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がま口弘美の日記 最新 7 回分

2006年8月28日(月)  

どうにもこうにもなりませぬ故、ブログに引越しを決意。ホームページビルダーを使い倒して、すりきらせてしまった模様です。4年前の8月から書いていますので、全部の引越しにはかなりの時間がかかるらしい…。あんまり書くとまた消えそうなので、お後はブログへ飛んで飛んで飛んで飛んでいつまで続くでしょうか?
http://gamaguchi-jyuku.seesaa.net/

2006年8月27日(日)  

もう一回書いてみましょ。容量のオーバーってことあるのかしら。

2006年8月27日(日)  

日記にウィルス発生?
書いても書いても消されます。

2006年8月25日(金)  

2006年8月22日(火)  

2006年8月21日(月)  

ただいまあ。

@8月16日
 中部国際空港9時40分集合。なんと、青年が発熱の為、朝キャンセルの連絡あり。残念!気の毒!可哀相!10人で出発。11:40発、ソウル空港13:40着。7時間の乗継待ち時間を、皆でモンゴル語の勉強と折り紙の練習。サランさんの夫さん(大学助手)がにわかモンゴル語先生。東音研メンバーは、元NHKアナ祖父と祖母と中3の孫、やはり元NHKアナで高校や大学の音声表現の教授や講師、元高校の校長先生、合唱団指揮者や元映画助監督や私という、まことに温厚で歌好きなメンバーが揃って、笑い声の絶えない旅の始まり始まり〜。19:50出発、23:15ウランバートル着。先に到着していたサランさんが色々な人と迎えてくれました。言葉がさっぱり分からないので滅茶苦茶の状態で24:00ホテル着。

A8月17日
9:30孤児院学校訪問。両親、あるいはどちらかが亡くなっていて、学費が足りない子供達が、羊の毛からフェルトの土産品を作って、自分達で稼いでいる工房のような所に行きました。4畳半くらいの穴倉のような所です。7歳くらいから13歳くらいまで、12〜3人いたでしょうか。予めお願いしておいた通り、1人1人歌や朗読を披露してくれました。何と全員で日本語で「ふるさと」を歌ってくれたのにはびっくり。感激でした。早速私達も合唱団に早変わり。同じ「ふるさと」を合唱しました。

 にわか審査員になって、審査結果を発表、表彰。そして全員に日本から持って行った文房具や日本の子ども達が書いた絵などをプレゼントしました。そして折り紙で皆で鶴を指導。子供達は、目を輝かせ、熱中しておっていました。テレビ局も来て撮影され、ニュースに2度ほど再放送までして報道されたそうです。

昼食後はいよいよ北上してセレング県のフンドル村に向かいました。村と言っても10世帯のゲルのある草原で、三菱のランドクルーザー2台に分乗出発。何が何だか分からない人が同乗しているのですが、だんだん、それは、日本へ留学中のアムラさんとそのお兄さんと、奥さんと、先程の学校の先生が1人付き添って下さっているのだと分かりました。私たちはアムラさんの実家に泊めていただくということをやっと理解しました。

 定員オーバーもなんのその、それは中国で慣れっこの私は大丈夫なのですが、とにかく私は小さいので、率先して運転席と助手席の間の隙間に入り込みました。そうして、ダースで買ったペットポトルの上に寝袋をおいた椅子に座ったまま、でこぼこ道を延々10時間、北を目指してひた走ることになろうとは…誰一人、夢にも思わなかっただろうな。
 
 深夜11:05到着。全員ヨレヨレのまま、すぐ用意して下さった夕食を戴いて、わざわざ建ててくださったゲル2つに移動。ちょっと離れた山の上にありました。満天の星!こんに美しい星空は、砂漠のテントで見て以来です。「来て良かったね!」と、まず、みんなの第一声でした。

<モンゴル日記のつづき>

 後ちょっと…と言われ、言われ、その「ちょっと」は5時間の予定が10時間という、過酷なオーバータイム。時間の観念が、日本とは全く違うのです。途中、モンゴル第二の都市?ダルハンのバサールで野菜などの食料を仕入れました。アムラさんの留守宅はこの町にあるとのことで、ここからの、いつもは留学中のアムラさんとは別れている新妻が同行者になりました。

