渡辺さんの俳句傑作選
2026年 4月の俳句
西行にかかわるりたくて花疲れ
西行と言えば歌人としてはビックネームですね。
もともとは結構位のある武士の家の出。
なぜ若いうちに出家したのか、
本人の書き物には何も示されてはいない。
親友の死とかいくつかのきっかけが言われてますが、
本人の確たる書き物が残ってないので、
構成の憶測なんですね。
日本中を旅の空で過ごし、
多くの和歌を残してます。
新古今和歌集に取り上げられた歌は、
もっとも多いのではないですかね。
松尾芭蕉がその生き方に心酔してたということです。
そういえば芭蕉も旅の中での句作でしたよね。
漂泊のうちに和歌の傑作を残し、
今の夜にも伝わってます。
旅の空に身を置き俗世とは一線を画し、
感じた儘を短歌に寄せて生きる。
なんとなく昭和の人間には、
一種あこがれが湧きますね。
近世になっての旅の家人露いえば、
若山牧水でしょうか。
若山牧水も旅をこよなく愛し、
その時々を短歌に残してますよね。
「幾山河超え去り行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」
瀬島隆三が自身の回顧録として書いた「幾山河」も、
この短歌からタイトルを取ってますね。
非常に惹かれる言葉です。
しかし、現代において、
旅をしながら短歌を読んでいくというのは、
なかなかしんどい気がしますね。
旅にしても人が多すぎて、
風情を感じるにはなかなか難しい・・・。
短歌も愚痴っぽくなりそう・・・。
今の日本ではたとえ桜の満開を眺めても、
静かにその情感に触れるのは難しい。
旅にしてもいくところどころ、
人で溢れてます・・・。
なかなか旅の短歌、句を日本的な情感で、
読み込むのは難しいですね。
結局非常に感性の視野が狭くなってくるんです。
隙間なき絵馬の行列春時雨
絵馬の行列というとすぐに頭に浮かぶのは、
高校、大学の受験祈願という切羽詰まったような行列。
絵馬を書いて奉納するというのは、
古来日本では馬が神の乗り物いう言い伝えがあり、
その昔は馬を生きたまま奉納していたという、
しかしそれではなかなか限られたことになってしまうので、
もっと一般的な板に個人の願いを書いて、
まあ、平たく言ってしまえば、
だれでも祈願できる形にしたってことですね。
生きた馬でというと庶民には手が届かない、
では、ということで板に書くようにして、
気軽に奉納できるようにしたってことでしょうか・・・。
人間いろんなことを願っても、
そうそうそれが成就するというのは難しい・・・。
また結果が目に見えるのも出もない。
それならば結果が見える前に、
神様にお願いしてしまおう。
絵馬に書いてお願いすれば、
神様にとどくのではないか、
またそうであって欲しい!
基本人間の弱さから出てきたことがらですね。
なんとかしたい、なんとかできないか、
結果が見えないことへの恐れでしょうか、
まあ、人間、結果が完全にわかって、
行動するというのはほんと少ない。
どうしたって人智を尽くして天命を待つが普通です。
結局その結果が分からないから、
神仏にお願いして、
いい結果だけ導き出してほしい。
ある意味人間の都合のいいところですよね。
どのくらい行列ができるかは分かりませんが、
それぞれ必死の思いを、
絵馬にぶつけてるんですね
それをばかばかしいと言ってはならないと思う。
人間以外の動物で、
未来を神仏にお願いする、
なんて行為はないですよね。
動物は未来の災難をいい方向で願う、
なんて行為はできないわけだから、
神仏に願うというのは、
人間特有のことなんですね。
絵馬に書いて結果を神仏に預けるというのは、
人間の弱さの象徴なのかもしれないですね。
木の芽風ゆっくり通る松下村塾
松下村塾と言えば、まず思い浮かぶのが、
高杉晋作、伊藤博文、久坂玄瑞などの討幕の志士の名前。
しかし、この志士たちと吉田松陰との触れ合いは、
そう長いものではなく、
一年余りという話だ、
理由は、吉田松陰が安政の大獄で、
斬首されてしまったことによる。
しかし、その門下生から、
その後の日本を宇賀課すような、
俊英が排出された意義は大きい。
松下村塾自体は小さな民家という感じで、
まあ、小屋に毛が生えた程度の家という感じ・・・。
しかも松陰自身が安政の大獄にあって、
期間も短いものだったから、
そこから時代を動かす人物が、
排出されたことは大きい。
吉田松陰という人物の大きさを、
うかがい知ることができますね。
現在の日大の素を作った人物も、
