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8/20(水)

 今日は、病院の暗い部屋のBedから。
入院を始めてから、早22日が経過した。
先週既に、今使用しているこのPowerBook5300ceを運んでもらっていたのだが、調子が悪くてできなかったので、今日は取り出してみました。
ここに入る前に、Yahoo!に登録申し込みをしておいたら、社内の友だちから『検索したら出てきたよ』と云われたので、殆ど工事中のまま病院に入ってしまったことが悔やまれた。検索でここに巡り会った方々には特に申し訳ない!と思っている。
所詮、『なんだ、こんなもんか』とあっさり忘れ去られたに違いない。せめてBookMarkに取っておいてね。これから、頑張るからさっ。
 さて、私の治療は、暗い部屋に篭ってちんまり?と行われている。謎の暗闇のヴェールに身を隠す私、、とは云っても単にお陽様に当たってはいけないのが治療のうちのひとつにあって、なんだかここに毎日いると、これが本筋のような気がしてしまうのだが、ホントは違うんだぞぉ。
 私のこの夏の三大風物(?)は、暗室、扇風機、氷まくら。その理由。
 まず、私の現在の住処は、とある病院のこの暗室だ。本当は六人部屋なのだけど、狭い個室のようなものである。(オーバーか。Bed料金はかかってないもんなぁ。)ひとり分のBedスペースを重厚な?暗幕で仕切られている。
イコール暑い。最初のうちはそりゃあもうしんどかった。かんごくさん、いや看護婦さんに云ったら、扇風機と氷まくらを用意してくれた。そのうち身体も慣れてはきたが、やはり扇風機と氷まくらの功績はデカイ。
 この暗い部屋で感じたことはたくさんある。過去に遡って、書いていこうと思うのですが、暇な人は読んでもいいです。きっとくだらなくて途中でやめちゃうと思うけれど。


 7/30〜8/19までのもの。
  7/30(水) 

入院事始め。
 昨日までピンピンしていたこの私が、病院の備品パジャマに着替えると、それなりに病人の仲間と同化してしまった。自分はちっとも病人なんかじゃないのになあって思っていたのに、やはりそのようには見られないみたいだ。哀しい。
 この日、一緒の入院となった、女の子でまきちゃん(元OL今学生)と、まるで漫才のように盛り上がる。私たちはまるで病人じゃないみたいなノリだった。これで乗り切っていこう!なんて内心、お互いに思っていたかも。

  7/31(木) 

 入院してから、何の指示もないので、寝てばかりいた。これで薬でも出れば、ま、病人かなって感じがするんだけど、本当に何もなかった。信じられない。
ようやく夜になってから看護婦さんに、何もなくておかしいなあって思ったのよ、明日たくさんありますからねえ!!って云われてしまった。うっ。

  8/1(金)

 入院してから2日間、手付かずの患者であったのだが(そのお陰で中々病人と云う自覚が持てなかった。)この日朝6時から、いきなり採血が6本あった。
もーいきなりクラクラがやってきてしまったのは云うまでもない。
 昨日までピンピンしていたこの私が、本当の病人と化してしまったような按配だ。これは自分にとって、ものすごいShockingなことであった。スキー授業をどうにかサボりたくて、仮病したことを思い出したりなんかしたけど、そんなのとはぜーんぜん違う。『今し方まで、お元気であられたのに、全くをもって信じられない気持ちです』と、週刊誌の記者にコメントしたかったほど。
その後、立て続けに午前中は、肺活量・胸のレントゲン・血液の凝固時間?の検査があった。トホホです。
 まきちゃん手術の日。終わったあと覗きに行ったら、ぐっすり眠っていたので、そのまま戻る。

  8/2(土) 

いきなし外泊許可。
 入院して早々外泊許可って出るのね。ま、なんてったって、私はまだまともな検査をしていないから、外に出ている方が正しい!!なんて思ってたりした。
 担当看護婦のSさんから、用意しておく物の説明を聞き、一通りメモして、外出。
でも帰る先は、ひとつしかないぞぉ。
 途中デパートで、サングラスと帽子と手袋を真剣に選びんでいると、鏡の前に立つ人はやはり、怪しいのではないのか…などと、ふと感じて、サングラスを替えるたびに、『なんか怪しい感じですねぇ、でも治療に必要なもんですから。』などと、別にいいようなものを、言い訳ばかりしていた。情けないねえ。

  8/3(日) 

 病院では、9時半に消灯して、6時に起床の合図があるので夜型の私はしんどいと思っていたのだが、それがどうして、暗くても明るくても眠れてしまう図々しさに、ここ数日我ながら驚いていた。この日、前日は病院に入る前みたいに夜更かしをしたのに、家でも目覚めは一応6時だった。慣れてしまうのね。でもそのあとまた眠ってしまったけど。
 数日病院のBedにいただけなのに、すっかり体力がなくなってしまっていた。人間って、不思議。たった数日眠っているだけで、こんなに体力が落ちてしまうなんて、スポーツ選手なんか大変だろうなあ。
 午後になって、帰る支度。帰るったってねぇ、行くとこはあそこしかないんだよねえ。途中、新宿のデパートの食品売り場を覗く。物すごい人で圧倒されてしまった。札幌の比じゃないよ。びっくりした。もうくたくた。
まきちゃんと院内文通が始まる。まるで学生時代に戻ったような感じがした。

