♪私は8人兄弟。皆さん17〜8歳から家を出ると思うのですが、末っ子なので、私には残っててと言われるかと思ったが、早く東京に出なさいと言われて育った。そのまま家にはもどってない。子供ができてから、つれて帰るよ!って連絡しても、「どっちでもいいよ」と言う。ホントは嬉しいんでしょうけど。来い来いとは言わない。兄弟全部が帰らない。すぐには帰れない仕事にみんな就いているし、お正月でもお盆でも、両親は二人で旅行に行ってしまう。だから私も「行くね、行くね」といいつつ行かなくて、父が亡くなった時は、11年間行ってなかった。お葬式の時に家族が全員何年ぶりかで集まった。自然だった。
我が子に関しても、全く同じになってしまった。正月、お盆関係なく、来たい時に来る。子供はすベて自分でやって私はノータッチで楽。私のお産の時は母に少し手伝ってもらったけれど、後は夫婦で何とかやった。とても大変な時に母に「助けて」と言ったら「どうしようもなくなったら行くけど、今回は行けないから頑張って」と言われた。冷たいなと思ったけれど、近くの人に助けられてやればできた。だから、逆に近くで困っている人がいると助けてあげたい。よくお友達に頼まれた時は助けました。
父亡きあと5年間は、兄弟でローテーションを組んで、毎月必ず誰かが母の所に行くようにした。母は今施設に入っているけれど、いざとなると兄弟が多いので誰かが尋ねていき楽。
親っていいし、自分自身も子育ては楽しかった。6年ぐらい丁寧に育てたら後は知らん。自分が育ったことと同じ。子供がいることを忘れている時がある。
私の両親は北京に10年間住んでいたので、それが生き方に影響しているかもしれない。大陸的でベタベタしない。「自分のことは自分でやってね、私はいやよ」と言う母だった。意地悪ということではなく、やるべきことはやってくれ、孫ともクールに遊んでくれた。
♪私は兄3人、末っ子の娘ひとり。小さい時からものを言わせてもらえなかった。男は言ってもいいけど女は黙ットレと言われた。でも、世話はいっぱいしてくれた。兄達は自然に親への依存度が高くなったと思う。かつ、親が年をとったら一緒に住まなければならないと考えて、兄弟で色々相談する。私はもっとクールに考えればいいのではないかと思う。私は家にいると押さえられて主体的に生きられなかった。結婚後は、子供のことなどで、困って「来て」と言えば、必ず来てくれる。純粋な気持ちで孫を可愛がり、孫も甘えられた。裏を返せば何かある時は「来い」ということ。要求される。それではみんな自由になれない。
何でも頼める親がいて密着すると、家の中で夫が一歩外にいる感じになる。だから、私の子供には中学に入ってからは、自分のことは自分で決めていくようにさせた。子供にしてみれば甘えたかったのに母に切り捨てられたように思ったかもしれない。娘に「母子密着は止めようね」って言えば良かったかもしれないけれどその中で子供は悶々として小爆発した。切り離していたようで」「こういうふうにしたらどう?」「こうしてあげる」と、恩にきせて支配していたのかもしれないと気づいた。
私は両親が二人で暮らして幸せだったという人生を送ってほしいと思っていたが、結局息子家族と同居したり、又戻ったりと、複雑になっている。ある部分は親や兄弟と一線を引いていたい。密着しすぎて自分を殺して付き合っていかなければならないのは避けたい。
♪近くにいると知らなくていいことも分かってしまう。それを全部無視するわけにいかない。
♪時分の家庭もあるのに親は親で捨てられない。感謝の気持ちはあるけれど自分の家庭の主体性は貫きたい。冷たいと言われるけれど、私の選択。
夫の母は舅が亡くなった時にも私たちと一緒に暮らそうかという提案があったけれど、私は断った。どういう嫁かと言われちゃったけど、姑と話し合って、お友達がいっぱいいる、長年住み慣れた所で、ひとりで自由に暮らしてくださいと言った。私も姑もお互いに理解しあって今に至っている。切り離したようにみえても、自由で温かい関係だと思っている。
私自身は親から受け継いだ物で、自分も知らない内に子供にしていることがある。受け継いだものの影響が流れていくということを感じている。支配しないで子供を一人の人間として認めてあげないといけないと、自分に言い聞かせている。
