第33回 アルル国際写真の出会い
クーデルカ特集で人気呼ぶ


過去の文化を持った古都で33回目の写真祭

 悠然と流れるフランス五大河川の一つ、ローヌ川のほとりにある古都アルル。南フランス、プロヴァンス地方はローマ時代の遺跡が数多くの残っているが、中世にも独特の高い文化が栄えた。
 これは、イタリアの影響だけでなく、スペイン半島に住んでいた、当時はヨーロッパよりも高い文化を持っていたサラセン人や、南方ユダヤ人の影響もあるらしい。有名なノストラダムスが活躍したサロン・ド・プロヴァンスもアルルの隣町だし、近くのエギュ・モルトという港町からは、第7回十字軍が出発している。だから、このプロヴァンス地方の古都に、フランス唯一の国立写真学校があってもおかしくないし、国際的な写真祭が、33回目を迎えるのも自然なことなのかもしれない。  さて、今年の「アルル国際写真の出会い」は7月6日から14日まで、展示は8月18日まで(クーデルカ展については9月8日まで)とおこなわれた文化の伝統がある町なのだ。

>>新ディレクターにフランソワ・エベル氏<<
 今年の写真祭、3年続いた、ジルモラから、今年新ディレクターとして、フランソワ・エベルが起用された。
美貌で言葉巧みなパリジャンとの評判である。1986年と87年にすでに28才の若さでアルルのディレクターをしたので、15年ぶりのカムバックだ。この時は、マルティン・パーとナン・ゴールデンを中心に展開して話題になり、コダックをスポンサーに選び、以後の運営に安定を与えた。ところで、最近の「写真の出会い」は、一部の写真関係者中心になったとの批判もあり、広く人を呼ぶ、フェスティバルとしての機能を次第に失いつつあったし、経済的に存続も危ぶまれてきた。そこで、この写真祭に、活を与え、立て直しを期待されたて新ディレクターが登場したわけだ。
 その成果は?。エベルは来年もディレクターを続けるということだが、今年はまだ、際立った効果は出ていない。
 古代劇場でのショーの客は増加した。路上でパンフレットを一般のツーリストに配ったり、ツーリストオフィスでも宣伝に努めるなど一般観客を呼び込む努力が報われたのか。1日目の満員から、日を経るほどに入場者は減っていく。厳密で、効果的な運営を欠いていた。例えば、会場の入り口に案内の垂れ幕が架かっていない展示会場がいくつかあったり、経費節減のためか、内容を紹介するのは8つ折のパンフレットだけで、どこで何をやっているかがわかりにくかった。大通りの市立劇場やエスパス・バンゴックの2階では、興味深い講演会がいくつも企画されているのに、宣伝不足で、秘かに行なわれている感じだった。町の雰囲気も、お祭りの気分をという、ディレクターの意図とは裏腹に、今一つ盛り上がりに欠いた。予算は増加したというが、それがどこに使われたかという疑問は残った。バルナックライカ賞等、各賞の発表に、600人にディナーショーの形式で、古代闘技場を始めて使うなどは画期的な試みだったが、最大聴衆に見せるべきショーを限られた関係者だけに絞ったのは、彼の、「皆のための写真祭」の方針に逆行していた。

テーマなしで、展示の一貫性を欠く
 さて、肝心の内容はどうだったか。今年のアルルは特定のテーマを選ばなかったので、展示の一貫性を欠いた感があり、全体としてのインパクトが弱かった気がする。ヨセフ・クーデルカ、マルティン・パー、ラリー・スルタンらの著名な写真家とともに、ほとんど無名の作家も同時に紹介された。スペインのコレクター、オルドニェス・ファルコン夫妻のコレクションとパリのヴュ・ギャラリーのコレクションの二つの展示は有名な写真作品が並んでいたが、珍しいという印象はなかった。その中でも、ちょっと目立ったのは、3人のアラブの女性写真家、ジャンアンヌ・アルナニ、ジネブ・セディバ、ラエダ・サーデ等が、アラブ人で、女性であるというダブル・アイデンティティを扱った作品は、新鮮な、注目されるべき企画で、しかもこのテーマでありがちな、政治、イデオロギー的視点を押さえたアーティスティックな作品が良かったと思う。ただ、これはパンフの端に3つの会場は関連ありますと小さく書いてあるだけ。もっと強力に関連づけて、せめて一緒に展示してほしかった。
 古代劇場で行なわれた恒例のイブニングショーについていうと、各ショーの導入部に、アルル新聞と題された、前日に撮ったデジタル写真や、DVが紹介されたのは、回りの、近過去の出来事が、大画面に写し出されるので、親近感があった。メーン部分については、すでに展示されている作品がだぶって紹介される場合が多く、分かりやすかった反面、ショーでないと見られないというような感激的演出が足りなかったような気がする。エベルは来年は上映と展示は独立させると答えたらしい。3日目の、8日のショーでは、ノートパソコンを舞台に置いて、まず、アルル写真学校の生徒の作品をインターネット風に、同時に大画面に写し出して見せる。ついで、同様の試みがPIXEL PRESSと題され、ネット上の作品、特に昨年のニューヨークの悲劇の様子がエクスプローラーの大画面の中で、延々と写し出される。観客の一人の女性が「もう9月11日はたくさんだ!」と叫ぶ。ついで、観客が次から次に席を立ち、板で補強された劇場の階段席の通路を、どたどたと足音が響かせながら、会場から出ていく。アメリカ人の紹介者には大変可哀相だったが、「9月11日の惨事を同情して下さい」という願いはアルルの観客には通じなかった。
アメリカ大衆は政府のいうことを鵜呑みにして、どうしてこのような悲劇が起こったかという真の原因は考えない。悪の根源と称して、アフガニスタンやイラクをたたけば問題は解決すると思っている。このままでは、また自国に悲劇が繰り返されるかもしれないことに想像が及ばない。そういうおめでたいアメリカの自己中心が現れた紹介に、観客の多くはそっぽを向いたのだ。