 ウランフーというアムラさんのお兄さんはこの町で文化省の仕事をしているというなかなか芸達者な賑やかな方です。皆とロシア民謡を歌ったり、言葉が通じないままの滅茶苦茶お喋りしたり、ロシアの軍隊にいた事があるという運転手さんを眠らせないよう、私は必死だったのですが、あとで、「まあちょっと静かにしてまえんけーな」って後ろで言ってたとか、「坂東さんの元気にはまいったでかんわ」とひょうきん者のO元高校校長さんや元高校国語教師、現大学講師のYさんの言で爆笑爆笑の凸凹道路の行程でした。

B8月18日
ゲルは地面に絨毯を敷いただけ。つまり床面積の円半分は草原状態。家族づれのOさん一家とサラン夫婦と私の6人が寝袋にくるまって並んで寝ました。明け方3時頃だったか、私達のゲルの周りを動物の唸り声がグルグル回っています。明らかに恐ろしい怒りの吠え方で5~6頭はいる感じ。端っこに寝ていた私は『狼だ…私の肉の匂いが美味しいのだろうか…私の人生はここで終わるのか…』と思っているとーーー
 隣のサラン夫婦がヒソヒソ話をしだして、夫さんが懐中電灯を照らしたら、サランが「灯りはやめて!」と悲痛なささやきの叫び声。いよいよ恐くなってきました。遠くで車の走る音。やっと動物が少し遠のいたら、隣のゲルの誰かがトイレへ行く話し声…『ここで騒いだってどうなるものでもない。寝る!』と思っても朝は早々と目が覚めてしまいました。

 ぐるりと散歩。見渡す限り素晴らしい緑の草原の丘。360度草原。内モンゴルで見た草原より濃密で起伏のある景色。遠くが地平線ではなく、林とその向こうは青々とした山並みでとても美しい景色です。10世帯の村と言っても、隣のゲルまではかなりの距離。トイレは適当な距離に和紙で作った大きな行灯のように囲ってありましたが、ただ穴があって木が渡してあるだけでした。私はそういうのより、ちょっと遠くまで歩いて、適当にしゃがんで…。だって、羊、山羊、牛、馬、のおしっこや糞はそこらじゅうに自由に落ちてるんだもん。つまり全ての地面はトイレであり、道路です。

 1台のランドクルーザーが丘を登って私達のゲルに来ました。ボンネットには狼の死体が乗せてあります! 3~4人の男達が自慢をしにきたのでした。つまり夕べは本当に狼の狩猟があって、ライフル銃で撃ち殺したのでした。ギャー! 「ワシはハンターで狼は○ドルで売れるし、この肉は上手いよ」と、屈強そうな男がニコニコ英語で話してくれました。確かに顔が犬ではなく、長くて野性的。腹を撃たれたように血に染まっていました。

 朝食はパンとチーズ、絞りたての牛乳。馬に乗ったり、乳絞りをしたり、羊を捌いているところや料理中を見学したり(殺すところはサランさんが勝手に、日本の皆は見たら気持ち悪がって食べられなくなるからと判断して、見せられず、「それが見たかったのにー!」と、皆がっかり)。時間がゆっくり好き放題に流れていきます。名古屋を出がけに、Kさんから預かった、Kさんのお嬢さんが作られた、ビーズの指輪を10個くらい手にはめて、仕事中の女性達に見せて、好きなものをとってもらいました。皆、綺麗な指輪に、それはそれは喜んでいました。

 午後、隣村から(と、言っても車で1時間半!)踊り手と馬頭琴を弾く少年2人、歌を歌う男性と少女が綺麗な民族衣装を着て現れて、青空国際交流コンサートが始まりました。サランの通訳で、素朴な心のこもった歌や演奏や踊りの合間に私たちの出し物も交互にはさみます。団長のTさんがちゃんと「スーホーの白い馬」を皆で朗読できるようにプリントしてくださっていたので、リレーで朗読したのですが、「ひろーい草原で…」なんて、本当に実感がこもりました。
 
