タイトル■狼男の記録
書き手 ■谷田俊太郎
「狼はガガーリン空港へ行く」を主宰している男
の書く生活記録でがんす。略して「狼男の記録」。
狼男といえば、「ウォーでがんすのオオカミ男♪」
でおなじみの「がんす」でがんす。でも面倒くさい
ので、本文では「がんす」は省略するでがんす。
>>これまでの記録
<175> 7月12日(土)
■■ 梅雨と憂鬱 ■■
「だから只歩くのである。けれども別段に目的もない歩き方だから、
顔の先一間四方がぼうとして何だか焼き損なった写真の様に曇ってる。
しかもこの曇ったものが、いつ晴れると云う的もなく、
只漠然と際限もなく行手に広がっている。
苟くも自分が生きている間は五十年でも六十年でも、
いくら歩いても走けても依然として広がっているに違いない。
ああ、つまらない。歩くのは居たたまれないから歩くので、
このぼんやりした前途を抜出す為に歩くのではない。
抜出そうとしたって抜け出せないのは知れ切っている。」
(夏目漱石「坑夫」)
今日も曇っている。とりあえず雨は降ってないが、どうせまた降り出すに違いない。
昨日もそうだった。久しぶりに晴れ間が出たと喜んで、洗濯物を外に干したら、
また雨。あわてて取り込む。毎日そんなことばかり繰り返していてウンザリする。
洗濯物が部屋に干してあるので、湿っぽいなんともイヤな空気が充満している。ここしばらくずっと憂鬱な日がつづいている。日記(メモ)も書いてない。
モモ(妻の実家の犬)の訃報を聞いてから、書く気がおきなくなってしまった。そればかりが理由ではないけれど、要は書きたいことがあまりないのだ。
雨のせいもあるし、腹立たしいこと、むなしくなることが続いたせいもある。
まあもちろん、ただ面倒くさいから、という日もあるが。俺は公にものを書くとき、できればネガティブなことは書きたくないと考えている。
ほっといたってネガティブなものは世の中にあふれているし、
みんな口にしている。わざわざそんなことを書いたって仕方がない。それよりはできるだけ物事のいい面を見つけて、それについて書きたい。
もちろん新聞やニュースを見ればわかるように、世間の多くが求めているのは悪口や批判だ。
俺だって嫌いじゃない。痛快な悪口、的を得た批判は胸がスカッとする。
でもそれはそういうことが得意な他人に任せておけばいいし、公の場でやろうと思わない。しかし、そういうスタンスだと、負の出来事、負の感情ばかりが続くと日記は書けなくなる。
ターザン山本さん風に云えば「しょっぱい」ことが多すぎる。
世間や他人ばかりじゃなく、自分自身も「しょっぱい」から気が滅入ってくる。そんな状況は変わってないが、今日はそんな今の心境をとりとめなく記しておこうと思う。
近頃、家人が家に帰ってくると、まずこういう会話がある。
「今日なにかいいことあった?」「なにもない」「わしも」
しょっぱい思いをしてるのは、俺ばかりではないらしい。昔、「愛少女ポリアンナ」というテレビアニメがあった。
あまり真剣に見ていたわけではないが、ずっと印象に残っていることがある。
主人公の少女は、おそらく不幸な境遇だったと記憶しているが、
彼女はいつ何時でも「よかった探し」をしていた。
どんな状況にあっても、必ずなにかひとつは「よかった」を見つけるのだ。人間そうありたいものだと思う。が、なかなかそううまくいくものでもない。
だからこそ、そういう物語がフィクションとして必要なのだろう。俺は別に不幸な境遇ではない。健康だし、毎日ビールも飲めている。
昨日はダイエーで1000円の上寿司を買ってきた食べた。なかなかうまかった。
家の中にトカゲがいた。トカゲを見たのは、いったい何十年ぶりだろうか。
かわいい顔をしていたが、トカゲが部屋を徘徊してるのはやはり気味が悪いので叩き殺した。
ちぎれた尻尾がいつまでもヒクヒクと蠢いていた。トカゲの尻尾、珍しいものを見た。
ドラマ『Stand Up』が面白い。甘酸っぱくてせつなくて、これぞ青春だ。
主人公が、∀ガンダムのファンらしいことも実に好感が持てる。
