渡辺さんの俳句傑作選


2022年 2月の俳句

江戸古地図指で辿って余寒あり

去年の番組ですが、
ブラタモリで石垣のことをやっていた。
江戸城のお堀のことだったかな・・・。
なんだかそのへんのことをやっていて、
江戸城のいろいろ成り立ちをタモリが巡って解説していた。
ブラタモリはここまで調べるかという感じがあって、
まあ、面白い(*^。^*)
いきなり番宣をしてどうするんだということもありますが、
素直な感想であります・・・。
江戸今の東京ですが、
江戸の昔と今とではまるで違っている。
まあ、当然と言えば当然なんですが、
今からさかのぼること150年くらい、
徳川家康が幕府を開いたのが1603年だから、
まあ、今から考えると数百年単位ですよね。
そのくらいでこれだけ変わってしまった・・・。
人間の感覚だとすごい年月が経ったように思えますが、
地球規模で考えたら、
一ミリにも満たない時間的距離ですよね。
縄文時代なんか2000年続いたという記録がある。
その時間的距離を考えたら、
数百年なんて一ミリにも満たないかもしれない。
その間にこれだけ変わってしまう・・・。
この変わり方を人間の進歩と見るか、
大きな後退と見るか、
いろいろな分野で便利になり、
機器が発展した。
これがすべからく人間が進歩したとみるべきか。
地球環境はひどいことになってきている。
そういうところから見ると後退じゃないのか。
人間が何かを進歩させると傷ができる。
そこにばんそうこうのように何かして応急処置をする。
今の人類が果たして縄文人のように、
2000年の時間を刻めるだろうか・・・。
あげくの果ては火星移住とか・・・。
温故知新。
すでに死語に向かっている言葉だ。
人間は賢くなりながらおろかになっていく距離感は、
だんだん大きくなっていると思う・・・。






連載を終わってもらう春の風邪


石原慎太郎が死にました。
まあ、すごい人生を歩んだ方だと思いますね。
新進気鋭に作家から政治家へ。
しかも常に注目を集めているからすごいね。
死語に残されたのは2冊に及ぶ短編集だったという。
確か2冊だったと思う・・・。
政治家をやってはいても、
やはり基本は作家だったことがわかる。
石原慎太郎の芥川賞受賞作の「太陽の季節」は
賛否両論を巻き起こしたということが言われている。
下劣な作品だといった人もいたようですが、
結果は芥川賞受賞でした。
やはりその時代に物議を起こすようなものでないと、
後世には残らないんですね。
芸術というのは紙一重ですから、
その時代にすごい進歩的なものを出しても、
結局構成には残らなかったり、
その時代に眉をひそめるようなものでも、
後世に一大センセーショナルな大きな評判を取ったり、
まあ、とにかく分け分からないのが芸術の世界かな。
なにか一つ仕事を終えるとフッと気が抜ける。
よくあることですが、
いきなり風邪をひいたり体調が崩れたり、
なにか体に変化をきたすというのはよくありますよね。
そのっまあの世っていう芸術家も過去にいたようですが、
今は医学の進歩であまりそういう話は聞かない。
仕事をし遂げてバタっていうのも、
なんだか格好はつきますね・・・。
人間が一生にできる仕事というのはほんとに少し・・・。
日々仕事のページをめくって、
ようやくたどり着いたページは5ページ・・・、
なんてこともよくあることですよね。
人間というのは、
持っているだけの仕事しかできないということです。
無理をすれば風邪をひくってところでしょうか。
仕事を終えて風邪をひく、
この距離の違いが、
人間の持ってるものの違いであります・・・。





かぶりつく苺大福春の昼

苺大福なんて聞くと思わず唾が出てくるんですよね。
これがなかなかおいしいのです。
苺の少しすっぱみのある味わいと、
大福のあんことのコラボ味が最高なんです。
初めて苺大福を食べた時の感動は忘れられないですね。
まあ、甘党であるが故の感動というものです。
とにかく季節になると売り出されるのですが、
なんだか買う時のワクワク感が、
なんともいいんですね。
そこまで言うか…みたいな突っ込みがありそうですが、
甘党にとってはほとんど神なのですよ。
時々笑いをもらうこともありますが・・・。
この苺大福を発明した人はどんな人だろうと・・・。
まあ、そんなことはどうでもいいんですね。
今や家庭でも作るレシピがネットでも出てますからね。
通販というのもあるんですが、
これはどうかなぁ・・・。
やはり生ものであることを考えると、
少し輸送の時間で乾燥するんじゃないだろうか。
そういう些細なところを気にする必要もないと、
言われるのですが、
いや、そうではない、そうじゃない・・・。
本物の甘党であり苺大福のファンであれば、
こだわりがないといけない。
目の前に出されたらなんでも食べる・・・、
というスタンスでは、
ホントの味わいには出会うことはできない。
ほんとのファンというのは、
そこになにがしかの真実を見ないと気が済まない。
使われてる苺はどこの産なのか、
大福の衣の硬さはどうなんだ、
使われてる案この甘さの状態はどうなのか、
これはメーカーによってかなりの差がある。
長年のファンの舌が割り出している。
どこ製がいいとはここでは言いたいが言えない・・・。
でも、これだけは言える苺大福はメーカーによって違う。
そこら辺を極めていかないと苺大福は語れない( *´艸`)