♪長男は40代、次男は30代で、それぞれ独立している。10年、5年の間に彼らの家に行ったのは、一回くらい。もちろん、子供達は正月には顔を出すし、用があれば心配して海外からかけつけて来るけれど、クールな関係。
父は戦後、丸焼けの苦しい飢えた時代に女性を作り、財産を潰して放蕩した。絶対許せない。母は女性が訪ねて来た時、苦しみながらも世間体のため、まるで親戚が訪ねて来たように扱った。
母が10年前に亡くなってからは、法要などのよほどの用がない限り、絶対会いにいかない。私が大学へ行きたいと泣いて話しても、父は女は行かなくていいと許してくれなかった。高校2年から春休み、冬休みアルバイトしたお金を全部貯めて、修学旅行の積立金も旅行は止めて、全部大学受験と進学の費用にして、自分でやりぬいた。幸い国立大学に合格したので、授業料が安く、育英会にも助けられ、家庭教師も二つやって働きながら、全てを一人でやりぬくことができた。結婚もお茶碗二つから全部自分でやった。逆に母が今生き残っていてくれたら、皆で楽しく集まれるのにと、兄弟で思っている。
♪どうしてそういう男性ができるのか。
♪商家の長男坊で甘やかされて育ち、仕事は番頭さんに任せて遊んで暮らしたから。つい半年ほど前、90歳を過ぎた父が初めて兄と私のいるところで「私はあまりいい父親でなかったね」と言った。自分の年金から、いいというのに、持ってけと言ってお金をくれる。孫にもくれる。
共働きしていたころ、乳幼児を抱えて働いていた時、当時は託児所がなくて本当に困った。その一時期、孫を預かって母といっしょに面倒をみて支えてくれたことがあるので、それは、ちょっと頭が上がらない点。だから孫と祖父の関係はとってもいい。
♪私の父も同世代。90歳で逝ったけど、「どういうところが好きになって結婚したか」という事をいつも語った。大恋愛だった。私は何度もその話しを聞きたがって話してもらった。
♪私も大学に行かせてもらえなかった。長男が中学卒なので、女の私が何故行くのだということになった。今の話しを聞いて、大学へ行く方法を調べなかった自分を反省している。自分に智恵がなかった。
♪何度も母に「どうしてもっと早く離婚しなかったのか」と聞いた。子供たちで新聞配達でも何でもするからと。「どうやって食べていくの?」という答え。経済的な自立というのは絶対必要だと思った。
♪私も大学いけば良かった。いくつになっても学びたいことがあるから、今、放送大学に行っている。
親というより、兄弟が行かせてくれなかった。意地になっても行ってやるぞというところがある。
♪私も学びたいという気持ちがある。学んだことを将来仕事とか何かするとか、何かにつなげようとか、みなさんはあるのか。
♪母親と父親の関係があってその中で子供はどのように育つかということをものすごく学びたい。だから、それを学んで生かす仕事をしたい。夫は表現をしないし、何を言っても怒らないし、ロボットのように生きている。何がそうさせて、彼はそれで幸せか、子供は、父の姿にとんな影響を受けているか、学びたい。
夫を変えていきたい。
♪子供って親を超えようとか、親の嫌だった面を克服しようとするものではないか。私の母はやはり女は裁縫やってればいいと言われて、経済的余裕があっても女学校にいけなかった。検定で教員試験を受け資格をとった。だから、娘には浪人してでも大学へ行かせて、先生になってほしいという願望が強かった。しかしそれは、私の希望とは違っていた。ひとまず先生になって目を眩ませ別の仕事の勉強をして夢を果たした。
親は私にとって子供だった。両親が不仲で幼く、娘一人の私は色々苦しんだ。だから、それだけは我が子には味あわせたくなく、平和な家庭をめざした。親を反面教師として学び、与えられた環境の中で自分なりに自分に付加価値をつけていくこと、これが私が親を乗り越えていくこと。
♪大学の非常勤の仕事の話があった時、面接に行ったら、大学院卒の肩書きが必要だと言われた。46歳の時。それから受験して大学院へ行った。
