<特別付録コラム>
「∀ガンダム」と対極をなす作品
「機動戦士Vガンダム」とは!?
TEXT=谷田俊太郎
「∀ガンダム」はポジティブあるいは希望の物語でしたが、
富野監督がその前に作ったガンダム作品「Vガンダム」は、
その対極をなす、ネガティブあるいは絶望の物語でした。
「∀ガンダム」を見た後に、「Vガンダム」を見ると、
そのあまりの落差に驚く人もいるでしょう。
(逆の順番でもまた然りですが)
しかし、個人的には
「Vガンダム」「ブレンパワード」「∀ガンダム」は、
実は三部作といってもいい、関連性を感じます。
そこで、以前に「ドラゴンヘッド・インスパイア」と
いう単行本に書いた「Vガンダム」に関する紹介文を
少々手直して、ここにアップしておきます。
「∀」同様にいまだに正しい評価を受けていない
「Vガンダム」ですが、富野監督の数ある作品の
中でも最も重要な一本だったと僕は思います。
完全にネタバレした内容ですので、これから白紙の
状態で「Vガンダム」を見たい人は読まないでください。
<機動戦士Vガンダム:作品解説>
93年の4月から翌年3月までの1年間、全52話が放送された。
宇宙世紀0153、人類が宇宙に移民することが当たり前になった
時代。サイド2はザンスカール帝国を名乗り、地球圏制覇に動き
始めた。だがこれに対抗する組織リガ・ミリティアはVガンダム
を建造して戦いを挑む。そしてカサレリアに住む少年ウッソは、
ふとしたことから両者の戦いに巻き込まれ、やがてVガンダムの
パイロットとして戦争の渦中に身を置くことになるが…。
番組前半の戦闘シーンはガンダム史上でも出色の出来で魅力的だ
ったが、後半のエグくなりまくる人間ドラマが圧倒的に強烈。
最もカルトなガンダム。
1998年発行「ドラゴンヘッド・インスパイア」(フットワーク出版)より
過酷!残酷!冷酷!
エスカレートするリアル!
絶望の果てに見えたものは?
エヴァはVガンダムの子供?ガンダム生誕20周年を記念して、パシフィコ横浜で
「ガンダム・ビッグバン宣言」なるイベントが開催された。
そのゲストとして招かれていた池田貴族氏がこんな発言をした。「Vガンダムは、もっと正しく評価されるべき作品ですよ」
まったく同じ思いを抱き続けてきた者として、
心から拍手を送りたくなる発言だった。そうなのだ。『Vガンダム』は、
ある意味で富野由悠季監督の集大成といってもいい、
刺激的な作品なのだが、放映中もほとんど話題にもならず、
“ファースト・ガンダム”のように放映後に
ブレイクするようなこともなかった。ファンの間でも、メディアにおいても、
黙殺されてきたような印象の作品である。この作品を高く評価する者としては忸怩たる思いであった。
エヴァ・ブーム最高潮の時にこんな発言もあったのになあ。小黒「その後に『逆襲のシャア』というのがあるんですよ。
エヴァはこれと『機動戦士Vガンダム』の子だと僕は思ってるんです」
篠原「どういう意味ですか?」
小黒「監督の本音と作品の距離の近さ、真剣さ、厭世的なムード、
それから人間の生々しいところに肉薄しようっていうところかな」(中略)
篠原「するとエヴァの“父と子”のテーマは?もしかすると…」
小黒「それはVガンダムから。これは直結してると思います。
もちろん庵野さん的に咀嚼してるけど」
※ 小黒
評論家・小黒祐一郎氏。アニメ関係の企画・編集から作品設定までこなす。
エヴァンゲリオンのLDライナーや劇場パンフも手がける。※篠原
篠原一。現役女子大生にて作家。「壊音 KAI-ON」で第77回文学界新人賞受賞。
その後の作品に「誰がこまどり殺したの」がある。
スタジオ・ボイスのエヴァゲリオン特集号の対談の一部である。
こういう意見もあったのだから、
エヴァ景気に便乗して再注目されるようになっても良さそうなものだったが、
そういった気運は皆無であった。
もったいない話だ。イデオンが、エヴァの元ネタ的な意味でかなり
注目されるようになったのと大違いだ。『Vガンダム』は、人間の業を描くことに於いては
他の追随を許さない富野監督の作品歴の中でも、
特筆すべき物語だったのに。
ギロチンの衝撃!
「Vガンダムの主人公のウッソは、
これまでのアムロやカミーユといった暗く不健康な主人公に比べて、
明るく健康的な少年だった。そのウッソが憧れる“隣のお姉さん”的存在のカテジナさんも、
セイラさん路線の正当派ヒロインを思わせた。それやこれやで初期の『Vガンダム』は、
富野監督お得意の難解&シリアスまっしぐら路線の作風を改めた、
低年齢層向きの作品かのように見えていた。だが、話が進むにつれ、
その認識が大間違いであったことが明らかになっていく。それにまず気がつかされるのは「ギロチン」の登場によってである。
「ギロチン」とは、あのギロチンである。
フランス革命で罪人の処刑に使われていた、
首を斬り落とす拷問器具のことである。ザンスカール軍は敵対する組織の人間はもちろん、
作戦に失敗した味方の将校まで、ギロチンによる公開処刑を行った。
これはかなり衝撃的だった。最初はなぜそんなアナクロなアイテムを
作品に持ち出したのか、その意図が理解できなかったが、
すぐに理解させられた。
見た目の残酷さがケタ違いなのだ。直接的な殺人方法だけに、モビルスーツの戦いで
人が死ぬのとは痛みを感じさせるリアルさが違うのだ。
それはグロテスクな狂気を感じさせた。以前に明治大学で開催されていた「拷問展」で
本物のギロチンを見たことがあるが、
刃の巨大さを見るだけでもゾッとする代物だった。そんなものを一応子供向けの番組に平然と登場させるところが、
この監督の恐ろしいところである。「戦争の残酷さ、実際の痛みを子供に
もっとリアルに感じさせなければならない」。何年か前に監督は雑誌のインタビューでこう語っていた。
それはわかるが、その方法がギロチンという発想が物凄い。
当然ギロチンはその後もたびたび登場し、
物語の最重要アイテムのひとつとなっていく。
巨大コンダラで大地をきれいに!
