渡辺さんの俳句傑作選


2021年 6月の俳句


写経する般若心経半夏生

古希もぐっと近くなりコロナとともに迎えそうだ。
なんだか激動の歴史の中に迎える古希。
振り返ってみると、
常に時間の流れの中に激動の時代というのはある。
比較的遠いところでは、
いまNHKの大河ドラマでテーマになっている、
明治維新次に日露戦争。
昭和大恐慌、太平洋戦争と続く。
今振り返って考えてみると、
比較的平和な時代を生きることができたのかな・・・、
という気がしないでもない。
命に係わる重大事はなかったかもしれない。
昨今いきなりコロナウィルスの脅威が襲ってきた。
これも日本の場合はまだ海外に比べれば、
少し状況はましなのかな・・・。
そういうと非難剛郷になるんですが、
実際に人口比にすると感染は少ない方だ。
それでも被害を受けた人太にとっては、
とんでもない災難ということになる。
大体十年に一回くらい何か大きなことが起こると思う。
10年くらい前は東北大震災があった・・・。
コロナから十年後くらいには、
関東大震災があるかもしれない。
十年後だと生きてる可能性もないからいいのですけど・・・。
ここまでくると具体的に動くということもできないから、
祈るという行為に頼りたくなる。
スーパーボランティアの人みたいに動けないし・・・。
心静かに写経というのも一つ大いにあり得る行為だ。
古希までくるとやろうかな…という気にもなる。
写経というのはそう日常なことでもないので、
まず格好から入りたい。
筆から吟味したい、それからあとは紙だ。
やはり安い紙だと気合が入らない。
写すもとになる般若心経の台紙にもこだわりたい。
写経する場所にもこだわりたい。
やはりお寺に行ってが一番よさそうな気がする。
雰囲気が大事なんですね。
いろいろ考えていくと、
写経もけっこハードルが高いなぁ・・・。





七夕や長距離恋愛もどかしく


長距離恋愛という言葉もなんだか懐かしい。
昭和の時代は公衆電話に、
十円玉を山のようにして電話するなんて話もあった。
東京から九州なんて電話するというと、
まあ高かった・・・。
そういう状況がまた物語になるんですね。
「お別れ公衆電話」なんて歌も、
当時あったような気がする。
松山恵子だったかな・・・。
しっかり歌のテーマになっていた時代がある。
今のスマホの時代になったら、
遠距離恋愛なんて言葉が出てくると、
高騰品の中から見つけたような気がする。
七夕なんて今や死後になりつつあるかも・・・。
一年に一回、天の川を挟んでの彦星と織姫星の悲恋、
だったかな・・・。
話自体もだんだん記憶の奥に、
埋もれてしまってるかもしれない。
これは中国の話だっけ・・・。
最近中国に対する日本人の印象がよくないから、
あまり話題にも上らないかもしれないな・・・。
遠距離恋愛というキーワードの中に、
ラインでのやり取りはどういう位置づけになるのかな。
電話ほどお金もかからず。
定期的に使っても無料のライン・・・。
近年、文春砲の中で出てくることがある。
不倫についての文面がしっかり出てくるところがすごい。
公衆電話の時代には出てこなかったシチュエーションだ。
遠距離恋愛なんてのは、
最近若者向けの映画にも、
テーマの中に出てくることはなくなった。
新幹線を使えば大阪くらいなら日帰りできるし、
とにかく日本中どこにいても近いのだ。
遠距離という単語が、
日本語の辞書から消える日もそう遠くないかも・・・。
日本国内どこにいても近いのだ。






夏の夜や袋小路に入る猫

袋小路に入ったねkがこの後どうなるのか。
そこがこの句を読んだ人の想像力の勝負になる。
あっそ・・・てなことでなんの想像もしない人。
実はこの猫は自分で袋小路に入ったわけではなく、
人間に追い込まれて入ってしまった。
なんだかその後の展開がいやに暗いものになっていく。
いやいやこの猫は自らこの袋小路に入っていったのだ。
ここに餌を隠してあるのだ・・・という発想。
悲観的気分で読むか楽観的な気分で読むかで、
その後の展開というのは結構大きく右左に振られる。
若い人の発想だと、
実はこの奥には異次元空間につながる入口があって、
そこの入り口にはいると猫は人間に変身して、
そこまで見てきた人間の行動、考えなど、
事細かにメモしていく・・・。
夏目漱石の「吾輩は猫である」という小説がある。
読んでて面白いのだが、
これも猫視線で見た人間の姿を活写している。
この袋小路に入っていく猫も実は、
個の吾輩は猫であるの五代目くらいの猫かもしれない。
この猫の一族は人間の行状を、
事細かく誰かに報告しているのに違いない。
それが目に余るようになってきて、
地球規模の自然の変化をもたらしてるような気がする。
ゴジラとかモスラとか怪獣映画を、
人間は生み出してきているが、
人間の発想力で生み出されていると思っているのは、
それこそ人間だけであって、
実は猫から報告を受けている何者かが、
人間に警告を与えるために、
一部の人間に生み出させている・・・。
モスラやゴジラが破壊していく構造物映像は、
今、自然に破壊されていく映像にそっくりだ。
地球上のありとあらゆるところに、
ある者の情報収集者である猫が放たれている。
そして報告を受けるたびに人間界にその意思を示している。
気が付かないのは人間様のみってことかもしれない・・・。