♪子育てって自分が育つってことだと思う。自分が育つ過程は自分は見てないから、それを子どもにも再現してもらって確認している感じ。私は普通の家庭に育って普通の家庭をもっているという感じだが、子供は、親がやってほしいこととか伝えたいことはあんまり受け取らない。逆にしてほしくないことが、ふっとした時に伝わっている。
私の子供は保育士になりたくて、学校で「大人がやりたいことでなく、子供がやりたいことをやらせる保育士になりたい」って書いた。私は特別にやりたいようにやりなさいとは言ってこなかった。子供のもっている自我と私の持っている自我は違う。子供は強烈な意思をもっている。子供がやりたいことをやってくれれば親は楽。
♪長女はずっと新聞配達をやりぬいた。やるといったらやる。きかない。これは私に似たのでなく、父親の若い頃そのものだったようだ。子供はみんな何がしか親からもらっている。
♪姑が残留孤児で中国から帰国した関係で、10数年前に私も夫と日本に来た。中国は3世代の大家族で共同で暮らすのが一般的。先祖代々子育てにも役割分担があって決まっていた。でも、今の中国は一人っ子政策で過保護すぎて、4,2,1小皇帝といわれて甘やかされている。四人の祖父母に二人の父母に一人の子供。将来の中国はどうなっていくのか、今、不安。
日本に来て呆け老人が多いのでびっくりした。中国にはあまりない。孫とよく接触し、子供とよく話しをするからだと思う。中国の諺に、子供を作るのは、自分が年をとったら子供に面倒を見てもらうためというのがある。でも、息子と一緒に暮らす人は少ない。娘の家で同居するのが多い。家庭の主役は奥さんだから、自分の親とはあまりもめない。 中国には、まだ老人施設が少ない。もし、施設に親を入れたら、恥という考え方がある。
姑は、夫が六ヶ月の時、中国で養父に預けた。12才の長女を頭に6人の子供たちを連れて日本へ帰れない。黒龍江省の牡丹江で一番寒いところ。逃げてくる時男の子は死んだ。養父は子供のいない人だったので、子供と引き換えにお金と中国式の服とゆで卵とチーズを渡した。養父は亡くなる前に、本当の子供ではないと息子に教えた。それで、日中の国交が回復してから、本当の親を探して帰ってきた。
私は中国の両親に手紙で嘘ばかり書く。辛いことは書かない。母は突然電話してきて「7月に帰っておいで」と言った。もう3〜4年帰ってないからという理由。帰りの飛行機代は出してやるからと言われると、私はもっと辛い。
日本の前、住んでいた所は、周りがみんな親戚で、私の私生活を監視されているような気がした。そして、親戚との付き合いは難しい。保証人にもなってくれない。政府は親兄弟が日本にあれば、保証人にはなってくれない。とても困った。皆冷たくて、ドアーも開けてくれない。財産的には豊かかもしれないけれど、精神的にはとても貧しい人達。中国人に助けられ、私の夫を中国に置いてきたから、自分達は今生きていられるのに、中国人に対する感謝の気持ちは一言も言わない。私は自分の命は誰に助けてもらったの?って言いたい。かえって他の色々な人がアドバイスをしてくれたり、あたたかい。私は又新しい国に来たと思えばいいと思って、夫の転勤を機会に一緒に名古屋に引っ越してきた。
名古屋に来てまだ半年。友達を作るために日中友好協会のパーティに一人で出かけた。友達が一人出来た。困ったときに、あるいは寂しくてだれかと話したい時、やはり誰かに甘えたい。今もまだ、どこへ行くにも地図を見て行く。今日も友達の紹介で初めてここへ来た。
人に愛される前に、私は人を愛していく生き方をしたい。仕事も広告を見つけて、今、中国語教師をしている。生徒には87歳の人もいれば、19歳の学生さんもいる。色々日本の人からも学ぶ。
♪23日の中日新聞の坂東さんの記事を読んで、親の気持ちが息子さんに伝わってていいなと思った。自分に置き換えてみると、息子はもう私と別人間になってしまっていて、私が母として何を考え、どう生きているのか伝わっていない。私が今消えたとしても、私が生きた証というのがないんじゃないかと思うくらい完全に親から気持ちが離れている。
私はお嫁に行く着物を買うか大学にいくか、二つのうち、一つを選べと言われて大学を選んだ。後は奨学金を受けたりして、頑張ってきた。私は何かあると親のところへ飛んでいき、面倒をみていて、親も自然に受け入れている。私が今親にしていることを息子はしてくれないだろうなと思うと、ギャッフがある。親に対する想いを次の世代の子供が見ていて、つながってくれるといいなと思う。私という人間が生きた証が私はほしい。
