タイトル■突刊マット
書き手 ■谷田俊太郎


マット界(プロレス・格闘技界)に関する
読み物企画です。書き手も内容もいろいろ!

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<第19回 2002.11.24> 
UWFという名の青春・高田延彦クロニクル(後編)


高田延彦というプロレスラーの
個人の魅力に初めて気がついたのは
1991年12月22日だったかもしれない。

それまでは“前田の弟分”“UWFの高田”というイメージが強くて、
高田という独立した個人の魅力は見えにくかった。

この日の、元ボクシング世界チャンピオン、トレバ−・バービック戦は、
バービックの戦意喪失、試合放棄という消化不良の結果で
両国国技館は大ブーイングに包まれ、騒然としていた。

しかし、リング上の高田は
毅然とした表情を浮かべ、不思議なほどのオーラを発していた。
それを見た時に、高田に対して初めて
ある種の独立した“カリスマ性”を感じた。

これは先日発売された2冊の本で初めて明かされた事実だけれど、
実は高田はこの日、肋骨が折れていて、
折れた骨の先が肺にささったら死ぬ、と言われていたらしい。

けれどもUインターという団体の初めてのビッグマッチ、
自分は絶対に欠場することはできないという責任感だけで
ドクターストップを振り切って高田は出場したのだそうだ。

結果はともかく、やれることはやった。
誰に文句を言われる筋合いもない。
そう思っていたからこそ、高田はあれだけ毅然としていたのだろう。
これは今の高田にも通じる最大の魅力だ。

この日から、高田延彦の新しい物語が幕を開ける。
思い出してみると、この12月は
俺が日雇いフリーター生活をやめて会社に入った月だった。
自分自身も人生の新しいステージに突入していた。

翌年の1992年は、高田の20数年のキャリアの中で
最も輝いていた年だった。
ゲーリー・オブライトを倒して世界チャンピオンになり、
この頃は最強と思われていた元横綱・北尾光司も撃破。

UWFインターという団体は、
新日本プロレスの黄金時代のような輝きを放ち、
高田は、かつてのアントニオ猪木のように
プロレス界で最も強くて美しい存在だった。

“今、世界で一番強いのは、高田!”
俺たちは無邪気に、そして本気でそう思っていた。

でも、そんなに風に思えていた時期は短かった。

Uインターという団体は、一億円トーナメント、
前田との確執、告訴騒動、新日本への挑発、グレイシーへの挑戦…、
と数々のスキャンダラスな話題をふりまいていく。

それは刺激的ではあったけれど、不愉快な感情をまき散らすものでもあった。
また、その団体の長でありながら、なぜか高田の意志は見えてこなかった。
自分の意志がなく、周囲の人間の意のままに操られるロボットのように見えた。

やがて唐突な引退宣言、俳優転向の噂、参院選出馬などもあり、
高田は最も不快に思える存在になっていってしまう。

そんな多くのファンの声を代弁したのが、田村潔司の
“高田さん、僕と真剣勝負してください”発言だったような気がする。

1995年、経営のいきづまったUインターは、
新日本プロレスとの全面対抗戦に突入を決断。
否定していた旧態のプロレスと禁断の交わりをすることになる。

だが、高田は武藤敬司にまさかのギブアップ負け。
我々は、あってはならない現実を目にあたりにすることになる。

消えかけてはいたけれど、それでも“UWF”という3文字に
持っていた幻想と思い入れは木っ端みじんに打ち砕かれた。
かつてないほど、俺はドン底まで落ち込んだ。

その後も高田は迷走を続け、ますます支持を失っていく。

そして運命の日がやってくる。1997年10月11日、東京ドーム。
世界最強と言われる、ヒクソン・グレイシーとの一騎討ち。

高田に対して失望し続けてきた数年だったけれど、
それでも、ありったけの好意的な思いをかき集めて、
俺たちは心の底から、高田の勝利を祈った。

“プロレスこそ世界最強の格闘技”
そんな幻想がまだ残っていた最後の時期だった。

しかし、たった4分でその思いは砕け散った。
あっけないほど簡単に高田は敗れ去った。

言葉を失った。武藤戦でドン底まで落ち込んだはずだったけれど、
もっと深いドン底があったのだ。すべてが終わったと思った。

高田は“A級戦犯”とマスコミからもファンからも徹底的に叩かれた。
俺は、ヒクソンへのリベンジを前田日明に託した。
プロレス界最後の砦は前田なんだと、思いこみたかった。