夏の夕哲学の道逍遥す

哲学の道と言えば京都、京都大学を連想しますね。
哲学の道は水路に沿って続く1キロくらいの道筋のようです。
ゆっくり歩いて40分くらいなのかな。
木立に囲まれてなかなかいい雰囲気の地ですね。
もともとは京都大学の哲学の教授が、
瞑想しながら歩いていたのが発端のようです。
その個人的な道が今や全国区の知名度になってるんですね。
自分は歩いたことはないのですが、
ネーミングがまず良い。
哲学なんていう単語がついてると、
なんだか歩いただけで心新鮮になりそう・・・。
大体哲学なんてよほどの人でないと、
なかなか理解できないものですが、
哲学の道と意識して歩くだけで、
なんか気分が新鮮になるんですよね。
やはり歩いてみたいと思いますからね。
今や観光スポットになって、
周辺にもお店があったり、
一服できるお店もあるようです。
まあ、哲学とは何の接点もなくても、
歩く価値はあるようです。
京都の夏は暑いという噂ですが、
暑い時ほど木陰を愛でて歩いてみる。
これが暑さにめげそうになる心持を、
ほっとさせてくれるんですね。
こういう道のいいところは、
目的もなくボケーっと歩いていても、
誰にも干渉されないところですよね。
ボケーっとそぞろ歩きしていても、
誰も不思議そうなまなざしでは見ない。
街中だとついつい人目を気にして、
用事のあるような歩き方をしてしまうのですが、
こういう道だと素の自分で歩ける。
薄っぺらな思考で口を半分開けて歩いていても、
なにか深い思考があるように見られるんですね。
無節操な自分のようなタイプには一番いい、
また安心できるスポットであることは確かかな・・・('◇')ゞ





大病を告知する夫麦茶かな

大病と言えば癌がすぐに浮かぶ。
現に元中日の大島が癌で逝ってしまった・・・。
余命一年から五年を経ての大往生。
まあ、すごいなとは思います。
自分だったら余命一年と言われたとたん絶望して、
一年を待たずに半年でサヨナラって感じだ・・・。
プロの第一線で活躍した人はやはり精神力が違いますね。
しかし、もう去年から今年にかけて、
大病というとコロナに感染したのかっていう話になってしまう。
がんの話題がほんとに隅っこに癒られてしまっている。
去年から今年にかけては、
コロナの話題でテレビの番組は埋まっている。
コロナ前は癌の話題というのは、
一定部分ワイドショーの一部を必ず占めていた。
コロナが全盛期を迎えている今年は、
コロナと五輪以外の話題はないね。
最近東京の感染者が900人を超えて、
なんだかビビってきている雰囲気があるのですが、
総理は記者の質問に直では答えないように、
ガードをきっちり張っている。
テレビでこの模様を見ている限り、
記者質問も無用って感じがする。
いつも同じ答えしかないわけだから・・・。
記者も意地になって同じ質問をしてるみたいに見えますね。
何事も大きなことを伝えようとするときというのは、
喉がいやに乾くんですね。
ニュースに出てくるお偉いさんたちの会議の様子では、
机に必ずペットボトルがコップと一緒においてある。
時にはコップはなくてペットボトルだけが置いてあったりする。
これは飲まないでお持ち帰りを最初から想定してるのかな。
会議によってはほんと喉が渇くというのはあると思う。
何か重要なことを言おうとするとき喉が一気に乾くんですね。
その時に飲む飲料水はやはりお茶か麦茶かただの水・・・。
サイダーとかスポーツドリンクはない・・・。
経費がかかるということもあり、
またのどを潤した後また喉が渇くということがあるんだと思う。
重要なことを告知しるときは、
水がやはり王道じゃないかと思うのです・・・。




主催者吟


苦き夢覚めて広がる梅雨の闇

やりきった言える言えなし惑う古希

地すべりも一山消えて梅雨の雨

風鈴を外してギター爪弾きぬ

下腹にズドンと寝酒梅雨深し



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