Antonio Vivaldiは1720年代に入るとイタリア各地で活躍するようになります。
1721年にミラノで「シルヴィア」(RV734)を上演し、1723年にはローマに、
また翌年1724年の謝肉祭シーズンにもローマに滞在したようです。
ローマ滞在中に二度も教皇の私室に招かれてヴァイオリン演奏を披露したと、
ヴィヴァルディ自身が手紙の中で語っています。この旅行により、
イタリアの上流階級には入り込み、芸術のパトロンとして有名だったピエトロ・
オットボーニ枢機卿にも知己を得ることができました。まさに旅と栄光の日々と言えます。
祖国ヴェネツィアにおける活動も旅の合間に、あるいは旅の途中でも、続けられ、
1726年には「裏切られ復讐した忠誠」(RV712)、「テンペーのドリッラ」(RV709)、
「ファルナーチェ」(RV711)、1727年には「オルランド」(RV728)、
1728年には「ロジレーナとオロンタ」(RV730)がサンタンジェロ劇場で初演されています。
このころのヴィヴァルディの生活振りを正確にたどることは難しく、
またヴェネツィアに滞在した期間なども記録が少ないために良くわかっていません。
ただ1724-1725年のシーズンにサン・モイーゼ劇場でプリマドンナとしてデビューした
「ピエタのアンニーナ」ことアンナ・ジローとその妹パオリーナが、
ヴィヴァルディの旅に同行して病弱な彼の面倒を見ていたようです。また、
アンナ・ジローの名前はこの後ヴィヴァルディのオペラのキャスト中に、
その名前が必ず見られるようになります。
もちろん器楽曲も精力的に作曲され続け、1727年には作品9「ラ・チェトラ」、
1729年頃には作品10(フルート協奏曲集)、作品11と作品12(協奏曲集)
を出版しています。またピエタ慈善院との関係も良好だったようです。
この「ラ・チェトラ」は時のハプスブルグ家の皇帝カール6世に献呈されましたが、
皇帝は翌年の1728年9月のトリエステ視察のおりヴィヴァルディと直接会い、
「皇帝がヴィヴァルディと二週間音楽について話したことの方が、
大臣達とこの二年間話したことよりも多かった。」と言われたそうです。
1720年代を総括すると、
ヨーロッパ全土におけるヴィヴァルディの人気は高まりつつありましたが、
ヴェネツィアでの人気は絶頂から少しかげりが見え始めた頃かもしれません。
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