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Larry Sultan        "Here Is New York" Thomas Nilsson 

       イメージ写真  Jananne Al Ani


メーン企画のクーデルカが光る

 何といっても今年のハイライトはヨセフ・クーデルカ展である。エスパス・バン・ゴックの2会場、トリニテール教会、プレッシュール教会と4ケ所で行なわれ、全体で回顧展の形式になっていて、400点近い、豊富な作品によって、この特異な東欧出身の写真家クーデルカの全体像が明らかになるよう仕組まれている。
 1968年、ロシアの戦車隊がプラハに侵入したあと、チェコの当局の命令に従い虐殺を恐れた民衆は何もしない。並木の下に戦車が隠され、戦車には大砲が隠されている。だが、何も起こらない。重苦しい沈黙。クーデルカはこの夏のプラハを撮っていた。クーデルカのこの一連の作品が、芸術評論家のアンナ・ファロヴァとウジェーヌ・オストロフの手でチェコから持ち出され、ワシントンのスミソニアン研究所の責任者の一人がマグナムフォトの会長のエリオット・エルウィトに見せた。それが、69年8月、ロシアのプラハ侵入1周年に発表されることになる。この時はクーデルカは自分の名前を出すわけにいかなかったので、ロバート・キャパ賞は無記名で送られた。70年にチェコを抜け出し、イギリスに移住したクーデルカは、ジプシーの写真では有名になるが、チェコ動乱の写真の作者と一般に知られるまで14年間待たねばならなかった。しかし、亡命に成功し、西洋社会に受け入れられたのも、この作品とマグナムのおかげであった。パリの前国立写真センターディレクターで、現在もナタン社からフォトポッシュのシリーズを出版し続けている、ロバート・デルピールも亡命当時からクーデルカを支援し続けている。この68年のプラハの貴重な作品群はトリニテール教会に展示された。
 彼は決して、イデオロギーの発表者ではなかったが、反体制派として、西側にとどまった。消費文明に妥協しない。この無国籍の写真家はカバンも持たずに、ふらつき、彼自身の向性に従うため、雑誌の注文に従わない。夏に写真を取り、冬にプリントする。いくつもの言語を片言で話すが、正確にしゃべれる外国語はない。長いことマグナムのオフィスのテーブルの下で眠り、家を持ったのは87年にフランスの国籍を取ってからである。
 クーデルカは1938年、チェコ、モラヴイアの村のボスコヴィスに生まれた。10代半ばから、父の友人の写真家の手ほどきで、写真をはじめたが、プラハ大学では航空工学を選考、初めは航空技師として働いていたが、次第に写真の世界に移っていく。68年以前は、プラハのディヴァディ・ザ・ブラナウ一座に協力して、テアトルの写真家として知られていた。このころの初期の知られていない作品がエスパス・バンゴックの2階に紹介されていたが、ここにすでに、彼のその後の作風を忍ばせる、役者の顔の表情や動きを捉えた、コントラストの強い、粗い粒子の炭化したようなドラマチックなプリント、あるいは墨絵のようなタッチの作風が始まっていた。また後年、シリーズとなるパノラマ写真も試みている。
 彼は自身でコルヌミューズ(風笛)、バイオリン、アコーデオンを弾けるし、この音楽への趣向がジプシーに近づき、その音楽を愛し、しだいにジプシーの写真に入り込むことになる。亡命以降、テアトルの写真はやめたが、南仏やイギリスでのジプシー共同体での写真は撮り続けた。エスパス・バンゴック1階でこれだけ多量のジプシーの作品を見て、非常に感動的だった。強いコントラストの作風はビル・ブラントやサルガドを思わせる。開けられた棺桶の中に横たわる婦人を見守る、民衆の作品の光はフランスの画家、ジョルジュ・ラゥールの絵にそっくりだ。彼の撮ったジプシーはこの特異な民族を外側から、客観的に、民族学的な立場で捕らえたものでなく、むしろ内側から、彼等に完全に同化して、主観的に捕らえたという風に見える。
 半ば廃虚のようなプレッシュール教会の幽霊屋敷のように暗いが、天井の高い会場内には、まさにこの会場にふさわしいというような、巨大で無気味なパノラマ写真が展示されていた。工業化や鉱山の採掘によって荒廃した風景、日常的だが人気のいない殺伐とした風景である。一見、会場全体から暗いマイナスの波動が攻めてくるような雰囲気だが、このネガティブな風景が引き起こす奇妙な静寂の向こう側には平和な世界があるように思えてきた。これはもしかしたらクーデルカの優しさなのかもしれない。逆に、見るからにのどかで、平和な丘陵地帯のパノラマ写真。よく見ると遠くにかすかに原発の塔が見えるという場合もある。見かけの平和に注意しましょうという警告も忘れない。クーデルカは、金の為のルポには反抗的だったが、より束縛を受けない政府の代理店の注文には応じた。これが、ここに展示された最近のパノラマ写真のシリーズ「カオス」である。
 彼は作品のキャプションとして、国名と撮影年しか書かなかった。愛着のある作品はジョセフ・クーデルカとサインした。マグナムが使用することができた作品にはただ、JKとだけ付した。