 歌は指揮者のSさんが色々楽譜をコピーしてくれていましたので、又「ふるさと」「幸せなら手をたたこう」「見上げてごらん夜の星を」などを合唱。孤児院学校の先生が乗っていた車のメンバー達は、車の中でモンゴルの歌を覚えたらしく、それをモンゴル語で披露したのは圧巻でした。伴奏は、いつのまにか、ウランフーがヤマハのキーボードを発電機を唸らせながら弾いていました。

 大受けだったのは、最後の「只今から、モンゴル相撲をご覧に入れます」。見物していた2歳の坊や(隣のゲルの家の子らしい)がパパと相撲を見せてくれたのですが、睨みあったまま鼻を腕でこすって、お尻をパンパンと手でたたいて、それからパパを投げ飛ばすのです。私の人生で、今まで見たどんなアトラクションより素晴しく、可愛らしく、その場にいた誰もが、涙が出そうに笑いこけました。日本の大相撲は、太陽発電とでっかいアンテナでテレビでちゃんと楽しんでいるのでした。

 馬の調教や乗ったまま落とした鞭を拾ったりの芸や投げ縄の芸を皆で鑑賞。草原の時間は、本当に何の縛りも決まりもなく、ひたすら自由に流れていきます。ちょっと雨が降って避難した後、ゲルを出たら、虹!真ん中は切れていましたが、とても太くて、虹が出ている所と入っていく所が180度の地平にあるのは初めて見ました。

 夜疲れて寝ようとしていたら、雨が上がったから、ファイヤーすると言われ、丸太がたくさん三角に立てかけられている所へ、やっと暗くなり始める夜9時10分から又集合(ロシア国境がすぐそこという北の果て。なかなか陽が沈まない)。カーステレオの音楽と発電機でのキーボード演奏でダンスが始まりました。これだけはヘトヘトになって、途中でゲルに戻りました。

 1日、狼の話題でもちきりだったのですが、実は「ここの家の犬が発情期で、一匹のメス犬を村の犬達が追いかけて、本命の雄犬が、俺の女に手を出すなと懸命におっぱらっていたんだって」という事でした。たまたまタイムリーに狼を林で撃ちとった人が自慢しに見せにきたので、すごい話になったというオチがついて、これも大爆笑に終わりました。

C8月19日
 今朝はウランバートルへ戻らねばなりません。朝5時半に起床と約束したので、皆、真面目に集合。でも、夕べのファイヤーで疲れたのか、モンゴルの時間感覚からか、運転手さんたちがまだ…。一生懸命朝食を作ってくださる女性達。荷物を車に積み上げてくれる男性達。待っている間、大黒柱のお父さんがストーブに火をつけてくれました。夜はダウンコートがちょうどいいほど、昼間は半そでTシャツでOKの寒暖の差はきつく、風邪の引き始めの症状の人あり。羊の肉やチーズなど、普段の食べ物より油の多さが原因か、おなかの調子の?の人達が出る。なーんともないのは、指揮者のSさんと私ぐらい。いつもテーブルに出されていた手作りのチーズを頼んで、お土産用にいっぱい分けていただきました。

 いよいよ草原のアムラ一家の皆さんにお別れ。夏休みで帰ったけれど、今日がお別れになって、日本に戻るアムラさんにお母さんが、茶碗にいっぱいの馬乳酒を天と地と彼にかけてお別れのキスをしました。アムラさん、30歳を過ぎていますが、すーっと羊の柵のところへ行って、後姿で涙をぬぐっていました。こんなシーン、日本の親子にはなかなかないと思うけど、どうしてかなあ。人の繋がりが大草原の中で、素朴で堅固なんだよね。

 私達の車にもお酒をかけてもらって、皆手を振ってお別れ。来た時は真っ暗だったので分からなかった、でもやっぱり草原あるのみの素晴らしい緑の景色を見ながら一路ウランバートルへ。建国800年記念の騎馬隊による歴史スペクタクルショーを見る為、中央県セレグレン郡トゥグリグ村(祝祭の村)へ急がねば!…と思って飛ばしていると、途中で昨夜の雨で増水して橋が渡れない! しかたなく大回りをして更に飛ばしていると、ピシッとすごい破裂音。パンク!アーメンナンマイダーアンマリダー。私達の車の運転手は、 旭鷲山の従兄弟でこの車は旭鷲山が買ってくれたのだというのに!
 
