Apricot Dream
By Natsuki.K

「勝元! 咲いてるぞ!」
 そう叫びざま、オールグレンはその木に駆け寄った。
 桜の開花にはまだ早い、と勝元は言っていた。が、その一本の木だけは、薄紅色の花を、今を盛りと開かせている。春空の澄んだ色を背景にして。
枝一杯にこぼれんばかりの花を、オールグレンはうっとりと見上げる。
「ああ……これが桜かぁ!」
 寺の庭には、桜の木が数多くある。春になれば、淡いピンクの雲のように枝を飾り、夢のように美しいと聞いていた。
 日本人が、最も愛する花なのだと。
 春を告げ知らせて華やかに咲き、そして散る。その姿は武士の生き様にも例えられ、勝元も一番好きだと言う。
 百聞は一見にしかず、と日本の諺にもある。何故、桜がそんなにも愛されるのか、オールグレンはようやく分かった気がした。話で聞くより、絵で見るより、ずっとずっと本物の方が素晴らしい。
「気に入ったか?」
 ゆっくりと歩み寄ってきた勝元が、傍らで言った。薄紅の花の咲き乱れる下、ひときわ映える、濃紺の着物をまとった長身。彼を慕うかのように、花びらがひらりと、その肩に舞い落ちる。この里の主は、草木にさえ愛されているのかもしれない。
 一幅の絵を思わせる光景。時代に抗う最後のサムライと、彼の最も愛する花は、理想の一対として互いを引き立て合うかのようだ。
 厳かな、だが一方で、魂の底から浮き立ってくるような、不思議な感覚がそこにはある。華やかに咲き乱れる「桜」の下に。
「この花のように生きるのが、サムライの理想なんだって?」
 オールグレンが浮き浮きと問うと、勝元は一瞬戸惑ったようにも見えたが、うなずいた。
 感激を抑えられないまま、オールグレンは続ける。
「分かるよ、実物を見て俺にも分かった! 理想だよ本当に、この花みたいに生きられたら。俺もそう思う、この花みたいなサムライになりたい!」



 夕方、村の小道で、オールグレンは飛源と出会った。今日は山菜採りに行く、と言っていた少年は、籠一杯の収穫を意気揚々と抱えている。
「山は、どうでしたか?」
「うん、あのね。アンズの花が咲いていたよ。今年は一杯実がなりそうだ」
「アンズ? ……Apricot、ですネ?」
「そう! あるぐれんさんの好きな『アプリコ』だよ」
 ……あれは、子供たちと、少し打ち解けてきた頃のこと。おやつに出された、オレンジ色の小さな乾果があった。
 アンズだよ、と口々に言う子供たちの前で、もしかしたら、と思いつつ食べてみたら。口に広がる甘酸っぱさは、間違いなく、懐かしいあの味で。
 生家の台所にあった、アプリコットジャムの瓶。子供の頃、両親の留守に、こっそりつまみ食いしたことがある。一匙だけ、と思っていたのが、つい止まらずにもう一匙、もう一匙と。気がついた時には、瓶の底が見えかけていた。
(後で見つかって、大目玉を喰らったっけ)
 そんな思い出と共に、日本育ちのアプリコットを味わった、晩秋の日。
 この山里で、アンズは大事な栄養源でもあるらしい。少々酸味が強いので、砂糖や蜂蜜で甘味を補い、乾燥させて保存している。
 実がなるのは初夏。その時まで、自分がこの里に居られるかどうか、分からなかったが。
(出来ることなら、留まりたい。アンズの収穫も、この村の夏も見てみたい)
 春間近、そんなことを思いつつ、オールグレンは咲き始めた桜を思った。



