タイトル■叫ぶ奇人の怪
書き手 ■ヘドロ岡林

これはノンフィクションである。
叫ぶ奇人……、この怪物は実在する!
不夜城・新宿大久保に生息する
このミステリアスな怪物の正体に迫るべく
取材を重ね、その様子をリアルタイムで
報告していくのが、この企画の主旨だ。
繰り返す。“この怪物は実在する”!!

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◇◇ 第十ニ話 ◇◇
奥様の意義、外国人の意義、俺の意義

とりあえず、その後の対策を決めた。
若奥様とのトラブルについてである。

もし今後、向こうから何かイチャモンを付けてきたら、
「怒鳴った俺もオトナ気ないが、ゴミをぶつけた貴女も悪い。
 どっちもどっちですね」
とニコヤカに言って、すべてをチャラにする方向へ持っていく。
そして、俺自身はゴミをちゃんと捨てていることをニコヤカに主張する。
それでもまだ向こうが何か文句を言ってくるようだったら、
そのときまた、対策を錬ればいい。
何も言われなければ、それに越したことはない。

とにかく、大事なことは、
口汚く罵ったことを除けば、
自分自身にとりたててやましいところがないのだから、
堂々としていよう、ということだ。
今まで通り、ごくごく普通に生活させてもらう。
買い物にも行くし、自転車にも乗る。
水曜日に燃えるゴミも出すし、木曜日に燃えないゴミも出す。
もし奥さんと表でバッタリ出食わしても、逃げもしないし、隠れもしない。
かと言って、こちらから挑発するような真似も断じてしない。
そう決意した。

それにしても、あの若奥様のブチ切れっぷりは尋常じゃなかった。
名前も知らない初対面の男に対して、
女だてらにあんな攻撃を仕掛けてくるとは、
まったく、いい度胸をしていると思った。
中国マフィア風の男と向き合った瞬間に、
へなへなと畏縮した俺とは、大違いだ。

いや、これは度胸うんぬんの問題ではなく、
“戦う意義”の問題なのかもしれない、とも思った。
あの奥さんからすれば、
このマンションのゴミ散らかし問題は、
決して放置することのできない、大問題だったのだろう。

見たところ、奥さんの住むあの家は、
おそらく何十年ローンで購入したマイ・ホームだ。
念願かなって、ようやく手にしたマイ・ホーム。
ところが、周囲の環境が日を追うごとに悪化していく。
自分が、夫が、そして子供が、
一生のうちの大半を過ごすであろう我が家が、
海のものとも山のものともつかぬ近隣住民たちの
暴若無尽な振るまいによって、日ごとに汚されていく。

冗談じゃない!
最悪だ!
こんな環境の悪いところに住めたもんじゃない!
…と奥さんは何度も思ったことだろう。
しかし、今さら引っ越すわけにもいかない。
なにしろ、家を買ってしまったからだ。

じゃあ、どうする?

戦うしかない!
自分の手で敵をやっつけ、
この町を、この家を、
夫を、子供を、守るしかない!

まるで、「パニック・ルーム」のジョディー・フォスターのようだが、
それに匹敵するぐらいの並々ならぬ決意が、
あの奥さんにはあったのではないかと、俺は想像した。

それに引き換え、
我がマンションの外国人たちはどうなのか?
一体どんな気持ちで、ここに住んでいるのだろうか?

まぁ、おそらく大半の者が、
「どーせこんなとこ、いつか出ていくんだから、どーだっていいや」
と思っているに違いない。
出稼ぎ、留学、その他もろもろ、
皆それぞれになんらかの確固たる目的があって日本に来ているのだろうが、
住んでいる家そのものには、
何の愛着もこだわりもないものと思われる。

実際、わずか数カ月滞在しただけで、
早くもどこかへ引っ越してしまった者もいるようだ。
目的を遂げたら、もうこんな場所には用はない、ということか。
まぁ実際、彼らにとってこの賃貸マンションはきっと、
単なる出張先のビジネスホテル、ぐらいの感覚なのだと思う。
永住する気などさらさらない。
せいぜい長く居たところで、
2年、ないしは3年がいいとこ。
よって、近隣住民と良好な人間関係を築く意義もとりたててない。
だからこそ、周囲の迷惑を鑑みない、
あんなメチャクチャなことを平気で出来ちゃうのだろう。

まったく、困った問題だ!
そう嘆きたくなった。

いや、別に俺、
外国人のモラルのなさについて憤慨したわけじゃない。
そんなのは基本的に、どこの国民だって同じだからだ。
テレビで盛んに報じられている不法投棄問題を見ても分かるように、
日本人にだって、よその土地に行った途端にデタラメなことをしでかす輩はゴマンといる。
俺自身、そこまで酷くはないものの、
タバコのポイ捨てや、ポンピング放屁(プッ…プッ…プッと歩きながら小出しに放屁
すること)などを日常的に、いろんな街角でやっているわけだから、
他人の礼儀作法についてとやかく口を出す資格はないと思った。