♪親も子供もお互いに我慢していると、話したいことが話せなくなってしまう。お互いに甘えたいかもしれないのに。
♪親と娘の間にいて今私はもやもやしている。でも、話しを聞いていて、自分が踏み出さないと状況は変わらないなと思った。娘の成長が私の育った過程と重なって、色々な気持ちが寄せたり引いたりしている。娘を通して学んだり、考えたりしていきたい。
♪どんなことからでも学べる、親は選べないし、子供も選べない。
♪中国の親を大切にするって感覚は、日本のもう一つ前の世代の感覚だと思った。アメリカに一時期いたけれど、アメリカ人に「同居するの?」って聞くと「そんなこと考えたこともない」って言うんです。
私は今、80歳の老人3人抱えていて、2人入院している。私たちの世代は欧米式か、中国式か、どっちって世代のような気がする。
♪中国もこれからどうなるかなって心配しています。一人っ子は後で四人の親を見なければいけない。これはもう、社会問題。今はまだ分からない。
♪母をケアするってことは、母という人間から学ぶって事ではなくて、母という老人と接するという意味で、自分の将来も含めて得るものがすごく大きい。息子は電車の中で老人を見るとすっと立つ。立つのが面倒なので、いつも座らないようにしているくらい。母に意地悪なことを言うと娘に「そんなことは言ってはいけないよ」と注意される。例えば、ベッドで寝ているおばあちゃんをどうやって立たせるかということを息子達は学んでいる。母がいることはある種大変だけど、得るものはあまりにも大きい。子供に迷惑をかけたくない気持ちの一方で、迷惑をかけて、学んでほしいとも思う。
伝統的なやり方を引き継ぐ良さ、欧米的にやっていく良さ、ともにあってしかも、ともに欠落していくものもある。
♪やるっきゃない!って時代もある。
以上簡単にまとめました。予定時間を30分もオーバーしてしまいました。それでも話は尽きませんでした。永遠のテーマであることだけは確かです。
<メールや手紙参加>
★3−3がま口塾第3回、塾の新しい歴史が一つ一つ増えていくね。
9/21の中日の記事、読みました。チャンと写真に気付いたよ。まのあけみさんと一緒に、しっかりお姉ちゃんも写っとったがね!
ところで、手紙参加って結構難しい。「親」と「子」…もし、出席してたら、何を話しただろうって考えたけど…ごめん、また、今度、チャンと書くね。
【お姉ちゃんから一言】
中日新聞(東京新聞)の22、23日にまのあけみ、と「お姉ちゃん」が日中国交回復30周年関連の記事「結んで開いて」に掲載されました。中央テレビ出演の話題を提供したのですが、記者さんが二人に分けて話題を整理されたので、私は別の話題になってしまい、何だか変になったのです。
で、22日のまのさんの記事には、「お姉ちゃん」は写真だけ写ってて名前なし。「顔はよくわからないが、あの足はきっと弘美に違いない」と親族一同からも呆れたと言って電話がかかってきました。ま、いいか。どこかのご家庭の話の種になれば。足が二本もあって幸せです。食べたい方にはさしあげます。
★3−2 一人一人の人生、親との関わりも違うなあと思って聞いていました。
今日の結論として、私は長女の言葉によって、自分を振り返り、自分らしさを取り戻すきっかけをもらい、息子の姿勢によって、夫との関係を深く考えるきっかけをもらいました。そして,私は親・兄弟と、見苦しい心や縛りにとらわれない付き合いがしたく、大人になったら、対等で、私の人生に何も言われたくない!という思いをずっと持っていた。そうして付き合ってきたし、これからもそうすると思う。
夫や舅も憎い時もあったが、今は感謝している。私にこんなに長く学ぶチャンスをくれたし、念願の大学(放送大学だけど)にも行けているし・・・姑にも、感謝している。別々に暮らし、好きなように過ごさせてくれている。だから今は、誰でも一人一人を一人の人間として付き合っている!つもり・・・