だが前田vsヒクソンは現実化に向かったものの、なぜか消滅。
ヒクソン戦は、高田に奪われた。また俺は高田を憎んだ。

1998年10月11日、東京ドーム、高田はヒクソンとの再戦が決定。
憎みはしたけれど、もう一度だけ高田に期待してみようと思った。

期待と失望。今振り返ってみると
高田への思いはずっとこの繰り返しだった。

高田はヒクソンに善戦したものの、再び敗れる。
ドン底に終わりはなかった。底なし沼だ。

その後も、マーク・ケアー、ホイス・グレイシー、イゴール・ボブチャンチン…
高田はその時期の最も強いと思われる選手への挑戦と敗北を繰り返す。
俺もまた懲りずに期待と失望の反復運動を繰り返す。

だが、それと反比例して、PRIDEという場は
どんどん大きくなっていき、ガチンコのメジャー化という
かつては夢でしかなかったことが現実化していった。
すべては高田がヒクソンと戦ったことに端を発していたのだ。

今になって思う。
高田ほど挑戦を繰り返してしてきたプロレスラーは他にいなかった。
たしかに結果は出せなかった。

しかし、世界一強い奴と戦いたい、という
プロレスラーとしては極めて健康的でまっとうな本能に従って、
それを現実として行ってきたプロレスラーは他に誰がいる?

ヒクソンに負けたことで、すべてを失って身軽になった高田は、
誰もが何かを言い訳にして逃げたくなるような相手に挑み続けた。
守るべきものを失ったからこそ、誰より強い攻撃性を得られたのだ。

プロレスラーは最強でなければならない、
そんな幻想でしかなくなってきてしまった思いを信じて、
愚直なチャレンジし続けた唯一のプロレスラー
それが高田延彦だった。

昨年11月のミルコ・クロコップ戦がその象徴だ。
この試合もやはり結果は出せなかった。
高田には再び大ブーイングが送られた。

だが、この試合をよく見直してみてほしい。
高田は骨折していたにもかかわらず、攻撃の意志が失われた瞬間は
まったくなかった。常にプロレスラーの誇りは失ってなかった。
自分のできることをすべて絞り出してミルコに挑んでいた。
個人的にはこの試合こそが、高田のベストバウトだと思ってる。

言っちゃ悪いけど、
無策でミルコに挑み、たった数秒で敗れたにもかかわらず
ニヤニヤした表情を浮かべていた、どこぞのチャンピオンとは
プロレスラーとしての“プライド”が比較にならない。

たしかにプロは結果がすべてかもしれない。
しかし、一人の人間として俺は高田延彦という生きざまに感動してしまう。

無謀ともいえるチャレンジを恐れずに続けてきた誇り高い生き方は、
男としてかっこいいよ、もう単純に。

そしてPRIDEという場を作ってきたことも含めて、
UWFの夢と理念を体現化してきたのは
実は高田だったんだなぁと今になって思える。

さて、ざっと振り返ってきたけれど、
いよいよ来てしまった。
今夜が高田のラストマッチ。田村潔司戦。

こうしてUWFへの忘れていた気持を思い出させてくれる、
俺たち古くからのファンにとって
最高のマッチメイクをしてくれたことだけで、
正直もう結果はどうでもいい。

願わくば、終わりは始まり、と思える
新しいドラマの始まりになってほしいだけだ。

高田が、田村が、桜庭が、見せてくれる物語を
ただそのままに受け止めたい。

巨大な期待と失望の繰り返しを続けてきた
我々の“UWF”という青春の終着駅には何が待っているのか?

こんなに興奮できるリアルでドラマティックなものは他にはない。
それを味わえるだけでもプロレスファンでよかったと思う。

今はもうただドキドキして待つだけである。




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