渡辺さんの俳句傑作選
9月の俳句
阿久悠の訃報秋思まつただ中
昭和の大作詞家、阿久悠が逝った・・・。
その作詞した曲の数は、
常人の想像をはるかに超えている。
曲の ジャンルも問わず、
とにかくこの曲もかという感じで書いている。
阿久悠の曲で青春を走り過ぎた人も膨大な数だろう。
その時、青春にいた人の一つ一つの違う思い、
その天文学的は思いのすべての源となった一曲の詩が、
阿久悠発だったりする。
たった一人の詩で、
万人の数限りのない思いを創出する、
その昭和のエネルギーの象徴が、
暑い秋のはじめに逝った。
ひとつの時代の終わりは、
ひとつまたひとつと灯が消えるがごとく、
意識されずに終わっていくのだと思う・・・。
蟷螂の構えに隙のなかりけり
蟷螂(カマキリ)というとあまり良いイメージがない・・・。
あの姿にも若干原因があるように思うが、
本人たちにとっては一番自然にマッチした姿なんだと思う。
あの前にある大きな鎌で足を刺されたことがあるが、
指に突き刺さったところ見ると力も相当なものだ。
カマキリというのはメスに近づく時、
気づかれないようにメスの視線があるときは、
ぴったり止まって動かず・・・。
ウロウロ動けばメスは逃げてしまう。
メスの視線が外れるとソソッと近づく・・・。
完全に目の前までいって交尾を実行するのだが、
その直前でパクリ・・・!
メスに食べられてしまうのだ。
それでも残った精管だけでも活動して子孫を残す。
メスの餌になりながら子孫繁栄を遂げる・・・。
これはカマキリだけの話ではないですよ!
人間だってたいした違いはない・・・。
病み捨てし父に嵯峨野の新豆腐
子供のころは怖い親父が疎ましく思っていて、
日曜日が雨降りなんていうと最悪だった。
怖い父親がドッカリと目の前に腰を下ろしている。
なんだか活動的になれない雰囲気が嫌なのだ。
しかし、この歳になってみると、
老いた父親が疎ましく思えてくる。
親父には怖い親父でいて欲しいと思うわけだ。
まあ、子供も勝手なものだ・・・。
そんな父親が病気になりなんとか治ってくると、
なんかプレゼントしたい!
しかし、物であげてもどうかと思う・・・。
すぐに手元に戻ってくる可能性があるのだ・・・。
それでは食べ物で・・・となる。
年を考えると硬いものは無理だ。
酒はどうだろう・・・。
病み上がりにはどう見てもすすめられない。
となると出来立ての豆腐がいい!
豆腐が歯ごたえのなものだと思うのは間違いだ。
作りたての豆腐は引き締まっていて、
適度な歯ごたえがある。
歯茎いや歯そのものも怪しくなっている親父には、
ぴったりと思う・・・!
挨拶を上手にする子鳳仙花
最近の子供が、
挨拶をきちんとするということはまずない。
自分から頭を下げる子もいない・・・。
母親にせかされてお辞儀をするのが当たり前。
いきなり一人で挨拶する子が目の前に現われると、
こちらが焦ってしまって、
下手をするとうろたえたりするからなんともだ・・・。
子供はもちろん普通の姿では、
枠にはまった行動はしない。
その大人の目から見るとウロウロしている子供が、
きちんと頭を下げて挨拶する姿は、
恐ろしく新鮮で、
こちらが頭を下げるのを忘れてしまいそうだ。
さっとすばやく下げる頭の機敏さは、
鳳仙花の花の実がはじけて、
パッ!と飛び散る機敏さにそっくりだ。
夕月夜佐渡に朽ちたる能舞台
歴史というのは無常とイコールである。
無常観というものを完璧に表現しているのが、
歴史といえるだろう。
佐渡ヶ島は平安時代から貴族の流罪の地・・・。
政治的に敗れて流された者。
陰謀によって失脚した者。
日蓮もその一人だ。
悲嘆に満ちた日々も、
歴史という時間の流れがすべてを遠ざける・・・。
落剥した貴族の者どもを慰めた舞。
しかし、その能舞台が風雨に朽ちると同時に、
すべては時の流れに飲み込まれて跡形もなし・・・。
嘆きも怒りも忘れ去られて、
今や語られることもなし・・・。
主催者吟
秋時雨晴れ間に並ぶ白きシャツ
朝顔の時期がずれても咲かす意地
マズルカを聴く夜の風に秋の色
マッチ擦る炎の伸びてやや寒し
とめどなき枯葉積もりて廃駅舎
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