  8/4(月) 

 会社のまっすうと、しーばちゃんがきてくれる。
職場の皆様のメッセージと共に。ありがたいねえ。しみじみ。
午後に兄ちゃんが暗幕を取り付けにやってきた。それを見てとてもクラクラする。
その後、主治医Nセンセ回診に登場。『実は、今まではすごいブタ小屋みたいなところで(先生が云ったんだよぉ)やってたんだけど、最新の治療室でやるんだ。第一号だよ』とのこと。すごおく嬉しそうだった。そっか、一歩違えば、私は、ブタ小屋だったのね。ま、ラッキーだったということにしておきましょう。

  8/5(火) 

この日から、暗闇生活にはいる。
 なんとこの世の物とは思えないくらいのぶっ飛ぶサイズの注射器と主治医Nセンセがやってきた。これは控えている手術に必要不可欠なもので、悪い細胞を集中させることができるというもの。この注射の副作用で、光に当たると皮膚が黒く灼けたようになったり、水ぶくれのようになってしまうので、遮光が必要なのである。
 話が後回しになってしまったが、私の主治医Nセンセ(恐れ多くて呼び名なんかつけられません)は、三浦洋一と柴田恭兵をまさに足して2で割った感じの顔と容姿。噂によると30歳。ここのオバチャンたち(患者)にはすこぶる人気がある。『イイ男よねえ』『自分の息子と同じくらい若い先生にみてもらうなんてねえ、思わなかったわよぉ』『中々の腕らしい』など、口々だ。
 私は外来で初めて会ったとき、『えっ?こんな若い先生なの?』と正直に思った。実際はもっと年令が下に見えたからだ。最初っから素っ気無くて、感情が全くでなくて、こちらの発言に畳み込むような印象をちょっと持っていた。こう云っちゃあなんだが、ちっとも医者には見えない。『昔ちょっとだけツッパリ(古いなぁ)だった?』みたいな。こっちとらぁ、お命預けてますんでぇ。え?…てな感じの気持ちだったのである。
 しかし、今は全く違う。いい医者とも出会いだと思った。いくら偉いなんとか教授といったって、病気をみつけるのは若い医者の方だったりもするし、若い先生は細かく何でも聞いてくれる。こちらがまな板の上の鯉の気持ちで、素直にしていれば、治るもんも人より早いような気がする。こっちがあーだのこーだのと云ったところで、どうなるもんでもない。やはり餅は餅屋にまかせるしかないのだ。どうせシロウトなんだし。
 そうそう、話がすっ飛びましたでやんす。
 チューブのついた針が、血管注射同じくさされ、この世の物とは思えないぶっ飛ぶサイズの注射器がとりつけられた。斜め向いのBedのオバチャンも『それすごいわあ!』と云ったきり、固唾をのんで見ている。なんとも言えない長い注射タイムだった。それっきり暗幕は閉じられ、暗闇生活が始まった。

  8/7(木) 

メインイベント?の手術が終わる。なんと予定を大幅にオーバーして3時間もかかった。『病巣が思いのほか広かった』とのこと。
 こっちもかなり辛かったが、実はずっとあとになって冷静になって振り返ってみたら、3時間一発真剣勝負の先生の疲労はすごいものと思った。のちに、私の保証人(彼女はナースステーション隣の看察室に偶然に友人と、その付き添いをしている友人もいるため、子連れでよくタムロ?している)が、『始まる間際まで、2時間くらい休みなくカルテ見ながらずーっと教授と打合わせていて、終わって戻ってきたときはもう先生ヘロヘロだったわよぉ。』とジェスチャー交えて教えてくれた。やはり若い先生で良かった。もし、なんとか名誉教授とかっていう先生がいて(ちなみに私のとこにはいないよぉ)手術担当で、3時間も持たなくて、途中倒れたりなんかしたら、命ないかも(大袈裟か?)しれないもんね。ふう。
 実はこの晩、物凄い激痛で、震え上がる。この日、緊急や危篤状態の患者の多いのを感じていた(事実私の隣の人は、付ききりの先生が必要で、痛い!と泣き続けながら壮絶な治療が施されていた)ので、どうしてもナースコールを押すことができなたった。夜は特に、医者が出払いで足りなかったのか、看察室に付ききりのS先生が、あちこちをざっと押してみただけで、その後全然見みたことのない(どうやらよその科から来てくれた様子)先生が、痛み止めの点滴をしてくれた。が、針を刺すのがいまひとつ(場所もねぇ、痛いとこだったし)で、お腹の痛みと針の痛みで痛み倍増。痛くて痛くて声をあげてばかりだった。