だが、それですら前振りに過ぎなかった。
「地球クリーン作戦」の登場である。富野監督の「魂を重力に引かれた人々」
(つまり地球にしがみついて住んでる人=旧来の価値をひきずってる人)
に対する憎悪は半端じゃないらしく、
これまでのガンダムでも様々な殺戮方法があみだされてきた。『Zガンダム』ではコロニーに対する毒ガス攻撃。
要するに密閉された空間であるスペースコロニーに
毒ガスを流し込み皆殺しにするというもの。『逆襲のシャア』では隕石落とし。
その名の通り、地球に隕石を落下させ地球を寒冷化させるというもの。『F91』ではバグによる攻撃。バグというのは、
円盤に凶器が付いた遠隔操作できる殺人マシンで、
要するにそれをコロニーにバンバン放り込んで皆殺しにするというもの。そしてその極みといっていいのが、「地球クリーン作戦」である。
別名「巨大ローラー作戦」とも言う。これは巨大戦艦に巨大ローラー(タイヤ)を付けて走らせ
地球を地ならしする、というバカげた(?)作戦だった。戦艦というより、それは巨大なバイクに近いものだったが、
それが人や街を次々と踏み潰して行くのである。超巨大なコンダラ(正式名称不明。グランドを平らにする、
巨人の星のオープニングでおなじみのあれ)で
ビルや家を潰して地ならししていく様を想像して欲しい。
冗談としか思えない発想だが、
それを大真面目に映像化したのが『Vガンダム』なのである。あまりに単純なだけにこのインパクトは強烈だった。
しかも、この巨大タイヤ付き戦艦を爆破すると
核爆発が起きてしまうため、
地球を守る立場のウッソ達ガンダム・チームは思うように攻撃できない、
という設定まで御丁寧になされていた。八方塞がりである。ただもう、その圧倒的な破壊活動に対して
手をこまねいて見ているしかない強烈なジレンマ。
さらにその戦艦には、ウッソの母親とガールフレンドが乗っており、
控えめな攻撃をするしか手はなく、
そうしている間にも、人や街が次々と踏み潰されていくのだ。これだけでも息が苦しくなるような展開だが、
もっとやりきれない展開が待っていた。その攻防の中で、
独断行動するモビルスーツに人質として捕らわれた母親が、
主人公ウッソの目の前で首を吹っ飛ばされ死ぬのだ。にもかかわらず、その直後に軍の上層部によって
突如休戦協定が結ばれてしまう。
復讐することすら許されないのだ。
この残酷さ!彼が母の遺品であるヘルメット(その中には母の首が…)
を抱いたまま、やりきれなさに号泣する場面は、
見ていて体が震えた。恥ずかしながら嗚咽しながら泣いた。
どうしようもなく、やりきれないシーンだった。
過剰に過酷で辛い状況に対して、どうすることもできない無力感。
果てしなく続く最悪な状況、だがそれに対して抗う術は皆無。
泣き叫んだところで、誰も助けてはくれない真の孤独。
絶望そのものである。
空前絶後のイヤな女!
だが、物語は更に救いのない方向へと進んでいくのである。
前述した主人公ウッソの憧れる女性カテジナさんは、
物語の中盤でザンスカールの司令官とねんごろになり
敵側へと寝返っているのだが、それだけならまだしも、
ひたすらその人間性を変質させていく。男によって変えられたのか?主義に染まったのか?
それともコンプレックスの暴走か?
ただ女の本能に忠実になっただけなのか?
ただひとつ言えることは、狂気の道へまっしぐら!であった。ドラマ史上最も嫌な女だったと断言しても差し支えないほど、
彼女は異様な変貌ぶりを視聴者に見せつける。かつて自分に憧れを持っていた少年に、聞くに耐えない罵声を浴びせ、
殺意をも抱くようになる彼女。
「マジギレの女」(というAV作品があった)そのものである。彼女は、PTAのオバサンでなくとも
「子供が見てるんだから困ります!」と新聞に投書したくなるほど、
生々しく女の生理・本音を吐き出し続けていく。
そして最終的には発狂し、自我崩壊を起こす。そして物語はそこで終了し、後には何も残らなかった…。
なんじゃそらーー!
そう叫びたくなる衝撃的な結末だった。この番組は結局、視聴者を女性不信にさせることを
目的に作ったのではないか?と
本気で疑いたくなるような救いのないラストだった。富野監督の“人の在り方”を問うドラマは
今後どこまでエスカレートしていくのだろうか??いや、そうではなくて現代社会をリアルにハードに描くと、
こういう形にならざるを得ないのだろうか?ともかくこれまでの作品ですら見たことないほど、
凄まじくリアルで過酷な物語だった。救いのない状況を描きつづけた富野監督。
今後、絶望以外の何かが見えてくる可能性は果たしてあるのだろうか?
これからの作品も、ちょっぴり怯えつつ、見守っていきたい。
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