 この前の「桜」は、今日も美しく咲いている。他の桜は、まだわずかに咲き初めた所だというのに。まだ冷たい風の中、凛と咲いたその花。
 心なしか、他の桜より花の色が濃く見える。というより、他の木についた花が白っぽいのだ。オールグレンには、その濃いめの色が、何となく好ましく見える。
 最初に見た「桜」だからか。それとも、一本だけ色が違っても、真っ先に花開き、見事に咲いているからだろうか。
 勝元は所用があるというので、オールグレンは庭先で彼を待ちつつ、その花に見とれていた。
 ふと、背後の足音に気づく。振り返ってみると、信忠と氏尾が連れ立って近づいてきていた。花に見とれる異人の姿を、信忠は笑顔で、氏尾は少々渋い顔で見ていたようだ。
「そんなに、この花が好きですか?」
 信忠が、そう声をかけてくる。
「ハイ! 勝元が好きな桜、私も好きです」
 美しいものを愛する気持ちは、異国の人間だろうと変わりはない。そのことを、信忠にも氏尾にも伝えたくて、オールグレンはそう答える。
 サムライの象徴たる桜の花を、そしてサムライの精神を、自分も愛している、と。
 出来れば、異人であろうとも、自分もそうなりたいのだ。一本だけ花の色が違う、この「桜」のように。傍らの幹に手を添え、オールグレンは拙い日本語で続ける。
「この、最初に咲いた桜、一番綺麗です。私も、このように生きたい思います!」
 ……と、信忠と氏尾は、いぶかしげに顔を見合わせた。何か言葉が間違っていたか。
 それとも、氏尾はまだ、異人がサムライになれるとは認めてくれないのか。いつも仏頂面の剣豪は、いささか呆れたように、こう呟いたのだ。
「……お前、蜂蜜に漬けられて日干しにされたいのか?」
 傍らの信忠が、吹き出すのをこらえるように口元を抑える。だがオールグレンには、氏尾の言う意味が分からない。
 おそらくは『顔を洗って出直して来い』とか『豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ』などと同じ、イディオムの類だろうか。『豆腐で殴られて死ぬ=頭が弱い=大馬鹿者』はまだ分かるが、蜂蜜漬けで日干しにされるというのは、一体どういう意味なのか。
 後で勝元に聞いてみないと。そう思っているオールグレンの前で、信忠が、何か取り繕うように言った。
「まあ、色々な人がいても、いいんじゃないでしょうか? どの花だってそれぞれに綺麗だと、私は思いますよ」
「しかし、勘違いしたままでは……殿はどういうおつもりなのだ」
 小声で、苛立ったように呟く氏尾。一体、何がどう勘違いだったのだろう?
「私、何か、間違えましたか?」
 訳が分からない。問いかけるオールグレンをなだめるように、信忠が顔の前で手を振る。
「いやいや、いいんですいいんです。父上が何も言われなかったなら、別にそれで……」
 その時突然、氏尾の手がさっと動いた。驚く間もなく、銀色の光が左腰から走り、空間を薙ぐ。
 小さな金属音を立て、彼が刀を納めると同時に、頭上の枝がはらりと落ちた。思わず差し伸べたオールグレンの手に、薄紅の花をつけたそれが受け止められる。
「確かに、お前に似合いかもしれぬな。持ってゆけ」
 そう言った氏尾の眼差しは、どこか満足げに見えた。さきほど見せていた苛立ちは、もうそこには無い。一瞬で、何かを悟ってしまったように、微かな笑みさえ浮かんでいる。
「ハイ! ありがと、ございます!」
 その枝を手に、オールグレンは嬉々として一礼した。
 最も侍らしいサムライが、授けてくれた桜の枝だ。「お前に似合い」とまで言ってくれた。……サムライのシンボルたるこの花は、きっと、サムライとして認められた証なのだ。こんな瞬間を、心の奥で夢見てはいなかったろうか。
 二人が去った後も、オールグレンは枝を春の陽にかざし、浮き浮きと眺めながら、庭を歩き回っていた。
