『メフィストフェレスの嘲笑』

by 刈穂川夏樹


 幼い頃、祭りの人形劇で「ファウスト博士の物語」を見た。
 悪魔メフィストフェレスに魂を売った、魔道師ファウストの物語。その代償に彼は、あらゆる力と快楽を得る。
 だが、契約の時が訪れた。芝居小屋の、ほの暗い明かりの中・・・どういう仕掛けだったのか、ファウスト博士の人形は、五体ばらばらに裂けて飛び散った。メフィストは高笑いと共に、その魂を我がものとして、地獄へと去っていった・・・。
 小屋を出た後、ジークは震えながら、傍らの父に尋ねたのだ。
「どうして、父上の剣は『ファウスト』というの?」と。
 

 その、今や父の形見となった剣を背負って、少年は廃虚と化した港町に立っている。
「ひどい荒れ様だな。食い詰めた傭兵隊が暴れ込んで、住民を皆殺しにでもしたか・・・? いや、俺の故郷じゃねえんだ、そんなことが起きるとも思えねえ。だったら、一体何が?」
 呟きながら、ジークは慎重に歩みを進める。ここは、ソウルエッジの持ち主、大海賊セルバンテス・デ・レオンの本拠地だった港だ。だったらなおさら、簡単に荒らされるはずもないのに。
 静かだ。風の音と潮騒、そして、少年の鎧が立てる金属音だけが廃虚に響く。時折、朽ちかけた雨戸が、風に小さく軋みを上げる。
 通りすがりの家の中に眼をやると、床に黒く残る染みと、散らばる古い骨が見えた。ここは、死んだ街だ。かつて、何が起きたのかは分からないが、生き物の気配は全くない。
 港の方へと、ジークは向かった。ここでは、潮の香りさえ、やけに重苦しい。
「海まで濁ってやがるぜ・・・」
 淀んだ沼のような水面を眺めて、彼は吐き捨てる。
・・・だが、その時。潮の香りの中に、ジークははっきりと、真新しい血の匂いを嗅いだのだ。
 海賊旗を掲げた、ぼろぼろの船が停泊している。セルバンテスの船、エイドリアン号に間違いなかった。


「この剣が、『ファウスト』と呼ばれる理由はね」
 あの祭りの後、家に帰ると。父フレデリックは、幼いジークを膝に乗せて、優しく語り始めた。身の丈ほどもある愛剣を傍らに。
「・・・初めて見た時、こいつは、店の片隅で埃をかぶってた。一目見た瞬間、素晴らしい剣だって分かったよ。でも、悪い噂があって、売れずにいたんだ。悪魔に魂を売った者が、その力で鍛えた剣だ、って。伝説の魔道師ファウストが造った、なんて噂まで・・・」
「本当なの?」
 ジークは、父親にすがりつきながら、その剣をこわごわと見る。人形劇の、八つ裂きにされたファウスト博士の姿を思い出しながら。まさか、悪魔メフィストは、この剣で博士を殺したのではないか。嘲笑と共に斬り刻み、魂を地獄へ連れ去ったのではなかろうか。
 なだめるように、ジークの頭を撫でてやりながら、フレデリックはきっぱりと言う。
「いや。俺は、ただの噂だと思ってる。・・・大体ね、そういうのに関わる職人には、事故が起きやすいんだ。鍛冶屋なんて、あんな熱い火を使うだろう? この『ファウスト』を鍛えた鍛冶師も、事故死でもしたんじゃないかな。それがきっと、噂の原因だと思うよ」
 そう思ったからこそ、かつてのフレデリックは、恐れ気もなく剣を手にしたのだ。誰も使おうとしなかった剣を。
「でも、事故なら事故だって分かるでしょ? 悪魔に殺されたなら、もっとずっと恐ろしい死に方のはず・・・」
 だからこそ、あやしげな噂になるのではないか。ジークはそう思っていた。だが、フレデリックは首を横に振る。
「ところが、それが分からないのが、事故というものなんだなぁ。実を言うと、俺にはね、錬金術師の知り合いがいたんだ」
「えっ? 父上に?」
「そう驚くなって。・・・幼馴染みの修道士で、薬とかの研究をしてたのがいたんだ。火薬なんかも作ってた。ある時遊びに行ったら、丁度、新型火薬を作るとかいう実験の最中で。見ていたら急に、フラスコの中から、変な匂いのガスが出てきた。二人とも気分が悪くなって、床に倒れちまったんだ。このままじゃ死ぬって思って、俺はやっとの思いで窓を開けた。そしたら・・・いきなりドカン、さ」
 苦笑しつつ、フレデリックは話し終えた。
「父上、大丈夫だったの?」
「そうでなきゃ、こうしてお前と喋っちゃいないよ。二人とも、ちょっと髪が焦げたぐらいで済んだ。でも、もしあの時の薬が、本当に新型の強力火薬だったら・・・」
 謎かけのように、父は、ジークの瞳をのぞき込んだ。
「そうか! 何のせいか分からないで、みんな『悪魔の仕業だ』って言うはずだよね」
「正解。・・・だから、錬金術士の変死があっても、それは悪魔の仕業なんかじゃない。実験中の、不幸な事故なんだ」
 錬金術というと、あやしげな魔道のように思われがちだ。実際、術の探求のうちに、悪魔崇拝に手を出す者も存在した。
 だが一方で、錬金術師の中には、本物の知識と探求心を持つ科学者たちがいたのだ。迷信に支配された時代の中、彼らは秘かに研究を重ね、世界の法則を解き明かそうとしていた。時には、その命さえも犠牲にして。
「彼らの研究は、これから確実に進歩してゆくよ。邪術なんかじゃない、人々のためになる研究をしている人たちがいると、いつかみんなも理解する。そうすれば彼らも、魔女狩りに遭ったりせずに、もっと色々な素晴らしいものを創れるはずだ。・・・そうして、魔法のような力を、誰もが使える時代も来るかもしれないよ。もちろん、悪魔に魂を売ったりしないでもね」
 夢のような、多少異端じみてもいる父の話。だが、幼い日のジークにとって、父の言葉は絶対だった。
「じゃあ、みんなが空を飛んだり、ずっと遠くの人と話したり出来るの? それから、一撃でいっぱい敵を倒したりも?」
 眼を輝かせる息子に、変わり者の騎士は微笑んだ。
「・・・ああ、きっと、な」
 だが、傍らの剣を見るその表情に、微かな愁いが含まれていたのを・・・幼すぎたジークは、気づいてはいなかった。
 それは本当に、魔道師ファウストの剣なのかもしれない。異端の錬金術士が、迫害と神罰に怯えつつ、知識の全てを注ぎ込んで鍛え上げた剣なのかもしれない・・・。

