Carlo Goldoni (1707-1793)
by A. Longhi
Cardinal Tommaso Ruffo
by A. Bolzoni
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Antonio Vivaldiは1730年代に入ってもヴェネツィアのみならず、
イタリア各地で精力的にオペラの上演をしています。
特に1733年から35年にかけてはサンタンジェロ劇場で、
いくつもオペラを初演しています。1735年には当時売り出し中の劇作家、
ゴルドーニの訪問を受けています。後に有名になった彼の回想録によると、
当初この若い劇作家を信用していなかったヴィヴァルディだが、
台本上のある問題をその場で解決してみせると、素直に感謝し、彼の才能を認め、
「以後見捨てることがなかった」そうです。
ヴィヴァルディの本当の性格を示しているエピソードなのではないでしょうか。
ヴィヴァルディは1735年にピエタに再雇用され、このまま教師で余生を送るのかと思いきや、
フェラーラのグイード・ベンティヴォーリオ・ダラゴナ侯爵の保護の下、
1736年のシーズンから私財を賭けて、フェラーラでのオペラ興業に打ち込みます。
オペラ興業の実現に悪戦苦闘したヴィヴァルディでしたが、
1737年に厳格なフェラーラの教皇特使トマゾ・ルッフォ枢機卿によって、
フェラーラでの活動を阻止されてしまいます。不道徳な宗教家とみなされたようです。
結局まかせた地元の音楽家のせいもあってフェラーラでの興業は惨めな失敗に終わります。
またこの一連の事件と失敗に嫌気がさした侯爵はヴィヴァルディから手を引いてしまいます。
60才を越えたヴィヴァルディは、イタリアでは既に尊ばれなくなったとしても、
外国での評価はまだ非常に高く、1737年にはアムステルダムに招かれ、
また1739年にはバイエルン選定侯の弟フェルディナントと、
ポーランド君主ザクセン選定侯の王子フリ−ドリヒクリスティアンが、
ヴィヴァルディの演奏を聴くためにヴェネツィアを訪れました。
不屈のヴィヴァルディはピエタの再雇用の要請を辞し、
活動の拠点をウィーンに移そうと1740年に旅立ちました。
ウィーンにはヴィヴァルディを高く評価してくれた皇帝がいるのです。
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