俺が困り果てたのは、
まわりがそんな非社交的な外国人ばかりだと、
今も、そして、これからもずっと、
誰とも井戸端会議が出来そうにない、という点についてである。
井戸端会議が出来ないということは、
これすなわち、奇人捜査がますます難航し、
迷宮入りの可能性が高まったことを意味するのだ。

井戸端会議を馬鹿にしちゃいけない。
おしゃべり主婦だらけの団地に住んでいた経験から言うと、
町のミステリーの大半は、
実は、井戸端会議によって解決されるものなのだ。

それぞれの奥さんが独自ルートで情報を収集し、
それを井戸端会議でぶつけ合い、
辻褄の合わない部分は再度洗い直し、
何度も何度も擦り合わせをやった末、真相をあぶり出す。
それだけに留まらず、数日後には、
渦中の人物の生い立ち、背後関係、
その他もろもろ、どこでどうやって調べたらそんなこと
まで分かるのか、というこぼれ話まで発表され、語り尽くされる。

まぁ、ここで言うミステリーとは、
「○○さん家からよく怒鳴り声が聞こえるが、夫婦仲が悪いのか?」とか、
「団地の駐車場にいつも停まってる、あの右翼の街宣車は誰のなのか?」
とかいう程度の、実に取るに足らないミステリーではあるのだが、
それにしても、井戸端会議の捜査能力、あなどるなかれ!といったところなのだ。

ところで、町の奥様方はなぜ、
そんな梨元勝じみた活動に無償で精を出すのだろうか。
それはズバリ、自らの平和をかき乱す恐れのある不安要素を
一刻も早く取り除きたいという願いがあるからだと思う。

身近にある不可解なものを
そのまま謎めいたまま放置しておくのは、
単純に怖い。精神衛生上よろしくない。
いつなんどき、自分に火の粉が降り掛かってくるか分からない。
だからそのミステリーに地域住民がスクラムを組んで立ち向かい、
なんらかの、分かりやすい解答めいたものを出そうと皆で努める。

解答が出ないまでも、その恐怖、不安を、誰かと共有することによって、
「怯えてるのは私一人じゃない。みんながそれに怯えてるんだ」
という安堵感を得ようとする。
共感者が多ければ多いほど、心が安らぐ。そして、心強くなる。
だから、とにかくアチコチで喋りまくる。
それが伝言ゲームのように
グングン加速しながら町中に広まってゆき、
時として、沖田浩之が言うように、噂が光の速さより速くなったりする。

そう、井戸端会議は、
ゴシップ好きなお喋りワイフのタチの悪い暇つぶし、
という側面が多分にあるのも事実だが、
皆それぞれが、町の平和を望んでいるからこそ、
成り立つ会議だという側面も少なからずあるのだ。

しかしながら、
このマンションの住人たちは、
ここに長居するつもりがないからか、
地域社会の平和などには、まるで無関心なようである。
少なくとも俺にはそう見えた。
近所に誰が住んでいようが、近所で何が起ころうが、
はたまた近所の人たちに自分がどう思われていようが、
そんなこたぁ、まるっきり知ったこっちゃない!というスタンス。
ゆえに、井戸端会議どころか、
近隣の人たちと挨拶を交わす意義さえもまったく感じていないのか、
実際それまで、俺は何組かの住人と廊下や階段でスレ違ったが、
彼らは全員、挨拶もしなければ会釈もせず、目さえ合わそうとしなかった。
ひょっとしたら、素性を知られたくない理由でもあるのだろうか?
と勘ぐってしまいたくなるほど、彼らは非社交的だったのだ。

いや、いくらなんでもそれは言い過ぎか。

ひょっとしたら彼らは、ただ単にシャイなだけであって、
本当は友好的な心の持ち主なのかもしれない。
本当はみんなと仲良しになりたいのかもしれない。
本当は「ウイ・アー・オール・アローン」(songed by ボズ・スキャッグス)よりも

「ウイ・アー・ザ・ワールド」(songed by USAフォー・ザ・ワールド)の歌詞に
共感している人たちなのかもしれない。

だがしかし、これはお互い様でもあるのだが、
たとえそういう気持ちがあったにせよ、
じゃあ一体、何語でコミュニケーションを取ればいいのか?
という厄介な問題が立ちはだかるのも事実である。
確認できた範囲で言うと、
中国、韓国、中近東のどこか、南米のどこか、そして日本。
……少なくとも五カ国の人たちが当時このマンションに住んでいた。
ここは日本なのだから日本語を共通言語にするのが自然な発想だが、
全員が日本語が達者であるとは限らない。