再放送中の『金八先生5』もいい。今回は倒叙ものミステリーみたいで、非常にスリリングだ。こうして書き出してみると、なんでもない一日にも「よかった」はいろいろある。
(トカゲについては、かわいそうなことをしたと思っているが)
プライドGPのことを考えると胸が踊る。夏が待ち遠しい。
にもかかわらず、全体のイメージとしては「曇って」いる。憂鬱な色をしている。最近、『最強伝説 黒沢』(福本伸行)という漫画を読んだのだが、
ここしばらくずっと考えていたことが、そのまま描いてあって驚いた。物語は主人公がワールドカップの日本戦を見ているシーンから始まる。
稲本のシュートを見て、主人公は涙を流して喜んでいる。
だが、その絵とは裏腹な独白が始まる。
「あの日…」「あの日…」「分かってしまった……!」
「オレは…唐突に…分かってしまった…!」「感動などないっ!」主人公は仲間たちとテレビを見ながら、激しく興奮している。
「人一倍…」「そう…まわりの誰よりも大騒ぎしながら、オレは…」
「胸の奥がどんどん冷えこんでいくのを感じていた…!」「オレが求めているのは…」
主人公は稲本や中田の名前を大声で叫びながら思う。
「…っていうようなことじゃなくて…」
「オレの鼓動…」「オレの歓喜」「オレの咆哮」
「オレの、オレによる、オレだけの…」「感動だったはずだ…!」「他人事じゃないか…!」「どんなに大がかりでも、あれは他人事だ…!」
「他人の祭りだ…!」「いったい…」「いつまで続けるつもりなんだ…?」
「こんなことを…!」主人公は建設会社で働くさえない中年オヤジ。やることなすことうまくいかない。
まだ1巻しか読んでないので、この先どうなるのかは知らないが、
少なくとも、この物語の冒頭のシーンには、心をわしづかみにされた。そうなのだ。テレビ、本、映画、音楽、格闘技…。
俺の生活の中で激しく感情を動かすものは、
ほとんど他人事ばかりなのだ。
オレの、オレによる、オレだけの感動は、滅多にない。
最近いちばん気が滅入ったことのひとつに、中西学のK-1での惨敗がある。
あれにはまいった。勝つことは期待してなかったが、それにしてもひどすぎた。
キックボクシングをやったこともないTOAにまったく歯がたたなかった。
相手がミルコやサップやヒョードルならいい。でもド素人みたいな奴なのだ。ここまでプロレスラーって弱かったのか……!
もうそういう思いには慣れているはずなのに、自分でも意外なほどショックを受けた。
柔道家の中村がK-1でも好勝負をしていたのでなおさらだった。
強さがすべてだとは思わないけれど、せめて心の強さだけでも見せてほしかった。
ただみじめなだけだった。怒りよりも哀れな感情だけが残った。
リングサイドで呆然としている新日本の選手たちのまぬけ面がさらに輪をかけた。
例によって、この敗戦をかばおうとするプロレス・マスコミの過保護体質にも嫌気がさした。
こんなものをずっと好きだといっていた自分を恥ずかしく思った。
だが、自分でもプロレスの本を作ったばかりなだけに
気持ちが激しくイレギュラーを起こした。その一方で、翌週のK-1ワールドマックスは素晴らしかった。
興奮とドンデン返しの連続で興行自体も完璧、どの選手も良かった。
優勝した魔裟斗には心底感動した。心から「おめでとう」と言いたくなった。そしてその翌日、最後の望みをかけて見にいった、
ある試合で、ダメ押しのようにため息をつくことになった。
プロレスにはもう期待できない。未来はない。
マイナーな村社会だけで細々とお得意さんを相手にしていくしかない。
そして、その村に俺はいたくない。…そう思ってしまった。
先延ばしにしていた答を遂に出してしまったようで悲しくなった。ガックリ肩を落として帰ってきて、家人に
「もうプロレスとはお別れだよ」と言った。
今までも何度も言ったセリフだが、今回は本気のつもりだった。すると「プロレスをとったら、何が残るの?」と言われた。
返す言葉がない。確かに言われてみるとその通りかもしれない。
なら、毒を食らわば皿までで、まだつきあうべきなのか?