 
 ジークは、背の「ファウスト」に手をやった。カチリ、と小さな音がして、それを留めている金具が外れる。この剣の並外れた頑丈さに「鋼鉄より丈夫なんじゃないか」と、半ば恐れを込めて言う者も居た。もっとも、当時のヨーロッパで言う「鋼鉄」とは、遅れた技術で造られたものだったが。
 このファウストが、ジークの傍らになかったら、一体どんな運命が待っていたろう。少なくとも、今まで生き延びてはこられなかった、と彼は思う。
 そして、ここまでたどり着いた。故郷から遠く離れた、スペインの港町まで。
 海賊船に歩み寄りながら、ジークは、父が眼の前で「殺された」時のことを思い出す。真夜中の「黒い森」での出来事だった。
 斬り落とされ、月光の中に掲げられたその首を、彼は間近に見たのだ。本当に、間近に・・・したたる血を、見開かれた碧緑の瞳を、何か言いたげに半開きになったままの唇を・・・。
 記憶の中の、苦しいほどに生々しい映像。なのに、仇のことは思い出せずにいた。他にあの夜のことは、よく覚えていない。身も凍るような恐怖に、無様に逃げ出してしまったことしか。
 その後、気がついた時には、森の中のとある村で看病を受けていた。村人たちは彼のことを、盗賊に襲われた旅の一行の生き残りと思い込んでいた。「父の形見」のファウストも、丁寧に手入れして返してくれた・・・それからもう一つ、形見の品があった。
 いつの間にか、ジークの懐中に入っていた、銀のロザリオ。フレデリックが遠征に発つ時、首に下げていたものに間違いなかった。「St.Maria Magdalena」の文字を・・・娼婦と罪人たちの守護聖女の名を、刻みつけた十字架。かつて母が携え、父に贈ったもの。
 病床で、血がこびりついたままのそれを見つめて、ジークは改めて涙したのだ。やはり、父上は死んだのだ、と。
・・・エイドリアン号を前にすると、血の匂いはますます強くなる。単なる悪臭ではなく、濃厚な邪気のようなものが、そこには漂っている。ファウストの柄を握るジークの手が、微かに震えた。
「畜生・・・怖いもんか。敵の姿も見えないうちから、怖がってたまるか。父上を殺したあいつ以外、俺にはもう何も、怖いものなんかねえんだ」
 そして、無敵の剣ソウルエッジさえ手にすれば、その唯一の「怖いもの」も越えられる。心を蝕み、狂わせていく恐怖を越えて、仇に向かい合う勇気が得られる。思い出すことさえ出来ないその姿も、きっと記憶に蘇ってくる。・・・そう信じることで、彼は戦ってきた。ここまで、海賊セルバンテスの足取りを追ってきた。
 その道筋での、様々な出会い。ぎこちなくも心を通わせ、しばらく旅を共にした、あの極東の侍はどうしているだろう? 脳裏をよぎる光景が、やけに懐かしいのは、気の迷いの表れか。
 ふと、旅路で出会った、ギリシャの少女の言葉を思い出す。ソウルエッジは恐ろしい魔物、人の魂を奪う邪剣だと。
「ふん、信じるもんか。父上だってきっと、あんなこと言われても笑い飛ばしたさ」
 ジークは呟く。本当に信じないなら、無敵の力を与える、というのも疑わねばならないが。だが戦いの中で、一振りの名剣がどんなに心強いものか、彼はよく知っていた。父が恐れずにファウストを手にしたように、自分もソウルエッジを取る。そういうことだと、強いて思い込もうとしていた。
 フレデリックは、こうも言っていた。言い伝えに過ぎない悪魔よりも、本当に恐ろしいのは人の心、人の内なる悪だ、と。
 岸壁から、船に乗り移る。甲板には、人の気配はない。しかし、その中央あたりに出ると・・・ジークは一瞬、身をこわばらせる。そこに倒れている、セルバンテスの骸が見えたのだ。
「まさか! 誰かがもうソウルエッジを?」
 よく見ると、二本一組のはずの魔剣のうち、小さい一振りが見当たらない。大剣の方は残っている。何故か? 可能性としては、この海賊を倒した何者かが、片方だけを持ち去ったのだ。
