サンタンジェロ劇場での最初の作品(1714) Orlando finto pazzoのタイトルページ |
ヴィヴァルディと敵対したグリマーニ劇場 アリーナに席がないのに注意。アリーナは庶民のスペースでした。 V.Coronelli(Venezia, Museo Correr) |
Antonio Vivaldiは現在では考えにくいことではありますが、
聖職の身にありながら、オペラ興行師でもありました。
正式には作曲家としてのみの参加でしたが。
当時のヴェネツィアはこの手のことに大らかだったようです。
ヴィヴァルディの父ジョバンニ・バッティスタはフランチェスコ・
サントゥリーニが経営権を持っているヴェネツィアのサンタンジェロ劇場の共同経営者であり、
1712年にはそのサントゥリーニからアントニオが経営権を譲り受けました。
ヴィヴァルディは1708年頃からオペラの作曲に関わっていたようですが、
正式なオペラ作品デビューは1713年にヴェネツィア貴族のヴィンチェンツァの離宮で上演された、
「離宮のオットー大帝」(RV729)でした。自分のサンタンジェロ劇場のために最初に作曲したのは、
1714年秋のシーズン上演された「狂気を装うオルランド」(RV727)でした。
当時サンタンジェロ劇場はライバルのサンモイーゼ劇場と共に入場料の価格破壊で観客を集め、
ヴィヴァルディは他の劇場の所有者であるヴェネツィア貴族達から目の敵にされました。
しかし当時の証言を総合すると、ヴィヴァルディは舞台美術・装置・衣裳は極端に節約したものの、
オーケストラは小さいながら優秀で、歌手達も若くて優秀な人材を揃えていたようです。
オペラ興行師はリスクの多い職業で公演自体で利益を得ることは難しかったようですが、
劇場内の公認賭博の上がり等サイドビジネスで儲かったようで、
ショービジネスの世界はこの後も広がるばかりとなります。
ヴィヴァルディの仕事としては台本や出演者の確保、検閲対策(有力者の保護)、前払い金の工面、
競争相手の妨害を退け、広告やさくらの手配、歌手のアリアの配分への配慮やご機嫌取り、
その他諸々の激務でした。このサンタンジェロおよびサンモイーゼ劇場での激務は、
1718年のダルムシュタット宮廷赴任まで続きました。
なお、この間もヴィヴァルディは一貫してピエタ慈善院のコンチェルト教師でもありました。
後世、この敵対するヴェネツィア貴族の証言を取り上げて、
オペラ作曲家としては凡庸であったという説を述べる人がいましたが、
当時のヴェネツィアのショービジネスの厳しさを考えたら、
凡庸な作曲家が何シーズンもの上演を持ちこたえ、
生涯に50曲以上の作品を作り上げることはまず不可能です。
ヴィヴァルディはオペラ作曲家としても確かに非凡な才能を発揮したのでした。