ヴィヴァルディの最期(1741/7/28)

(2004/6/14更新)

Mollwitz
モルヴィッツの戦い(1741/4)

 Antonio Vivaldiは活動の拠点をウィーンに移そうと1740年にイタリアを去りました。 ところがヴィヴァルディの後ろ盾になってくれるはずの皇帝カール6世は、 1740年10月に亡くなってしまいます。しかもカール6世には男子が無く、 生前に女系相続も可能なように法律を変え、列強の承認を得ていたにもかかわらず、 いざ長女のマリア・テレジアが相続すると各国が王冠を要求して戦争を仕掛けてきました。 オーストリア継承戦争(1740-1748)です。そのような中、 ヴィヴァルディは帝国を巡っていた可能性があります。
 1741年4月モルヴィッツの戦いで敗れたオーストリア帝国はシュレジエン地方を失い、 帝国中心部もさらなる外国軍による侵略の危機にさらされていました。 そのような状況の中ヴィヴァルディはウィーンのケルントナー門近くの家において 1741年7月28日に「体内の炎症もしくは腫瘍」のため亡くなりました。享年は63才でした。 ヴィヴァルディの葬儀は当時としては標準的な19フロリン45クロイツァーの費用で行われ、 貧民病院の墓地に埋葬されました。
 ヴィヴァルディのオペラは死後も上演されましたが、 その後音楽史から急速に姿を消してしまいました。 100年以上たった後、バッハの復活に引きずられるれる形で、 ヴィヴァルディの再発見再評価がなされていくこととなります。

St.Stefan
ウィーンの聖シュテファン教会


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