 数日間、殆ど記憶が曖昧なので省略。

  8/11(月) 

友人のBRYAN(日本人)から、自作のMusic Tapeとメッセージが届く。
 6日から、手助けに来ていてくれた妹が、札幌に引き上げる。思えば喧嘩ばかりしていたような。。

  8/13(水) 

友人のはるちゃん(♂)となっちゃん(♀)がお見舞いに来てくれた。ふたりとも近頃、殆どメールなどでしかやり取りをしていなかったのだけど、まさか申し合わせてふたりでこんなところに来ていただけるとは思わなかったので、驚いた。

  8/14(木) 

 一緒の日にここに入院した、まきちゃんという大きな存在を失う。退院おめでとうなんだけどね。

  8/15(金) 

 終戦記念日。別に何も意味はないけど、昔好きだった人の曲の中に『After The War』というのがあって、思い出した。
 ♪窓に切り取られた四角い青空は、なんだかつまらないと云うの〜
今ここには、窓がない。つまらないと思えるような空さえも見えなくて。

  8/16(土) 

 数日振りにシャワーにはいった。シャンプーをいくら使っても最初は泡が立たなくてイライラした。さっぱりしたら、ものすごいお腹すいてびっくり。

  8/17(日) 

 金曜日から、手に出だした湿疹がどんどん増殖して?盛り上がって広がってきた。ささやかな明かりの下で、本を読んだり、お手紙したりしていたせいかも。とても痛いし、痒いし、たまらなかった。Nセンセはいないので、他の先生がかゆみ止めの塗り薬レスタミンを出してくれる。が、おさまらなくて、全然眠れなかった。

  8/18(月) 

 痒い!痛い!で、どうしようもない気分。朝に採血2本。
午後になってから、Nセンセが回診にやってきた。光のせいだねぇ。。と呟いて、『じゃ、これから退院まで、点滴のお注射を入れましょう』とのこと。(のちに原因は肝機能の低下のためと血液検査の結果判明)
 先日の点滴針は、さすのがむちゃくちゃ痛かったのに更に一昨日までその針をさしっぱなしだったためしんどかったので、針の痕を指差して、『ここだけはやめてください!』と悲痛な声で訴えてしまった。
『んじゃ、この辺かな?このあたり?』といろいろ押さえてくれるのだが、そのうち、もうどうでもよくなってしまって、『まな板の鯉ですから、どこでもいいですぅ』と横たわると、薄暗い中なのに、ひょいひょい、と針をさした。
『痛いのと恐いのに極端に弱いもんですからぁ』とさらに訴える私に、『あ、そうですか』と、けっこう真剣に聞き入れてくれた直後、『じゃ、お薬いれまーす』とNセンセ。へっ?
「げっ!痛くないぞ!センセなかなかやるじゃん。うまいじゃん!」と内心呟いてしまった。『あっ全然いたくないですぅ』とミョーに軽い声の私。
身体中にすぅっと流れていく感じ。と、同時に少しピリピリとした感じもあり。やがて終わると、物凄い脱力感が全身を包んだ。ま、寝放題なので、特に問題なし。

  8/19(火) 

 今日も点滴のお注射。午前中に違う先生がきて、やって行った。『肺がんや胃がんのじいさんならねえー、顔が黒くなろうが痕が残ろうが、ま、たいしたことないからさぁ。だから、こんなことしないんだけど、そうもいかないもんねぇ。大変だよねぇ』ウッシッシってな調子の人だった。この先生もけっこう若い。点滴が始まると『何か感じますぅ?』というので、すぅっとするって云おうかなって思ったけど、『特に、、』と返事をした。そのうちピリピリしてきたので、『ピリピリしてきました』と云うと、『そう…』と納得いかない様子だったので、『顔がピリピリしてきた』とまた云うと、『そうそう、顔のあたりがピリピリする薬なんだ。じゃ効いてますね、良かった良かった』とのこと。どうやら、私もふつうに反応した人らしい。よかった!!
注射と新しい薬を飲む毎に、あれほど辛かったかゆみも痛みも徐々に徐々に退けていった。
 その後、午後から、Nセンセが回診に来た。爽やか系のコロン(詳しくないので名前までは分からい)の匂いをさせている。やっぱり医者っぽくないんだよね。
しかし、今日は、暗い暗幕から顔を覗かせるときに、『こんにちわ』と挨拶をしてくれた。こちらのほうが、一瞬止まってしまって、うまく反応できなかった。だがNセンセはあいかわらず、『効いてるようなので、これから、毎日お注射しましょう。』と素っ気無く云ってから、カルテに記入をして、『はいどうも』と、出ていった。なんともあっさりしすぎな医者である。午前中に点滴を打っていった、ウッシッシ的なリアクションの先生とは正反対だ。医者もほんといろいろだなぁと思う。

 病院の中にいいると、まあ、いろんな人がいるとは思う。私は、たった数日で、暗い個室に入ってしまったので、ほとんど観察することができなかったのがちょっと残念に思っている。