 スペアタイヤを外したけれど、今度は空気抜け…。目の効くサランが遠くのゲルに車が止まっているので、助けてくれるのではないかと提案。アムラさんと 旭鷲山の従兄弟は遥かなゲルに向かってテクテクテクテクテク点になって行く。皆は誰も騒がず、落ち着いて草原の山に上って見晴らしを楽しんだり、遠くで○○。○をしたり… 。
 あ、3人で来るよ!助っ人だあ!自転車の空気入れを持って自転車に乗って現れた月光仮面は10代と思われる真っ黒に日焼けした青年でした。一生懸命タイヤに空気を入れてくれました…と、そこへ現れたはゴレンジャー!先頭を行っていた車が気がついて戻ってきてくれたのでした。やれやれ。その車のスペアタイヤを取り付けて完成!従兄弟運転手の額は汗まみれ。私はそーっとウェットティッシュを渡してあげました。

 さあ、飛ばすぞーっ!コロンダローズが歌い出したよね「♪いっなっかあのバスはーオンボロクルマータイヤあは傷だらけえ、まあどはしまらないー♪それでもお客さん、我慢をしているよ、それえは私いが美人だかあらっ♪」爆笑爆笑。ダルハン到着。ここでサンドイッチやジュースを仕入れ、アムラ兄弟や運転手さんたちとお別れして、小型バスに乗り換え、やっと全員が一つのバスに乗って移動。

 大幅な遅滞となり、サランが、今日は騎馬隊の見学を止めて、このままウランバートルでホテルをとって、休もう。そして放送局を見学して夕食するというスケジュールの変更を提案しました。皆、素直にOK。バスの中から携帯で連絡、結局孤児学校の先生達がホテルを予約してくれ、FM放送局の訪問許可もとってくれたのでした。実は、国営ラジオ局に友人のアジンさんを訪ねて、見学もOKを取っていたのでしたが、なんと、突然の北京出張でアジンと連絡とれず、私達は放送局見学を諦めたのでした。

 やっぱり10時間かけて、ホテル着。さーあ。風呂へ入ってさっぱりするぞう!と、皆部屋にドタドタ入る。と、あっちこっちから「お湯がでなーい」「トイレの水が流れなーい」「水がきいろだーあ」の困難状況発生。ついに72歳のOさんの奥様68?が夕食もFM局も行かないと宣言。そーよねー。本当にきついスケジュールだもん。

 私は蕪湖時代に鍛えぬいた身。水でも平気でシャワーを浴びますし、大抵のことには驚きませぬ。アッと言う間にシャンプーまでしてサッパリと集合。女性の相棒がいないので、1部屋1人ですから、皆さんより楽をさせて貰って申し訳ないくらい。

 24時間オンエアーのFM局訪問。ビルは新しいのか古いのかよく分からない…。巨大だけど中身が何かねえ…ここ十数年、私がよく見てきた光景。突然だったけれど、責任者の豊満な体格の若い女性が堂々と対応してくれました。生放送中に小さなスタジオに押し入り、「あ、ちょっとお静かに」。カフをおろしたら又説明を聞く。
 アナウンサーはロシア人の可愛い女性でコンピューターのマウスを右手、左手に電話、真ん中にマイクで、落ち着いて放送していました。リスナーは若者でちょっと教養のある層だという説明でした。Tさんが、代表で京都で買っていらした源氏物語の屏風や相撲の絵など、アムラさんの家にも贈ったものを記念に渡しているのを見て、『本当は国営放送局でアジンに会ってプレゼントするはずのものだったのに…』と、やっぱりちょっと悲しくなりました。