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J.Koudelka  

今後の期待
 新ディレクターで生まれ変わりをたくした今年のアルルだったが、まずまずのできだった。大衆に訴える写真祭だったら、町中に写真を飾るような企画があっても良かったと思う。展示、イブニングショー、討論会・講演会、ワークショップなどの大筋の構成は以前と変わっていないし、変える必要もないと思う。プレス関係者にとって、以前行われていた、朝食会と称した、朝の懇談会がなくなったのはちょっと寂しかった。ここはリラックスした写真家のゲストとの出会いのばだったから。また、特に、アルルの伝統的な特徴、写真家にとっての「出会い」の場所ということに関していうと、かって、元パリ国立図書館写真部門の責任者ルマニー氏が使っていたアルラタンホテルが正式に作品を見てもらう場所として選ばれた。他にもライカスタンド、fnac相談窓口、エスパス・ヴァンゴックの回廊、そして、offが主催する、アルシェヴェックの中庭など、作品の交換の場所が準備されてきたのは今後が期待される。また、offの企画もオフィシャル化しているのが、最近の傾向で、以前にあったもっと自由にすべての参加したいものが企画するようにならないだろうか。これがまさに、エルベがいうような「すべての人のための写真祭」だろうと思う。
佐藤 純 


アルルの新ディレクター、フランソワ・エベル氏

- すべての人々の為の写真を追求 -

 さて、今年の写真祭、3年続いた、ジルモラから今年は新しいディレクター、フランソワ・エベルになった。彼は1986年と87年にすでに28才の若さでアルルのディレクターをしたので、15年ぶりのカムバックだ。この時は、マルティン・パーとナン・ゴールデンを中心に展開、コダックをスポンサーに選び、以後の運営に安定を与えた。エベルの経歴はちょっとした出世物語り。1958年パリ生まれ。医学とコミュニケーション論を勉強したが、写真の勉強はしていない。1979年、パリの写真店fnacの1店鋪で研修員となった。6週間の予定が6年間勤めることになる。fnacの各店は写真の展示スペースがあるので有名だが、ある時、英語を話せるということで、fnac写真部門の展示のアシスタントに採用され、年に1000枚の写真を壁にかけた。これは良い勉強だった。コーネル・キャパにがなりたてられたりしたこともあったが、パリの写真スペースは非常に少なかったので、概して、写真家には受けがよかった。1983年エベルはフナックの展示責任者になる。新たな顧客を掴むため、大写真家の10枚組のポストカードを安価で販売して成果を上げたりした。85年、彼の活動範囲が限定されるのを抗議して、fnacを辞めるが、パリ写真月間の責任者、ジャン=リュック・モンテロッソがエッフェル塔での写真の夜を企画した時、これをオルガナイズ、写真、ピクニック、音楽、ダンスで大成功だった。これで、大衆を掴む心をみこまれて、86年、リュシアン・クレルグの後任として、アルルのディレクターに抜てきされたわけだ。2年間のアルルでの成功の後、エベルはマグナムフォトのパリオフィスの責任者になる。2000年、国立図書館でのマグナムフォト展を指揮した。写真家のエゴのぶつかりあいが原因で、マグナムをさり、コルビスヨーロッパのディレクターになるのだが、このビル・ゲイツが所有する世界一の写真グループは大量の画像がコンピューター管理され、美、芸術、文化は不必要、売り上げ高だけの世界だった。これに不満で、退職手当ももらわずに、1年で辞めることになった。そして、大衆に受ける企画と集客能力を買われ、失速しかけていた写真祭に活を与えようと期待され、アルル国際写真の出会いのディレクターに再起用されたわけだ。





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