タイトル■突刊マット
書き手 ■谷田俊太郎


マット界(プロレス・格闘技界)に関する
読み物企画です。書き手も内容もいろいろ!

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<第17回 2002.11.15> 
UWFという名の青春・高田延彦クロニクル(前編)


高田延彦の引退試合が行われる
PRIDE23まであと約10日と迫った。

高田の入場曲「トレーニングモンタージュ」の口笛を吹きながら
感傷的な気分をぐいぐい盛り上げている俺である。

今週発売の『SRS DX』と『週刊プロレス』は
そんな気分のド真ん中にズバーンとハマッた。

『SRS DX』はターザン山本さんによる
「UWF青春論」と題する熱い文章が巻頭記事。
読んでいると、やたらと気分が昂ってきた。

そして旧UWFに高田と藤原の入団が決まったときの
記者会見のモノクロ写真が目をひいた。1984年の出来事だ。

前田も高田も若く、最高の笑顔を見せている。
懐かしい。あの頃、俺は中学3年生だった。
世の中に希望しか見えなかった頃だ。

一方、『週刊プロレス』は高田のインタビューが巻頭特集で
高田が表紙のバックナンバーの写真をずらりと並べていた。

新生UWF、UWFインター、10.9新日vsUインター、そしてヒクソン戦…。
すべての表紙が、すべての写真が、コピーが懐かしかった。
悲喜こもごものいろいろな感情が甦ってくる。
まるで自分のアルバムのようだった。飽きずにずっと眺めた。

UWF、そして高田延彦は俺にとっても
やっぱり青春だったんだなぁ…。

そんなことを考えていると、
記憶が次々とフラッシュバックし始めた。

というわけで、今日はいささか一人よがり的だけども
高田のこれまでの足跡と自分を重ねあわせて
UWFという名の青春を回想してみたい。

高田を初めて見たのは、まだ新人時代の
カルガリー遠征での試合だったと思う。

間もなく高田は“青春のエスペランサ”と呼ばれるようになり、
新日本プロレスの明るい未来を象徴する存在になっていく。

大きな脚光を浴びるキッカケとなったのは、
新日正規軍vs維新軍の5対5対抗戦に抜擢された谷津戦。
今はなき蔵前国技館での試合だ。

なぜか“聖戦士ダンバイン”の主題歌で入場してきた高田。
果敢に谷津に挑んでいく姿はみずみずしく、感動を呼んだ。

あの日、俺は中3の修学旅行で、奈良だか京都にいた。
自分のクラスにプロレスファンが誰もいなかったので
他のクラスが見ているテレビをこっそり覗きみたのだった。

時期をほぼ同じくして、
新日本を離脱した前田日明がUWFを旗揚げする。
前田は、従来のプロレスを完全否定して、
まったく新しいプロレスを始めると宣言した。

だが、同志もいなければ
経営的にも厳しそうなゼロからの出発だった。

当時は新日本プロレスと全日本プロレスの2団体しかなく
新しい団体が成功するなんて不可能に思えた時代だった。

前田の“革命宣言”に激しく心酔した俺は、
その同志として、前田の師匠・藤原と、
弟分・高田のUWF入団を心から望んでいた。

その願いは叶った。藤原、高田のUWF電撃入団。
我がことのように嬉しかった。あの感激は今でも忘れられない。

新しい同志を得たUWFの実質的な旗揚げ大会は
「無限大記念日」と名づけられた。

あの日から“UWF”という名の青春が始まった。
まさに言葉通り、無限大の可能性を感じた。
本当の革命が始まるような気がして、猛烈に興奮した。

UWFはテレビ放映がなかったし、
当時はビデオも普及してなかった。
もちろん、うちにもビデオデッキはなかった。

だから毎週「週刊プロレス」をむさぼるように読み、
試合を見たような気持になって幻想を膨らませていった。
受験勉強などそっちのけだ。
自分もUWF革命に参加している気分だった。