 ……ふと、傍らの枝が目に入る。この「桜」とは別の、色の薄い、わずかに咲き初めたばかりの桜。
 微かな違和感。オールグレンは思わず、その花と、手の中の枝を見比べる。
(花の形が違う)
 手に取ってみて、初めて気づいた。いずれも薄紅の五弁の花。酷似してはいるが、付き方に違いがある。花の柄の部分が、自分のものは太く短い。だがこちらの桜は、柄が細長く、花は垂れ下がるように下を向いていた。
 思わず、隣の桜の元へ走り、枝を引き寄せて観察する。これもそうだ。細長い花柄と、下を向いた小さな花。その隣の木も、そのまた隣も。
 庭中を回っても、自分の枝と同じ「桜」は、ひとつも無い。
(まさか)
 オールグレンは、頭の片隅から、ウェストポイントの授業の中身を引っ張り出す。『あらゆる分野に通用するエリートを』という教育方針の下、米軍士官学校では、植物学の講義もあったのだ。
 この村の近辺には、バラ科サクラ属の樹木が多い。同属であり、花の形は類似している。桜、梅、桃、そして……。
 手に握られた枝が、小さく震え出す。この花が咲いたのを、勝元と共に見た日、飛源は何と言っていた? 同じ日に、あの子が山で見たという花は?
(だったら……だったら何故、勝元は……!)
 その時、声なき悲鳴が届いたかのように、勝元が現れた。庭の砂利を踏み、いつものように、悠然とオールグレンの傍らに立つ。
「何をしておる?」
「何、じゃないだろう!」
 オールグレンは、枝を突きつけて彼に詰め寄った。
「勝元! これは……桜じゃないのか! なあ、どうなんだ!」
「やはり、気づいてしもうたか」
 勝元は、何とも複雑な微苦笑を浮かべつつ、その花とオールグレンを交互に見る。
「その通り、桜ではない。アンズの花だ」
「アンズ……」
「よく似ておるからな。見慣れておらねば、まず区別はつかん」
 梅や桃は時期が違うので、オールグレンにも区別はついていた。だが、アンズの開花時期は、桜といくらも変わらない。
 そう、桜より、少し早いだけだ。
「何で教えてくれなかった!」
 似て非なるものを見て、浮かれていた間抜けっぷりを、何故すぐ訂正してくれなかったんだ。怒りに震えるオールグレンに、勝元は困ったように答える。
「お前が、あまりにも喜んでおったのでな。つい言いそびれた」
「だからって……桜の花は、サムライのシンボルだろう! そんな大事なものを、勘違いさせたままなんて、ひどいじゃないか!」
 そう、サムライのシンボル、精神の象徴。なのに、代用品を見せておけばいいと思われたようで、オールグレンは悔しくてならない。
「俺は……この花を見た時、やっと、サムライの心が分かったと思ったのに」
 折れんばかりに握りしめられたアンズの枝。それに改めて視線を落とし、勝元が問う。
「その切り口……氏尾だな?」
「そうだ。『お前に似合いだ』と言って、これをくれた」
 オールグレンは、白い頬を屈辱で真っ赤に染める。ああ、そうだろうさ。奴の言う通り、アンズならば「蜂蜜に漬けられて日干しになる」だろうさ!
(確かに、お前に似合いかもしれぬな)
 先程の剣豪の言葉が、全く違うニュアンスで甦っていた。侍になろうとしている異人に、姿だけ桜と似た花を与えた彼。その、不思議な微笑の意味は。
 あの男はきっと、無言のうちに、主君の意図を汲んだのだ。勝元もきっと、異国の者が「サムライ」になれるなどとは、思っていないのだ。
 サムライとして認められたと思ったのは、愚かな夢に過ぎなかったのか。
「どうせ俺は、桜の花にはなれないよ。見た目が似てるだけのアンズだよ!」
「落ち着け、オールグレン。こっちへ来て、茶でも飲みながら話さんか」
 白虎ならぬ、毛を逆立てた猫状態のオールグレンは、勝元に半ば引きずられるように、離れの縁側に座らせられた。
 景色に溶け込むように見守っていた老侍に、勝元は何か声をかけてから、自らもそこに腰を下ろす。
