『刻銘』
by Natsuki.K
静かに眼を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。白い半紙の前で、ぴたりと正座しながら。年明けのしんと冷えた空気、清らかな若水で擦った墨の匂い。
そして氏尾は、筆を手に取る。墨を含ませ、それを一気に、紙の上に走らせた。
墨痕鮮やかに、「不惜身命」の四文字。
それが、彼の座右の銘。主君のために、身をも命をも惜しみはせぬと、定めた覚悟。
新年の抱負、と言うには少し皮肉かもしれない。氏尾は悟っている。この冬が明ければ、官軍が来る。そして自分は、勝元のために戦い、死ぬのだろう、と。
不惜身命。ずっと胸に刻んできた、その言葉と共に。
覚悟は出来ている。むしろ、誇りに思っている。それでもわずかに、ほろ苦い感慨が無くはない。静かな里の暮らしの中、刻々と迫るその時。最後の、いや、最期の年が、ついに明けたのだと。
だが半紙に躍る文字は、心の乱れを映すことはなく、力強くも端正に仕上がっている。修羅の道をゆく剣鬼たればこそ、心は常に、無の境地を保つべし。その心構えで、重ねてきた修行ゆえに。
静かな池にも似た「無の境地」。しかし、そこに小石を放り込み、波紋を立てる者がいる。いや、その者自身が、放り込まれた小石である、とでも言おうか。
……今それは、慌ただしい足音として、庭先に現れた。草履を脱ぎ捨て、縁側に上がり込み、今しも障子を開けようとしている。
「お前か、あるぐれん」
そう言ってから、氏尾は振り向いた。見なくても分かる。オールグレンの足音には特徴があり、特に走るとはっきりする。子供のようにぱたぱたと音を立てる草履、だが音の重さは、大人の体重を持つ男のそれだ。
「何の用だ、新年早々から」
障子が開くと共に、外の寒風が吹き込む。枯葉色の髪を、その風に乱して立つ、和服姿の異人。
「氏尾サン、字がうまいから、見て貰えと、勝元が、言いました」
にこにこと笑いながら、オールグレンは大きな半紙を広げ、差し出した。
氏尾は一見して、眉をひそめる。
「何だ? またずいぶんと難しい字を書いたな」
そこには「不撓不屈」の四文字が、不器用に記されている。童児の手習い並の代物だ。剣の上達ぶりは誰もが驚くほどだが、書道はそうはいかないらしい。
「どうせ、殿の手本を丸写しだろう?」
「ハイ、お手本の通りデス!」
障子を閉めて入って来ると、オールグレンは氏尾の前に正座し、その書き初めを置く。
「十五枚、失敗しました。十六枚目で、やっと、これ、出来ました。とても、大変、デシタ」
「………」
紙の無駄だ、と言いたいのをこらえて、氏尾はため息をつく。この異国の男は、元々好奇心の強いたちで、何かというと村の慣習を真似したがる。似たような一面を持つ勝元は、喜んでそれを許し、けしかけさえするのだ。
(全く、殿も殿だ。失敗するのは知れたようなもの、もっと易しい手本をやれば良かろうに)
二文字目の「撓」の字は、複雑で書きづらい。これが妙に大きく、下の「不屈」が、やや窮屈げに縮こまっている。やっと出来たと言ってこれなのだから、先に失敗したというのは、どんな代物だったことか。
勝元が見ていたのなら、手本を換えてやれば良かったのだ。それとも、意地っ張りな所があるこの男だ、むきになって「これでいい」と言い張ったのだろうか。
そんな氏尾のしかめっ面を、気にもしない様子で、オールグレンが不意に言った。
「私の国の言葉で、『NEVER GIVE UP』デス」
「は?」
思わず聞き返した氏尾に向かい、嬉しげに説明を続ける。
「座右の銘って何か、勝元に聞きました。英語で言う『モットー』だと、教えてくれました。昔、私の座右の銘、『NEVER GIVE UP』でした」
ついさっきまで、童子のようにはしゃいで見えた、薄水色の瞳。だが今、そこにあるのは、不相応な幼さではない。
「日本語で、こう書くんだと、勝元、教えてくれました」
……不器用ながら誇らしげな、「不撓不屈」の四文字。
それがようやく、氏尾の目に、丸写しの記号ではなく、本来の意味で捕らえられた。
たわまず、屈せず。いかなる逆境にも諦めず、己を曲げることなく戦い抜く。いつでも身を捨てる覚悟ではなく、決して自分を捨てないという、もうひとつの勇気のかたち。
この言葉でなければ、いけなかったのだ。
鮮やかに脳裏をよぎる、あの雨の日の光景。何度も何度も打ち据えられ、泥の中に伏しながら、なおも立ち上がり、剣を握り、戦おうとしていた男の姿。
サムライという鋳型に自らを流し込んでも、オールグレンのそんな本質は、変わっていない。
あれから時は流れ。荒んでいた瞳は誇りを取り戻し、かつて胸に刻んだ誓いを、侍たちの言葉で掲げて、ここにいる。
「そうか。『不撓不屈』か……」
自分が、いつになく和らいだ笑みを浮かべていると、氏尾は気づいていない。
初めは言葉すら通じず、剣で語り合うしかなかったこの男。だが、手探りのように感じ取った心映えを、言葉にするとしたら、それは。
「それが、お主か」
「ハイ!」
ぴんと背筋を伸ばして、異国から来たサムライは答える。青い瞳を、きらきらと輝かせて。そこに宿るのは、滅びの縁から、力強く再生を果たした魂。どこかまばゆいような想いで、氏尾は彼と、その座右の銘とを見つめた。
END
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