反体制的な「UWF」は、
憧れであり希望だった。

彼らが古い価値観を破壊し、
新しい時代を築くと信じていた。

だが、UWFはあっけなく崩壊。約1年で新日本に復帰した。

けれど、それによって前田や高田らUWF勢の試合を
毎週テレビで見られるようになったのは嬉しかった。
UWF革命・第2幕の始まりだった。

キックを得意とする前田や高田がはいていた
黒い長靴のようなUWFシューズは、革命の象徴のように見えた。

全共闘世代の人にとってのヘルメット
みたいなものだったのかもしれない。

“イデオロギー闘争”と呼ばれた
UWFと新日本の対抗戦は異様な緊張感に満ちていた。

あんな試合を毎週テレビで見られたなんて
考えてみれば、実に幸福な時代だった。
ついでに自分自身の高校生活も非常に楽しかった。

高田は、越中詩郎と名勝負数え唄を展開し、
前田とのコンビでIWGPタッグチャンピオンにもなった。
武藤と組んでIWGPタッグリーグ戦にも出場し活躍した。
高田はまだ若く、抜群にカッコよかった。

俺は高校3年生になっていた。
受験勉強なんて無意味だと思っていたので
映画の専門学校に行くことに決めた。

そんな1986年の年末、
前田による“長州顔面蹴撃事件”が勃発。

前田は新日本を追放された。
時代は風雲急を告げていた。

翌年春、俺が東京に上京するとともに
前田は新生UWFを旗揚げ。

UWFという運動体が再び動き始めた。

新日本での約束された将来を捨てて
高田も新生UWFに参加した。

俺は柴又の風呂なし便所共同のボロアパートで
新生UWFの動向を追って
食いいるように週刊プロレスを読んでいた。

東京での自分の新しい生活と
UWFの新たな旅立ちを重ねあわせて
思いっきり感情移入していた。

やがてUWFは社会現象と言われるほどブームになる。

前田、高田、そして山ちゃん…
前高山と呼ばれたUWF3人組の一番いい時代だ。
高田は、兄貴分の前田から初勝利も得た。

UWFは我が世の春を謳歌していた。

自分が上京して2度目の夏、8月13日、横浜アリーナ。
高田は、UWFに新たに参加してきた
“青春ヘラクレス”船木優治と対戦する。

俺は新横浜のすぐ近くの街、
鴨居に友達と一緒に暮らすようになっていた。

驚異の新星だった船木は骨法を身につけ、
高田は試合開始数十秒でまさかのKO負け!

…かと思いきや、疑惑の裁定で、なぜか薄氷の勝利を得る。

この日から高田の輝きは薄れ始め、
俺は船木に夢中になった。

翌年、同じく8月13日、横浜アリーナ。
再び船木との決着戦に挑んだ高田。

しかし船木の猛攻の前にあえなく敗北。
ボコボコになった無惨な顔が強く印象に残った。

暑くて哀しい夜だった。
船木が残酷に見えた。
高田の時代は終わったと思った。

その年末、UWFはまさかの内部分裂で、再び崩壊。
絶望的な気分に陥る。1990年だった。

俺は学校を中退し、その日暮らし的なバイト生活をしていた。
将来は何も見えず、鬱々とした日々を送っていた。

1991年春、UWFは3派に分かれ、それぞれ再出発する。

一人ぼっちの旗揚げとなった前田の「リングス」、
藤原、船木、鈴木のカール・ゴッチ直系の「藤原組」、
そしてその他大勢といった印象だった
高田の「UWFインターナショナル」。

俺はリングスと藤原組は支持したものの、
ノンポリで従来のプロレスに対しても妥協的に見えた
Uインターへは批判的な見方をしていた。

この頃は、まさかその翌年に
高田の真の黄金時代がやってくるなんて
夢にも思わなかった。

(長くなりそうなので、つづく)




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