そして、ルックスの問題。
とりわけ中近東や南米の人から見れば、
日本人も中国人も韓国人も、まるっきり見分けが付かないのではないだろうか。

相手が何人であるのか、そして、何語を喋れるのかが分からない。
となるともう、コミュニケーションの入口である挨拶さえも、
なんだかままならない状況になってくる。
「こんにちは」「どもありガット」ぐらいは全員言えるとしても、
それ以上の会話を続けるのが一苦労、
という組み合わせがたくさんありそうなことは誰にでも容易に想像が付く。
だったらもう、面倒だから、よそ様とは一切関わらないでおこう。
挨拶しちゃうと後々面倒臭いことになりそうだから、
ハナから目も合わさないでおこう。

そんな判断が全員に働き、
ディスコミュニケーションな
状況を生み出していた可能性もある。

なんにせよ、残念なことだと思った。
このマンションに数カ月住んでる人ならば、必ず一度や二度、
いや百度や二百度、あのけたたましい奇声攻撃を浴び、
不快(ないしは愉快)な思いをしているはずなのに、
いわばここは“グラウンドゼロ”だというのに、
被害者同士でその話題を共有し、話題を育み、
共に犯人探しをしていこうとする土壌がないなんて、
まったくもって残念と言うほかなかった。

もちろん俺とて、治安上の問題から、
そうやすやすと近隣住人に心を開くつもりなどなかったのだが、
しかし、そうは言っても、
ここまで乾き切った、誰とも目さえ合わないような関係性を望んだ記憶はない。
友達にはならずとも、会えば挨拶ぐらいするし、
その気になれば世間話の一つや二つ、出来なくもない。
そんな可能性を秘めた隣人を何組かキープしておきたかった。

いつか本格化するかもしれない、奇人捜査。
その時きっと、団地の奥さん連中同様に、
このマンションの他の住人たちが貴重な情報をもたらしてくれるんじゃないか、
と俺は勝手に、心のどこかで計算していたのだ。
だが、こんな環境下では、それも望めそうにないということに気付いてしまった。

ならばこれから積極的に、俺のほうからフランクに接して行って、
人間関係を構築していけばいいのかというと、そういう問題でもなかった。
今さらそんなことをしたら、
「急にコイツ、どうしたんだ?なんか下心でもあるのか?」
と、各国の人たちに気味悪がられてしまう可能性がある。
奇人ではなく、俺が捜査対象になってしまう。
それは本末転倒だと思った。

友人・知人だけでなく、近所の日本人とも、同じマンションの住人とも結託できそうにない。
となるとやっぱり、詰まるところ、奇人捜査は今後もずーっと、
俺一人でやっていかなくてはならないのだろうか?

いや、そんなの全然面白くないし、なんだか不公平な気がする。
そもそも、俺がそんなことをする意義もあまり見出せない。
このまま放っておいても、「ちょっとうるさい」「ちょっと無気味」
ということ以外は、とりたてて実害がないのである。

などと、あれこれ自問自答しているうちに、
季節はすっかり秋になり、
我が家の窓は閉じられる時間が長くなっていった。
窓ガラスの遮断により、
奇人の声が聞こえる回数も減っていった。

冬に入ると、これに暖房の音が加わり、
室内にいる限りにおいては奇人の声はまったく聞こえなくなった。
ごく稀に、洗濯などでベランダに出た時にその声が聞こえたりして、
「まだやってたのか…!」と驚かされることもあったが、
「そんなことより、今日は寒い!」とばかりに、
俺はもう以前のようにベランダで立ち止まったりはせず、
用事を済ますとそそくさと、あったかい部屋に逃げ戻るようになった。
「構ってあげられなくてゴメンっ…!」という後ろめたさも感じたが、
俺には俺の生活があるのだからと、割り切ることにした。

その後、幸いなことに若奥様とは一度も遭遇することがなく、
やがて俺は、奥さんの顔を忘れてしまった。
隣の韓国ガールズとはその後、もう一悶着あったのだが、
時間の経過とともにシコリは風化していった。
ひとまずは、平穏無事な毎日が訪れたと言っていい。

◆   ◆   ◆

ここで一つ、注意書きを。
進むのが遅くて恐縮だが、
ここまでの話は、1999年の話である。

この連載を開始するにあたって、1回目の原稿の挨拶部分で、
「本腰を入れて取材に取りかかるのは、その説明が終わってからだ」
と書いたが、実はまだ、「その説明」さえ終わっていない状況である
ということを、ここで素直に告白しておく。

なるべく早い段階で時計の針を現在にまで引き戻し、
当初、お約束したように
「取材の様子ならびにその成果をリアルタイムで報告」
していけるよう、
今後はグングン更新速度を速めて行きたいと思う。

長い、面白くない、付き合ってられない、
などの御不満がある方は、
今すぐパソコンの電源を切り、御自宅の窓を開けて、
「バァ〜ッ!」と叫んでみるといい。
そうすればちょっとは、気分がスッキリするのではないだろうか。


(つづく)






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