★3−1 明日は9月の例会ですね。今月のテーマ、”親って何?、子って何?”に、沢山のお話が出てくるのでは、と期待しています。
今年のお盆休み、遠く離れている二男の帰省をひたすら待つ親心、子には届かず、「帰りません」のつれない返事。”親の心、子知らず”を、実感しました。
一方私にも、実家の母から帰れコールの連続。やれやれ又か、と、思いつつも、数日の間、子供になって過ごしてきました。何かと心配をする親の心遣いが、ありがた迷惑に感じられます。
いったいこれはどういうことでしょう?親っていうのは、幾つになってもひたすら子を思う。それが親としての使命で有るかのごとく。子はある時点までは、できるだけ親から干渉されまいとする。ある時点が来て、やっと心底から親を思えるようになる。ある時点、それは、親が子供を心配する”チカラ”がなくなった時ではないでしょうか。
ある時は子供を思う親になり、又、ある時は親心がわからない子供になる。この絶妙なバランスが取れるうちは幸せなのかな、と、今回改めて思いました。
人生の真ん中少し過ぎて、西に手をかざせば子供が、北を振り向けば親がいる場所に陣取って、親、子、を考えてみた秋の夜でした。
(拉致事件の、横田さんや有本さん達ご家族の心を思うと、子を思う親の気持ち、ひしひしと伝わり、どんなにお辛いかと・・・)
●新聞の読書欄からです。作品、英空軍パイロットの経歴を持つ、ギャビン・ライアルの第一作『ちがった空』。読んだ人、 加藤寛一郎 タイトル、 「好きだから、輝く才能」
航空機が「みじんのゆらめきも見せず」着陸してくる。それを見て、あれを操縦しているのは誰それに違いない、と小説の作者は書いているそうです。
果たしてそんな見分けが可能かどうか、加藤寛一郎先生は多くのパイロットに尋ねましたが、答えはおおむね否定的だったそうです。この本を読んだことが、操縦の個性について考えさせられるきっかけとなり、加藤先生は、その後、腕の良い飛行機乗りを訪ねて世界を回られる。そして多くのパイロットを取材され、次の結論を出されました。
・・・「彼らは飛ぶことが好きで好きでしょうがない」「彼らは一生かけて、飛行を楽しんでいる。必ずしも刻苦勉励努力しているわけではない。好きで楽しんでいるからこそ、長続きし、上達する」 一つのことを一生好きであり続ける。これは一見やさしそうで、誰にでもできることではない。この「好きでありつづけること」これこそが才能、これこそが輝く資質のように思う。「好きなことを楽しむ」 これが、腕の良い人達の技量に関する結論である・・・
もう一つ。 見える筈がない飛行機の「ゆらめき」、この描写が虚構と気がついた後も、小説の著者の操縦の技量を、加藤さんは信じます。そして、そう表現できるのは作家の技量でもあると。虚構を作る能力、想像力の重要性を、改めて感じる。と結ばれています。
90歳のデスクジョッキーをめざすステキな夢・・「お話すること」を、本当に、好きで楽しんでいらっしゃる。これこそが「好きだから、輝く才能」と思うのです。作今、加藤先生の上記の読後文、実にタイミングよく、わたくしの心に響いたのです。
●がま口塾が始まってからは、HPを見て、楽しんでばかりで、ごめんなさい。塾の主旨としては、こちらからも発信しなければいけないのよネ。頭の中では色々考えているのだけれど、いざPCに向かってという行動にならないの。 さすが弘美さん、真面目にPC日記、書いていますね。 がま口塾たよりは前のと比べてすっきりした物になりました。誤字を捜す楽しみが減っちゃった。(でも、見つけたよ。ゴメン、ゴメン)その場に居て、皆の話を聞いてトークするのは、まだしやすいのですが、テーマを決めてPCに打ち込むというのが、まだ出来なくて。
●いまから 寝るのです。ホームページみてたら 今に なってしまった。あしたは 朝 早い どうしよう〜
でも 面白かったよ。服部くんの お母さんがなつかしかった。お元気そうで・・・あと 坂東さんの おへや
写真のアングルがいいのか素敵にみえるの。おかたづけ 上手になったのでしょうか?あ もう いよいよ 寝なくてはーおやすみなさい!
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