 20分ほどもいたかしら。早速久々のレストランへ。やっぱり日没が遅いので、8時近くでも昼間の明るさ。途中で市内中心のスフバートル広場を見たら皆バスを降りたくなってしまって、散歩。建国800年祭に間に合わず、国会議事堂の入り口の巨大なチンギスハーン像が制作工事中。モスクワの赤の広場、北京の天安門広場の小型版の広場から周りのビルを見ると、 紋付袴で何やらを持った朝青龍の看板がビルの屋上から地上まで巨大写真で風に吹かれていました。まるでチンギスハーンの再来扱いじゃん。

 レストランには孤児学校の先生達と一番小さかった坊やも同行。どうしてサランお姉ちゃんに会いたいと言ってついてきたのだって。牛肉ステーキのコースを注文。入国以来、初めてのテーブルでのディナーです。先生がテレビ局に頼み込んで、オンエアーされたニュースをDVDにして分けてくださるとのこと。
 
 又、モンゴルの児童憲章を写真で現したものを色々プレゼントして下さった。子どもの権利を守って大切にしているぞというモンゴル政府のアッピールです。又、私達の同行の元高校校長は退職後は幼稚園の園長先生を3月までされていて、その園児達の絵を沢山プレゼントされたので、園に飾る孤児学校の子供達の絵も戴く手配をしてあったので、受け取りました。良い草の根交流になったと思います。

 フンドル村まで同行してくれた先生とはここでお別れ。挨拶は「前に接した日本の中年女性は色々文句を言われ、厳しかったので、日本人に対してそういうイメージを持っていたのに、今回の皆さんは、何があってもニコニコしてとても優しく、ずっと、どうしてこんなに優しい人達がいるのかと不思議でたまらなかった。」という内容でした。そうです。旅のメンバーの全て、申し分のない人格者達(私は多少やかましく元気すぎて、人を疲れさせる難点ありか?)。私も同行の先輩の皆さんに日本人として、心からの誇りと尊敬を感じ、感謝したのでした。そして私達の旅をサポートして下さった孤児学校の先生はじめ、モンゴルの皆さんにも感謝。

D8月20日
 今日こそ建国800年祭の騎馬隊のショー。会場のウンドルドブ(チンギスハン村)へは車で1時間くらい。その前に10時開館の自然歴史博物館へ。館内にはモンゴルの様々な鉱物資源、植物標本、動物標本、恐竜の骨格標本や卵の化石などの歴史資料が展示してあり、恐竜タルボザウルスの骨格標本は目玉で圧巻でした。

 入館する前に、民族博物館の方を見学したいと言う人と11人の中で2派できました。時間的物理的に全員一緒が望ましいということになって、どっちにするか…そこで「地球の歩き方」をサッと取り出した、長老?72歳のO元チーフアナが、まるでラジオニュースみたいに両者の解説文朗読。即座に「恐竜を見に行こう!」と全員一致。すごい朗読技術!

 タルボザウルスの骨格はほとんど完璧に保存されていました。万博のマンモスの頭って何だったの?って感じ。こんなのがノッシノッシ大地を歩いていた時代があっても、死に絶えて、それでも地球は回っている。進化か退化か。

 ノミンデパートで買い物。お金の計算がさっぱり分からない。私は日本円でだってそうなのだから、兄と甥に頼まれたものをまず探してホッ。フェルト製品が圧巻でした。ここで又サランはバスの中で食べる昼食用のハンバーグやヨーグルトを買い込んでくれました。サランさんだってゆっくり個人的買い物をしたいでしょうに。

 1時間ほどバスは緑の草原を走り、ウランバートル郊外のひろーーーーーーーーい草原の真っ只中に作られた会場到着。御土産屋さんやレストランやチンギスハン時代のゲル馬車や陣地、などがミニミニ万博のように並んでいて、その向こうは巨大な草原劇場。今回の800年祭の行事の大会委員長は勿論モンゴル国首相だけど、名誉顧問 海部俊樹、特別顧問 堺屋太一、顧問や運営委員に電通や伊藤忠商事 HISなどが名を連ね、トイレも水洗で綺麗に完備。何となく日本的で入口の送迎からして日本語。イベントのステージでは民族音楽や舞踊や古代のファッションショーをしていて、ホーミーという声の出し方を本場で初めて聴きました。

