渡辺さんの俳句傑作選
2026年 5月の俳句
算盤の割り算習う昭和の日
算盤という言葉が懐かしく感じる昨今。
計算もスマホで一瞬で答えが出る。
頭を使う必要がない。
戦後の昭和30年代、40年代は、
子供の習い事と言えば、
習字と算盤・・・。
書きながらその頃のことを思い出してみる。
習字を習っていた。
まあ、左利きを直すためということで、
母親がすすめてきて習い始めた。
小学生になって間もない時だったから、
お手本を見ながら何枚も練習した。
その当時はとにかく習う人数が多く、
長机に何人も座って書く。
1人終わるのを待って1人机に向かう。
とにかく人数が多いから、
なかなか順番が来ない・・。
小学生の低学年でもありとにかく遊びたい。
(早く順番が来ないかな)と思いつつ、
なかなか順番は来ない・・・。
順番が来てもとにかく早く外に出て遊びたいから、
あまり丁寧に書かない・・・。
先生が回ってくるわけですよ。
書いた文字を添削してくれるんですが、
なにしろ急いでるから文字が荒い。
先生は怒りはしないが、
OKも出さない・・・。
かえって時間が伸びてしまう結果になった。
今思うとなんともはやだが、
その当時の二大習い事の一つ、
算盤は今でも習う子が多いようだ。
暗算力が鍛えられるからということがあるようだ。
昭和世代はそろそろ頭で計算するという力が、
衰えてくるのを自覚するころ。
頭の中での計算が、
どんどん当てにならなくなってきてるから、
算盤はボケには効果的なんだろうな。
これからボケ防止の一つに、
算盤教室が流行る気配を感じる・・・。
習字算盤も昭和世代には、
いつまでもかかわりを持っていくんだろうな('◇')ゞ
少年に含羞ほのか春祭り
自分の少年の頃を思い出すと、
はずかしいとか照れくさいとかいう気分を、
しっかり意識として感じたのは、
やはり少年という年代だったと思う。
女の子を意識したのも、
小学生の高学年から中学生くらいからだ。
小学生の低学年くらいまでは、
恥も外聞もなく暴れまわっていた。
回りを気にするという感覚もなかったかな。
ただ行動によって母親にひどく怒られた。
昭和の御世だと母親の鉄拳も飛んできた。
それをかいくぐって動き回っていた。
小学校も終わりに近づいたころ、
なんとなくいいなと思う女の子が出現したり、
出現したと言ってももちろん前からいるわけで、
突然ドラえもんのどこでもドアから、
すっと出てきたわけではないんですね。
それまでとは違った感覚が、
出てきたということかな・・・。
その頃から葉時も外聞もなかった行動が、
どうもそうも思えなくなってきた。
話をするにも知ってる人ならいざ知らず、
知らない人に話しかけるとなると、
なんだかもじもじして、
はっきり言えなくなったり、
なんだかものをいうのにも、
口ごもったりするわけですよ。
大人にたいしても、
なんだか素直じゃなくなったりね。
自分をさらけ出すことを躊躇するんですね。
ガキの頃は自分のなんでも平気でいられたのが、
どうも対相手を意識して、
もじもじしたりうまく言葉が出てこなくなったり、
ちびの頃は感じなかった気分が出てくるんですね。
いわゆる思春期という時期ですね。
この気分を乗り越えて
対人という感性をいかに鍛えていくか、
これは大きなことですよね。
自分の対人の感性が育たないと、
ストーカー行為に走ったりするんだろうな・・・。
含羞の時期の重要性を、
しっかり認識した方がいい昨今ですね。
欠勤の電話ためらう春の風邪
三月になって春が来たと思うと、
どうも暖かくなったり寒くなったり・・・。
ハッキリしないような気候が続く。
それにしても昨今の春というのは、
極端から極端に振れ幅がやたら大きい。
寒い日は冬のような寒さであり、
暑い日は初夏という気温の上がり方。
なんだか三月、春といった気分も、
なんだかダメな気分が大勢をしめる。
三月になって春もたけなわというところで、
会った人との会話は、
暑いようななんだか極端」という、
会話になってしまう・・・。
なんだか機構に対する愚痴が多くなり、
相手にも「もう分かったから」と、
なんだか怒りに近いお言葉が返ってくる。
まあ、会うたびに暑い、寒いの言葉が、
まず出てくると、
愚痴が多すぎるという、
たしなめになるんだろうな。
こういう気候になると体調にも、
なんとも言えない変化の兆しが出てくる。
かったるいような、気分として低調な感じ・・・。
(行きたくねえな・・・)
仕事なんか特にそういう気分になる。
気候の変動も関係なく元気は人を見ると、
な~んだか、鬱っとおしい・・・、
と、重~~~い気分になるのです。
そんなんじゃだめだと自分を叱咤すると、
ますますマイナス気分になるわけ・・・。
思わず出勤前に、
電話にというかスマホに、
手が伸びるわけですよ。
でもそこでなんとなく手が止まったりする。
止まった手を次の行動に移すべき、
根性もあまり出ない。
なんだかスッキリしない季節に突入するんですね。
昭和の春とは違ってしまった令和の春。
気候が変わってしまった割に、
人間の体感って変わってないんですね。
人間を管理する会社組織も大変そう・・・。
春眠に突如現る鐘馗様
窓ガラスに燦々と注ぐ陽の光。
外はまだ風が冷たい。
しかし寝そべってこういう陽の光は、
意識をぼんやりさせる道筋を、
しっかり作ってくれるんですね。
ぼんやりと同時進行で、
目をつぶった脳裏に、
見たこともないような景色が、
広がったりしますね。
しかし、自分がしっかりそこにはいて、
けっこうしゃべっては動いたりしてる。
こういう日の光の中での映像というのは、
それほど厳しい雰囲気ではない。
切羽詰まったような場面でもなく、
人が集まったようなところで、
自分らしくないような言葉を発したりする、
要するに楽しい気分の夢を見てるんですね。
なんだか会話が楽しいのか、
笑ったりしてる・・・。
これが自分の能動的な夢で、
コントロールできる夢なら、
さらに楽しいのだが、
こういう夢はまずコントロールはできない。
なんだかいいなぁー、という気分で、
そういう夢は見続けたい。
しかし、どんな夢でも覚めるのだ。
こういうなんとなく幸せ気分に浸る夢は、
平家物語の一節ではないですが、
「ただ春の夢のごとし・・・」
という結末になるんですよね。
窓からの日差しは変わりなく、
しかし、夢は覚めて、
なんとも言えない空しさが残るんですね。
しかしこれは警告なんでしょう。
人間生まれた死ぬまで、
春の夢を見続けることはできない。
鐘馗様は大人の油断を、
戒めるために現れるんでしょうな。
鐘馗様は邪気から人間を守る神ですが、
夢に流されないように見守っている神でもありますね。
主催者吟
砂時計さらりと流す春の闇
自動ドア開いて眩しさ増して春
畔の角地蔵菜の花咲く二輪
歯科助手の迫力声に春嵐
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