「そうか・・・大剣は手に負えなかったんだな」
 世界には、様々な剣術がある。身の丈ほどもある剣を使うのは、むしろ少数派なのだと、ジークは旅の間に学んでいた。
 セルバンテスが倒され、それを果たした戦士が、ソウルエッジの一方を放置した以上・・・これは、発見者であるジークが、自分のものとしていいはずだった。
 長かった探索の旅の、あっけない幕切れ。激戦を覚悟していた少年は、ほっと息をつきながらも、不審な気がしてならなかった。セルバンテスに、ゆっくりと歩み寄りながら思う。こんなはずがない、こんな幸運が、そう簡単に転がっているはずがない・・・。
 その思いが、次の瞬間、彼を救った。
 海賊の骸から、突然、炎が吹き上げたのだ。とっさに転がって避けると、ジークは素早く起き上がり、反射的にファウストを構えた。前髪が、少し焦げたらしい匂いがする。
 殺気に応えるかのように、骸は炎を吹きつつ、ゆっくりと立ち上がる。その手には、邪剣の一方があった。
「馬鹿な・・・そんなはずが!」
 フレデリックは、悪魔などいないと言っていた。神の名の下に魔女狩りが横行し、多くの人が罪もなく惨死した時代への、秘かな抵抗として。魂を捧げさせる悪魔なんて迷信だと、幼い息子に言い聞かせた。・・・だから、ジークはずっと、そう信じようと思ってきた。
 だが。眼の前にいる存在は、悪魔としか呼びようがなかった。
 炎に焼かれて、すでに骸骨がむき出しになっている顔。眼球のない眼は、それでも少年を見ている。倒すべき獲物として、捕らえている。
 そして、生身の人間には不可能な勢いで、巨大な剣が空を裂いた。
 もしジークが、卓越した剣士でなかったら、呆然としている間に斬られていたろう。わずかな差で、彼は邪剣の一撃を避けていた。斜め後ろに回り込んで、剣を振り上げるように一発喰らわせると、魔物は恐ろしいうめき声と共に転がった。
(今の攻撃、効いたみたいだ。倒せない相手じゃねえ)
 ならば、倒す。例え敵が悪魔だろうと。父上ならそうしたろう、とジークは信じる。存在を疑ってはいても、もし悪魔が現れたなら、勇敢に立ち向かって斬るだろう、と。
 その胸の十字架に、少年は祈らなかった。罪深き者たちの庇護者、聖マリア・マグダレーナのロザリオに。聖書の神にも、その子たる救世主にも、あのギリシャの少女が信じた神々にも。祈るのは、人智を越えたものにすがるのは、敵と剣を交えながらすることではなかった。
 今はただ、戦うだけ。
 何も頼れない、誰の助けも当てにはできない。ただ、自分ひとりの力を出し尽くして戦うだけ。それが出来なければ、負ける。そして敗北は、死を意味する。それが、戦士として生きるということだ。
 今度は、ジークの方から打ち込んだ。剣がぶつかり合い、火花を散らす。二度、三度。そして鍔迫り合いの後、双方素早く飛び離れて間合いを取った。
 燃え上がる魔物は、ゆっくりと身をひねり、半ば背中を向けるような、おかしな構えを取った。挑発されていると見て、ジークが前へ出た瞬間・・・それは、ほとんど体当たりするように突っ込んできた。一瞬で間合いを詰めて、文字通り、彼の内懐へと。
「!」
 防ぎきれなかった。あの距離から、一瞬で眼の前に飛び込んでこられる敵など、これまで戦った「人間」にはいない。驚きと、激痛。鎧さえも斬り裂いて、邪剣は少年に傷を与えていた。
 致命傷ではない。だが、助かる傷でもない。強敵の前では、負傷で技と気力が鈍れば、そのまま命取りにつながる。・・・まして、これほどの力を持つ「悪魔」の前では。
 倒れたジークめがけて、魔物が剣を振りかぶる。危うく横転して避けた。分厚い甲板を、ソウルエッジは薄紙のように突き破る。
