです。
だから遊びより刺激を求めていくから、
結果、怖い事件が起こりやすくなってるんじゃないかな。





クレヨンのカタカタ鳴って新学期

新学期が始まると、
朝、小学生がいっきょに道にあふれる。
甲高い声が響いてくるんですね。
それまで子供の姿は町から消えている。
どこに消えたのかなというくらい姿を見ない。
それが新学期が始まるとともにいっきょに道にあふれる。
なんだか手品でも見るようだ。
やはり子供の声というのは町の空気に活気を与えるね。
子供の声の聞こえない町というのは、
どんよしていて生気がないです。
夏休み子供はどこに消えてしまったのだろうと思う。
塾の夏期講習、家族旅行、部屋でゲーム・・・。
まあ、姿が見えない理由は、
いくつも上げることができる。
ゲームというのが一番大きいかもしれない。
外で遊ぶというのが物騒になってる今の世の中。
公園でも危険があるということだろう。
公園で子供の姿を見るということも、
ほとんどない・・・。
なんだか新学期で子供の声が響くと、
町全体にエネルギーが充填されるようだ。
小学生が走ってると、
筆箱の中の鉛筆が鳴って聞こえたり、
ちびたクレヨンが箱の中で振られて、
乾いた音で鳴ったり、
声だけじゃなくていろんな音が聞こえてくる。
この音が活気を生むんですよね。
人間というのは音の刺激というのは、
かなり大きな意味があって、
音の刺激によって気分が左右される動物なんですね。
無音の世界に置かれると、
だいたい気が狂ってしまうんですね。
音の刺激があるから言葉も出てきて、
体も動かすんですよね。
子供の発する音というのは特に重要なんです。
未来を感じさせることもありますが、
新鮮な気分を呼び戻すんですね。
「神田川」の石鹸がカタカタ鳴ったという、
世界ではないですよ。





学友とセブンブリッジ敬老日

カードゲームというのは、
正月にするものという認識がある。
今やどこに言ってしまったというくらい、
普通の目の前から消えてしまったトランプ。
今やトランプと言えば現代の暴君アメリカ大統領。
暴君と言えばどこも似たり寄ったりなのかな。
トランプと言えばこの人、
というイメージしかなくなってしまったトランプ。
子供のころは子供たちが集まると、
盛大に七並べ。または、ダウトとか、
大貧民なんてのもあった。
けっこう七並べにしても、
作戦を立てながらというのがあった。
頭を使ったのです。
少し長じてくると、
セブンブリッジなんてのもありましたね。
けっこう知的なカード遊びで、
子供にはチト難しかった・・・。
この句の学友というのは大学の同級生か・・・。
その学友とセブンブリッジをしたわけですが、
気になるのが勝敗がどうだったかということ。
俳句は結論を言わないという不文律があるので、
後はご想像におまあせしますのオチだ。
この句からだと勝敗はわからない。
ま、ボカシて読者の創造に任せる、
というのがあるのだと思う。
敬老の日という季語のオチがあるから、
これは双方痛み分けということになるだろう。
なぜそう思うかというと、
敬老の日というのが一つキーポイントではないかと思う。
敬老同士が向かい合えば、
双方痛み分けの結論でいいことなのかな・・・。
縁側の日向で超真剣にカードを見る。
二人の濃い時間の経過がいいね。
神様はどちらに運を授けたか・・・。
どうなんだろ・・・。
それにしてもけっこう自分の運のほうが、
上だと思ってやってるんですよね。
時間の流れを、
ちょっと知的に表現してる感じはしますね。






主催者吟


廃店の跡にコスモス盛んなり

短髪がうれしと思う9月風

妻に似る娘の小言敬老日

9月入るますますうれしかき氷

秋冷や午睡に届かぬ陽の光




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