病室に掲げるピカソ春兆す

今や何億という値段がつくピカソの絵。
彼が生存していた時は今のような価値はなかった。
でもいろいろ描かれた絵を見てると、
尋常な精神の持ち主ではなかった気がしますね。
普通の感覚は通り越してしまった・・・。
そういう作家の目に見えたところが、
今、絵になって残ってるわけです。
それにしても人の顔とが描かれた絵なんか見てると、
なんだかめまいがしてきますよね。
見るものを普通の感覚から、
ちょっと違った感覚に誘導していく、
これこそが普通の絵とは違う、
億の価値がつくゆえんだということです。
ピカソは生まれた時に、
すでに普通の絵は完ぺきに描く能力があったとか・・・。
しかも訴える力があったとか・・・。
普通の絵を描くのに飽きてしまって、
キュピズムにたどり着いたとか。
子供のような絵のどこがいいのか、
しかし、そこになにか訴えるような迫力がある。
そこがピカソなのです。
それにしてもピカソの絵を病室に飾るとどうなるのかな。
元気になるのかな・・・。
ピカソに描かれた抽象的な人の顔を見て、
よ~~~し、明日は元気になるぞ!
なんて気分になるのかな。
ただひとつ言えそうなことは、
ピカソの絵を見ていろいろ考えてると、
今、自分の置かれてる状況を、
忘れるってことはあるかもしれない。
ピカソの絵に向き合っていろいろ考えてると、
なんだか今の自分を忘れるってことがありそうだ。
これは日々病院のベットにいる身としては、
決して悪くはない状況だ。
まあ、病院にいる自分の状況を、
忘れられるってのはいいことなんですよ。
逆に故郷系の絵を見てると、
結構寂しくなったりするんですよね・・・。






煮凝りや綺麗に並ぶマトリョーシカ

煮凝りを食べる。
子供のころは冷蔵庫がなかった時代があった。
蝿帳などという網を張った木の入れ物があって、
そこに晩御飯の残りを入れておいて、
翌日の食べたりした記憶がある。
完全な昭和の記憶ですね。
結構前の日のものだから煮汁が固まるんですね。
まあそれがまたおいしくてよく食べた。
昭和30年代ころかな・・・。
その当時はちゃぶ台なるものが、
だいたい食事を並べるテーブルだった。
丸いテーブルって感じ。
丸井から4~5人の家族で座れたっと思う。
そこに茶碗とおかずが並べられていくわけですよ。
小さい子供の順で茶碗もおかずのお皿も小さい。
ぐるっと時計回りに、
大きさの違うご飯が盛られたお茶碗やお皿が並んでいく。
昭和のその当時は、
だいたいが子供三人の五人家族というのが多かった。
大体二つか六つ違いの兄弟姉妹が並んで座るのですが、
まあ、きれいに大きさの違う、
お茶碗、お皿が並びましたね。
マトリョーシカなんて言葉が出てきてますが、
大きさの違う人形が、
大きい人形の中にしまわれていて、
どんどん出していくと、
綺麗に小さいから大きいへ並んでいく。
これはロシアの人形なのですが、
やはりロシアの一家族を表してるんじゃないですかね。
大きいから小さいへズラッと並ぶわけですが、
やはり子孫繁栄の願いが、
込められてるのかもしれないですね。
蝿帳なんて懐かしい言葉を、
思わず思い出しましたね。
失われた昭和の物ですね・・・。




主催者吟


冬晴れの雲のったりとぽっかりと

長湯にてめぐる思いや遠き火事

屋根越しの雪の連嶺金木犀

節分の思い出インコ逝きしこと

節分の豆食べ過ぎて古希来る



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