 むくれたままのオールグレンは、アンズの枝を縁側に放り出し、勝元から離れるように座る位置をずらした。
 居心地の悪い時間が流れる。勝元は、何も言おうとしない。
(あんたが悪いんだ、謝るもんか)
 そう思っているオールグレンの目に、盆を持って戻った老侍が映った。盆の上には湯飲みが二つ、それから、茶菓子らしき蓋つきの漆器。
 干しアンズだったらどうしよう、とふと思う。そんなもの、今は見たくもない。子供の頃から、ずっと好物だったのに、嫌いになってしまいそうだ。
 二人の間に盆を置き、老侍は一礼してその場を下がる。それを一瞥してから、勝元は穏やかに口を開いた。
「覚えておるか? この里の桜は、実をつけぬ。つけたとしても、食べられぬのだ」
「あ……」
 以前、勝元に訊いたことがあった。『そんなに桜の木があるなら、一杯サクランボが取れるんだろうな』と。大笑いされた後、教えられた。日本の桜は、花を愛でるもの。西洋の桜のように、実を採るために植えられるのではない、と。
「実ることなく、純粋な美のみを人の心に残す桜。侍の理想ではあるが、実らぬが故の無力さもあろう。桜は、桜であるが故に、子供らの飢えを満たしてはやれぬ」
 その言葉は、ある予感と共に、オールグレンの胸を刺した。勝元はもうすぐ、譲れぬ誇りのために、民と子供らとを置いてゆかねばならないのだ。
 そんな異国の友の思いをよそに、悟りきったような笑みで、勝元は続ける。
「だから……わしは、嬉しかったのだよ。勘違いとはいえ、お前がこの花のように生きたいと言ってくれたことが。散って終わりの桜ではなく、豊かに実るアンズに、自らを例えてくれたことが」
「………」
 ああ、そうだったのか。
 わずかの間に、オールグレンの怒りは消えていた。
 日本人ではない、日本の桜のようにもなれない。自分の魂が、本当に望んでいるのは、「散って終わりの花」となることではない。それでも、この里とその主は、彼を受け入れてくれるのか。
 桜に混じって花をつけ、一杯に実を成らせ、皆に愛されるアンズの木のように。
 おずおずと、オールグレンは問うた。
「……俺は、俺であればいいんだな? 桜ではなくアンズのように生きる、おかしなサムライでも?」
「ああ、そうだとも」
 静かに答えながら、傍らの器に手を伸ばす勝元。蓋を取りのけると、つややかな橙色の乾果が盛られている。
 威厳をたたえた侍大将の表情が、ふと崩れた。子供のような茶目っ気をのぞかせて、彼は果実をつまみ上げる。
「それと、もうひとつ。……わしも、アンズの実が大好きだ」


 初夏の日差しが、吉野の里に降り注ぐ頃。
 かつての領主を偲ぶ、簡素な墓標の前に、もぎたてのアンズが一皿、そっと供えられた。

END


この話の元ネタは、うちの父が海外赴任した時の出来事です。
十数年前の四月初め、北ドイツのとある都市にて。
不安一杯で駅に降り立った父を迎えたのは、
駅前広場に美しく咲き乱れる、満開の「桜」。
祖国の桜と変わらない姿に、励まされる思いで新生活を始めた父。
……しかし。北ドイツの桜は、そんな時期には咲きません。
後に、アンズだったことが判明したそうです(笑)。
「だって、本当にそっくりだったんだもん!」(父談)

そのネタプラス、同人屋のお約束「キャラを花に例えると」ネタで
この『Apricot Dream』が出来上がりました(笑)。
殿が「桜」はお約束として、氏尾は「梅」かなぁ、とか。
そしてオールグレンは「桃、アンズ、あるいはアメリカンチェリー」と。
殿&氏尾とお揃いのバラ科サクラ属で、実のなる樹ってことで。
何となくオールグレンには「果樹」のイメージがあるんですよね。
花が散った後に実るもの、というイメージが。


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