しかし、嫌になった女といつまでもつきあうようで未練がましい。
……などと葛藤していることも、結局は他人事がテーマなのだ。
他人の祭りを見物して、どうのこうの言っている野次馬にすぎない。
俺は永遠にただの野次馬人生を送るのだろうか。もう答はわかっている。それがイヤなら、
自分が祭りの主役になるしかない。
自分自身の物語をつくるしかない。
他人に期待をするのはやめろ、だ。けれど、それができないから、自分にイラだっている。
自分が「しょっぱい」から他人の「しょっぱさ」も目につく。
仕事的にも、個人的にも先が見えない。「曇ったものが、いつ晴れると云う的もなく、
只漠然と際限もなく行手に広がっている。」今、夏目漱石の「坑夫」という小説を読んでいる。
恥ずかしい話だが、夏目漱石をちゃんと読むのは初めてだ。
読んでみると、この人の文豪たるゆえんがよくわかってきた。
今、俺がうだうだと思っているようなことが、
びっくりするくらいこの本には書かれている。明治時代の作品なのに、
2003年を生きている人間の気分に、ぴたりと重なる。
この物語の主人公は、今の俺そのものだ。
俺の漠然としたうまく言葉にできない思いや気分を、
繊細に鮮やかに豊かに代弁してくれている。人間の細かい機微や奇妙さ、矛盾、不安感、閉塞感、まぬけぶり、
これほど理知的な心理描写に出会ったのは初めてかも。
しかもユーモアに富んでいて、何度も吹き出しそうになる。
これが「文学」というものなのか。すごいや、夏目漱石。漱石の卓越した人間観察力、文章力に感服しつつ、
結局、人間はいつの時代もずっと同じようなことで悩んでいるんだなと思った。
なんとか世代とかよく言うけど、あれは意味ないな。
明治の人間と21世紀の人間が、同じような悩みを共有できるのだから。
ま、大文豪に対して、共有と言い方はおこがましいが。先日、久しぶりに会った友人が、
心のバランスを崩しているのだと言っていた。
カウンセラーに診てもらって、薬を飲んでいるのだそうだ。彼がカウンセラーに聞いた話によると、
梅雨は心の病が最も増える季節だそうだ。病院の繁忙期らしい。
やはり太陽の見えない生活は、心のバランスも崩すのだろう。
1年のほとんどが曇りだというフィンランドだかは、
世界で最も自殺が多い国だそうだ。なんとなくわかる気がする。自殺をするつもりはないけれど、やはり梅雨は気が晴れない
『坑夫』の主人公のように、暗い方へ暗い方へと心が向かってしまう。
でも、もうすぐ夏だ。
いやになるくらいの灼熱の太陽が、心にも光を注ぐはず。「曇ったものが、いつ晴れると云う的もなく、
只漠然と際限もなく行手に広がっている。」そんな現実自体が変わるわけではないが、
とりあえず、景色が明るくなるだけでもいい。
少しは前向きに気分になれるだろう。
洗濯物が外に干せて、早く乾くだけでも気分爽快だ。
早く来い、夏の太陽! である。
今日は憂鬱な気分を吐きだせてスッキリした!
…と言いたいところだが、そううまくはいかないもんだ。
村上春樹が言っているように、
文章を書くことは自己療養の手段ではなく、
自己療養へのささやかな試みにしかすぎない。
空は今も、晴れたり曇ったりを繰り返している。
(つづく)