タイトル■狼男の記録
書き手 ■谷田俊太郎

はガガーリン空港へ行く」を主宰している男
の書く生活記録でがんす。略して「狼男の記録」。
狼男といえば、「ウォーでがんすのオオカミ男♪」
でおなじみの「がんす」でがんす。でも面倒くさい
ので、本文では「がんす」は省略するでがんす。

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これまでの記録


<173> 2月3日(月)

■■ 人でなしの恋 ■■

まあ、なんということでございましょう。
私の夫は、命のない、冷たい人形を
恋していたのでございます。     
    
    (江戸川乱歩『人でなしの恋』)

『黒蜥蜴』と『恐怖奇形人間』、
江戸川乱歩の古い映画を上映する名画座
池袋・新文芸座のごった返す人込み。
その中に、二体の人形を抱えた老紳士がいた。

二体。いや、ふたり、と表記すべきなのだろう。
老紳士は、そのふたりの赤ちゃんの人形に
きれいな服を着せ、大切そうに抱いていた。

彼は劇場が闇に包まれ、上映が始まるまでの時間、
ずっとそのふたりの人形になにごとか話しかけていた。

人々は(俺も)、ちらちらと、
あるいは恐る恐る、その様子を盗み見ては
くすくすと笑った。

そんな周囲の好奇の視線など気にもせず、
老紳士は実に楽しそうな様子だった。

人形に対する偏愛をさまざまな形で描いた江戸川乱歩。
まるでその世界観を具現化したような奇妙な光景。

人形に対する愛情。
それは奇妙なことには間違いない。
“人でなしの恋”
乱歩はそんな言葉で表現していた。

しかし…。

俺は数ヵ月前にした、知人Sとの会話を思いだしていた。

「僕は結婚するつもりないんですよ。
 最近は彼女が欲しいとも思いません」

Sはこんな風に話を始めた。

「そりゃまたどうして?」
「×××がいるから、いいんです」
「×××って?」
「ぬいぐるみです」

Sはぬいぐるみに恋していた。
部屋にいるときは常にその×××に話しかけ、
きれいな服を着せ、一緒に寝ているという。
最初は洒落かと思っていたが、Sは本気らしい。

以前につきあっていた恋人には、
「私と×××、どっちが大事なの!」
とつめよられたこともあるという。

「僕は結婚したくないけど、子供は欲しいんですよ。
 子供がいれば、×××を外に連れていっても、
 変な目で見られることはないですから。
 ×××を、お台場とかもっといろんなところに
 連れていってあげたいんですよね」

Sは目を輝かせてそう言っていた。

「怖いよ、S」そう言って笑った俺だったが、
実は俺も、ぬいぐるみをかわいがっている者のひとりである。

小さなぜんまい仕掛けのひよこ「ちっち」
熊と思われるひらべったい茶色の生き物「ごぼう」
クッションのような巨大なぬいぐるみ「ばーば」

俺もまた毎日の日課のように、
このぬいぐるみたちに話しかけ、
なでたりさすったりしているのだ。

最初は家人を楽しませる余興のつもりだった。
子供のいない夫婦がペットを飼うと話がはずむように、
第三者の存在は会話を活性化させる。

しかし、演技も続けていると本気に変わる。
今では、「ちっち」たちに
本物の愛情めいたものを感じるようになっていた。

程度の差こそあれ、Sや老紳士とあまり変わりない。

人でなしの恋。これはいったいどういうものなのだろうか。

スーパーやコンビニにいけば
“食玩”と呼ばれるフィギュア人形が大量にあふれ、
それを買い求める成人男性の数は
かなりのものになっていることがわかる。

古い怪獣などのフィギュアを扱うショップも増殖しており、
レアなものは数十万、数百万円で取り引きされているという。

これらを買い求める人々の心理は
“コレクター癖”と分類されるべきものかもしれないが、
その根底にあるのはやはり
“人でなしの恋”と同じようなものではないか。

そう考えると、現在は“人でなしの恋”
“人形愛”が花盛りの時代。

「人形愛」
この言葉の造語者たることを自認するという
澁澤龍彦によれば、これはもともと
ピュグマリオニズムの翻訳語だそうだ。

生命のない無機的な彫像が常軌を逸した恋の力によって
ついに生命を獲得するにいたるというのが、
厳密な意味でのピュグマリオニズムという話だが、
ただ単に無機的なものを愛でる心と解釈しても
それほど差し支えないだろう。

無機的なものに愛情を注ぐ。
この心理は、人形に限ったものでもないだろう。
人間以外のものへの偏愛は
すべて同質の感情といってもいいかもしれない。

これにはブラウン管の向こう側にいる
人間たちへの愛情も含まれるだろう。
つまりアイドルやスポーツ選手、ドラマの登場人物といった人々…。
それもまた自分の現実には存在していない
という意味では“人形”みたいなものではないか。

そこまで含めれば、“人でなしの恋”を
していない人間の方がむしろ少ないだろう。

携帯電話、インターネットなど
コミュニケーション・ツールは増える一方だというのに
そんなテクノロジーの進歩とは反比例するように、
人間とのコミュニケーションから逃れたがる人々が増えている?

これがいわゆる“ひきこもり”という心理?

…話が飛躍しすぎてきたようだ。
俺は社会学者じゃないから、そのあたりはよくわからない。
今に始まったことでもないのだろう。

でもまあとにかくそんなことをふと思った。
だからなんだという話でもないのだけど。

最後に再び乱歩の言葉。

「人間に恋はできなくとも、人形には恋ができる。
 人間はうつし世の影、人形こそ永遠の生物」

         (エッセー『人形』より)


(つづく)






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