松下村塾の出身なんですね。
人に影響力を発揮する人物というのは、
なんだかすごいもんですね。
消される対象にもなりやすい、
ということでしょうか・・・。
こういう場所に行くと、
松下村塾がどういうところだろうと、
興味津々眺めると思うのですが、
なんとも粗末な普通の民家より、
まだ小ぶりな感じですね。
しかし、じっくりゆっくり眺めると、
時代を越えて、
自分になにか語りかけてくるような、
なんとも言えない空気感があるということですね。
日本という国の一つの転換点を、
作り押す原動力になったということです。
小さな小屋からそれは始まったんですね。
その小屋を眺めて深呼吸すると、
自分の中に何か変化は起きるのかなぁ・・・。
大元が凡人だからそれはないんだろうなぁ・・・。
春寒やスマホにもらう警告音
昭和生まれの人間には、
スマホの世界観というのは、
なんとも強烈なものがありますね。
物心ついたころは、
テレビももちろん電話もなし・・・。
殆ど電子機器と呼べるようなものは、
何もなかった・・・。
冷蔵庫も洗濯機もなかったわけで・・・。
今思うと原始のような世界に、
生まれたって感じかな。
原始というとちょっと言い過ぎなのかな。
でも、ほんと何もなかった気がする。
その分のびのびしてた気もする。
子供同士の遊びの中で、
いろいろなことを学んでいったという気がする。
ようするに人間同士の濃密な関係の中で、
育ったということかな。
それが令和の時代まで来て、
スマホが出現した。
昭和の時代人からすると、
ラジオからテレビ、パソコン・・・、
と、移り変わっていった。
とにかく見る世界は広がった。
個人が見る世界は大きく広がった。
しかし、対人間ということになると、
なにが広がったんだろう・・・。
令和のスマホまで来て、
人間に対する感性というのはどうだろう・・・。
替えってどんどん狭くなってきたんじゃないかと思う。
いまや、AIというものまで出現して、
そこで会話ができてしまう。
自分の肉体の変化もスマホが教えてくれる。
対人間とのかかわりは、
極度に狭くなってるのではないだろうか・・・。
狭くなると同時に相手が人間で、
自分の感性の領域では、
分からない状態が出現する。
ストーカーの果ては相手を殺してしまう。
相手が確固たる個の人間ということが理解できない。
スマホがこれからもっと進化していくと、
人間同士のかかわり方は、
さらに複雑で難しいものになっていきそうだ。
人間の感性をスマホの世界で見てしまうというのは、
なんだか恐ろしい気がするね・・・。
延滞の図書を返して春茜
図書館で本を借りるというのは、
還暦を過ぎたころから常態となってきますね。
本も単行本となるとなかなかの金額。
文庫本も昨今ほんと高いですね。
まあ、青本でも読める時代になって、
本を買って読まなくてもよくなっている。
単行本など2千円を超える本もある。
文庫本でも千円を超えるのが普通。
ネット社会が到来するまでは、
図書館こそ遠い存在だったのですが、
いきなり身近な存在に変化しましたね。
ウルトラマンの変身のような感じです。
ウルトラマンとか仮面ライダーの変身が、
テレビの中だけの話だと思ってると、
そうじゃない・・・。
世の中ガラッと変身していくんですね。
その変身ぶりをより具体的に、
可視化して見えるようにしてるのが、
テレビの変身ものですね。
文庫本が350円とかの時代は、
昭和人の世界ですよね。
文庫本は安くて身近でした。
昭和の時代よく買ったなという感じ・・・。
令和の時代になって、
本は図書館で借りて読む。
これが昭和人の共通意識に、
なってきた気がします。
目的の本がないと戻ってくるまで根気よく待つ、
根気という点では昭和人は、
令和の人より勝ってるって気がする。
忘れるというのも昭和人は勝ってる気もする。
とにかくよく忘れる・・・。
借りてきてもそのまま忘れてしまう。
慌てて返しに行って、
なんだかたそがれた気分になって帰宅。
春茜という季語が身に沁みるのです。
たそがれの雰囲気横溢・・・。
昨今本離れが言われてますが、
値段が高すぎるという気がしないでもない。
もう少し安くしてくれると、
昭和人にも身近になるのですが・・・。
主催者吟
ギター弾く幼子手を振る桜散る
桜咲くいろいろ聞こえる夜のしじま
桜散る路は絨毯はしゃぐ子等
咲く力風に任せて散る桜
春の雨寝つつ車の過ぎる音
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