 騎馬隊のイベントは500頭位の馬に乗った現軍隊の若者達が壮烈な戦いを演じます。背景が果てのない舞台は初めて。丘の向こうから軍隊が攻めてきて、槍を投げたり刀で戦ったり、投石器から石を投げたり、死んだ兵隊がぶら下がったまま馬が走ったり…それはそれはデッカイスケールのショーでした。

 私の隣に座ったT元チーフアナが戦物語の講談宜しく実況放送を始められ、その見事な放送?ぶりに腹を抱えて笑いました。余興の試合もあって、一等の賞品が駱駝、二等が馬、三等が羊、四等は…何だったっけ、忘れました。でも賞品を引っぱったり、馬に乗せたりして帰るとき、駱駝が全力で馬と一緒に走ったのには客席がどよめいていました。私も砂漠の真ん中で、めったに見られないという、野生の駱駝が全力で走っていたのを思い出しました。
 
 ウランバートルの飛行場近くのゲルのホテルに入って夕食と帰国便出発までの一休み。
お腹の調子の悪い人やら風邪ぎみの人やら疲労やら…皆さすがにぐったりしているので、中にベッドやテーブルが立派に設えてあるゲルに大喜び。
 と、娘さんを連れた男性□さんがが現れました。サランさんはアクセス・チャイナというNPOを立ち上げていますが、そのモンゴル支部長になる、モンゴルでもガソリンスタンドを経営する有力な経済人であるとのこと。日経連の招きで日本に来たこともあるそうです。娘さんはアメリカに留学していて、夏休みで帰国中。

 にわかにモンゴルと日本の国際意見交流が始まりました。モンゴルは総面積が日本の4倍もあるのに人口は93万人弱。その4分の1がウランバートルに居住。全人口の8割が貧困であると説明され、これから素晴らしい日本の発展を見習って、交流を深めて発展していかなければならないと言われた。

 そこで今度は私達が1人ずつモンゴルの印象を言う事になり、歴史、民族、自然など、さまざまな角度から皆モンゴルを描写、期せずして旅行の纏めもやってしまった感じで大笑い。中3のS君が「馬や羊や牛などいっぱい動物にふれ、舗装のしていない道路も生まれて初めて自動車で走って良い体験でした」と、語ったのには、同行の彼のお祖母ちゃんも私達もびっくり。舗装した道路しか知らない世代が日本にはいるのです!

 ウランバートルの国会議事堂のことを一般庶民は「灰色の建物」と言うそうです。文字通り灰色の建物だけれど、それは不気味な政治家達の日常の身過ぎをも突いた皮肉でもある訳。□さんは、「モンゴルには、今皆さんが仰った以上に良いところがある。そして、皆さんが知らない悪い所もいっぱいある。日本は全てが素晴らしいので、これからは農業を工夫して輸出できるものを作ったり、工業も発展させねばならない。モンゴルと日本の交流を今後も大いに深めていきたい」と、モンゴルの経済界のリーダーらしい挨拶で締めくくりました。
 夜11時50分、ゲルホテル出発。 

E8月21日
 日付が変わってじきに空港着。草原の真っ只中の空港です。サランさんは明日内モンゴルに行き、その後は北京で仕事をしてから日本に帰国するとのことで、お別れすることに…ところが握手をしたら、手が熱っぽい!風邪か、疲労か…O夫人が薬を渡して、心配しつつお別れ。1:20出発。4:20ソウル空港着。
 
 ところが今度はサランの夫さんがおかしい。自分の手荷物のカバンを持つのもしんどそうだったので、ワタシ、短い足を全力で前後させ、パイロットに追いついて仲間が病気なので、名古屋行きに乗るまで4時間あるから、彼の為に休憩する部屋を用意して頂戴ませ」と言う。言ったと思うよ、私は。だってちゃんと係りに連絡してそのようになったもん。Sさんが付き添う。名古屋行きに搭乗する前に、ロビーを走るオープンカーに乗ってちょっと元気になった夫さんとSさんが戻りホッ。

 8:45ソウル発。10:30 中部国際空港着。皆無事で大成功の旅行でした。

2006年8月16日(水)  

モンゴル(外)へ行ってきます。21日に帰ります。

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Akiary v.0.51