 ジークは、辛うじて立ち上がったものの、あとは防戦一方だった。出血は止まっていない。苦痛と恐怖とが重なって、頭がぼうっとしてくる。ただ本能で、攻撃をしのいでいるだけの有り様だ。
 ようやく、ソウルエッジの一撃を弾き返し、夢中で剣をなぎ払ってから背後へ飛び離れる。
 さっきと同じ手は喰わない。そう思いながら、彼は剣を握り直した。が、魔物は、あの構えを見せる様子はない。そして、ジークが再び動こうとした時、不意にその姿がかき消えた。
(どこだ?)
 視界の上端に、微かに映る炎。頭上から降ってくる、燃え上がる人型・・・身を横に投げ出して、ジークはそれを避ける。上方へ、力一杯剣を振り上げながら。邪剣が彼を斬り裂く一瞬前、ファウストの刃が、空中で魔物を捕らえる。
 凄まじいうめき声と共に、炎に包まれた骸は、甲板に叩きつけられた。残り火の揺らめく中、そこにはもはや灰さえ残らない。
 ただ、ソウルエッジの一方だけが転がっていた。
・・・終わった。彼は、勝ったのだ。
(本当に悪魔だったなら、案外、十字架でも突きつけてやりゃ勝てたのかもな・・・)
 荒い息をつきつつ、身を起こしたジークが思ったのは、そんなことだった。試してみたかったとは思わないが、十字架なら、父の形見を持っている。その首をはねた時、刃に引っかかって外れ落ちたのを、拾って懐に押し込み・・・
(えっ・・・!)
 全く突然に、奔流のようにあふれて来た、あの時の、記憶。
 間近に見た、父の死に顔・・・彼自身の、血まみれの手で、月光の中に掲げた首。見開かれた瞳と、もはや物言わぬ唇は、何を見、誰の名を呼ぼうとしていたのか。
「そんな! ・・・そんな、馬鹿な・・・!」
 忘れていた出来事。もし記憶というものが、ひとの魂の一部なのなら、ジークは確かにそれを「悪魔に売って」いたのだ。
 逃げたかった。ここでこれ以上、忌まわしい記憶と向き合っていたくなかった。だが、足はがくがくと震えるばかりで、立つこともできない。ファウストを杖代わりに、やっとのことで立ち上がる。
 その時。あれほど頑丈だった大剣が、あっけなく根元から折れた。くずおれた少年の耳に、ソウルエッジが、かたかたと音を立てているのが聞こえてきた。邪悪な笑い声のように。幼い日、あの薄暗い芝居小屋で聞いた、メフィストフェレスの嘲笑のように。
 甲板の上で、しばらく耳障りな音を立てていたソウルエッジは、じきにすっと宙に浮き上がった。いにしえより絶え間ない戦いの中、ありとあらゆる苦痛と、邪念怨念とを吸ってきた剣。人はついに、それを本物の悪魔にまで育て上げてしまった。
 では、父は間違っていなかったのだ。麻痺しかけた頭の片隅で、少年は思う。「悪魔とは、人の中の悪のことだ」と言っていた父は。
 自分自身という悪魔は、こんなにも邪剣に近しい。ありとあらゆる負の想念が集積した、悪魔の剣に。だからきっと、自分はこうして引き寄せられ、選ばれたのだ、と・・・。
 ソウルエッジの歓喜を、彼は感じていた。極上の闇を宿した魂を、単なる贄ではなく、永遠に我がものに出来るというその歓喜を。
 そして邪剣は、少年の眼の前に浮かんで静止する。
 契約の時は来た。罪の代償を支払う時が。その代償とは、人としての生と、魂。
「お前が、俺のメフィストフェレスか・・・」
 かすれた声で、彼はそれに呼びかけた。感覚のない腕が、勝手にゆっくりと動き出す。自分がすでに、その力に捕らわれていることを、彼は知っていた。
 絶望が、抵抗する気力を奪っていた。祈ることもしなかった。ジークはただ、邪剣が自分の手に収まるのを、虚ろな瞳で見つめながら呟いた。
「・・・さあ、俺の魂を持ってゆけ」
                    
Das Ende.
’98年6月『フライングキャリバー』掲載。

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