Antonio Vivaldiは1703年3月23日に司祭に叙階されました。
しかし後年ヴィヴァルディ自身が手紙などで語っているところによると、ミサをあげたのは最初の1年間程度でした。
その理由は生まれつきの病気のためにミサの途中で退出しなければならなかったことが何度もあったからでした。
生まれつきの病気は洗礼記録にも書かれており、ヴィヴァルディ自身の述べた症状から最近のトラヴェルの仮説では、
アレルギー性気管支喘息を主張しています。 叙階式から5ヶ月後の1703年9月にヴィヴァルディは女性孤児のための施設ピエタ慈善院に音楽教師として採用されます。 その後、この慈善院のオーケストラを使って今日まで残る様なすばらしい作品が生み出されていくことになります。 後年、作り話ではあるが以下のようなエピソードがコロンとファヨイエの1810年刊の本に語られています。 ヴィヴァルディがミサを執行中、フーガのテーマがひらめいたためミサを放り出して書きとめ、 また戻ってきてミサを終えた。このことが異端裁判所に告発されたが、裁判所はヴィヴァルディを音楽家、 即ち気違いであると見なして以後のミサの執行を禁じたという物です。 ありそうな話ですが作り話であることがわかっています。 なお、赤い僧服のような物を着てヴァイオリンとペンを持つヴィヴァルディではないかと推測されていた肖像画は、 最近の研究ではどうやら別人を描いた物であるらしいことがわかってきました。 | ヴィヴァルディの肖像画であると推定されていた絵。 |