QJYつうしん 100号 平成10年6月1日

休日は山にいます

QJY100

100号記念だ 久しぶりに社説を書いてみるか

優しい母と厳しい父

昔、岩手山のふもとにひとりの百姓が住み着

いた。日々畑を耕しながら見上げる山の中に、四つの森があったそうな。

「なあ、森の木を少しばかりもらっていいだべか?」

「ようし。」四つの森は一斉に答えてくれた。

それから毎年少しずつ集めた木々で百姓は小さな家を建てた。

そして感謝の気持を表わすために、四つの森に、苦労して収穫した粟でたくさんの粟餅を作っては届けることを忘れなかったそうな…。

宮沢賢治の童話である。

自然が「優しい母」であり「厳しい父」でもあった頃は人間は小さな存在であった。小さな人間達は自然を恐れ、敬い、感謝の心を忘れてはならなかったのだ。

科学の発達した現在、私達は自然の中で何も怖いものが無くなってしまったみたいだ。

山に登っては、「征服した。」と奢り、山頂に自分の名を残すために樹木にカマボコ板を釘で打ち付けてあるのを見ることがある。

根こそぎササユリを抜いて持帰った跡を見ることがある。

道が泥んこで歩きにくいから、と木の根の上を平気で駆け抜ける人達。

アウトドアブームとは山で焼き肉パーティーをすることだと思っている人達。

賢治の童話は自然に対して常に感謝の心を持たなければならないと言っている。自分達は自然の中で生きているのでは無い、生かされているのだと。

だから自然観察会では植物の葉っぱを一枚頂くのに「ごめんなさい」の一言を言ってあげよう、と呼びかけている。何か宗教的、倫理的であまり好きではないが、その行為が「生き物」を痛めつけているんだと言うことを忘れないで欲しい、と言う訳だ。

植物はものを言わない、痛いとか辛いとか言えない。だから、私達は植物の、いや他人の痛みが分かる人間でなければならないのだ。

生態観察

標本を作って観察する人もいる。

これは「形態」を観察して研究するのには最良の方法だ。観察会では標本採取はなるべくしない。できるだけ自然の生きている姿を観察したいからだ。これを「生態」の観察と言う。蝶の標本を見るのは「形態観察」だ、蝶がどんな花に飛んできてどんな葉に卵を産み付けるのかを見るのが「生態観察」だ。

私達はこの生態観察を続けることでより正確な自然体系を学ぼうとしている。

町でハエやカが少なくなって「良い町になった。」と喜ぶ前に、ハエやカが減った訳、その存在する意味、価値を理解しなければならない。数年後ハエやカのいない町にはツバメも来なくなる。トンボも見なくなる。

生態観察は生物が生き抜くための条件を明らかにするために非常に大切なことだ。トンボがハエやカを食することを理解しなければ、トンボは絶滅してしまうと言う訳。

人間は自分に都合の良いことだけを「美徳」とし「正義」としてきたのではないか。

樹木に絡んだツル植物を、鬱陶しいと言って抹殺してしまう。

自然の成り立ちをぶっ壊して生態系を崩してしまう。食物連鎖と言われる厳しい自然の掟を見た目の都合で変えてしまう。

花の山歩き

で、話を山頂のカマボコ板に戻そう。

私はあの板はあまり好きでは無い。

山頂名を表わしたものはあるべしと考える。が、自分の名を残さんがために山頂を賑わすカマボコ板は、あの「日本百名山」の深田久弥でさえ集めては燃やしたと言う。

「広島百山」を著した山田廸孝先生も、「私達はあのようなものを見るために山頂まで来たのでは無い。」と残念がる。

そして「山頂だけが山では無い。」と。

これを読んでどれほど私が嬉しく思ったか、お分かりだろうか。

山頂目当てのお遍路さん

つまり花を見るのが好きな人は絶対に無理をしてはいけない。山歩きの楽しさは「無事、家に帰ってこそ」味わえるのだと言うこと。

三角点登山や駆け足登山、あるいは消し込み登山と呼び、山登りをスポーツ化して記録だけを求める「山屋さん」がいるのは確かだ。それはそれで結構。私はこの人達を「お遍路さん」と呼んで花の山歩きを趣とするハイカー達と区別してきた。

自然観察指導員としてはその行為を侮蔑はしない、が評価は出来ない。自然を理解しようとするなら「山頂」は目的ではないからだ。もちろんカマボコ板を樹木に打ち付けるなど問題外。

その山はあなたの土地でも無ければ、誰の権利物でも無い。いや、意外にもその山麓周辺土地の数人の共有の私有地である場合が多く、共有地だからこそ一般人の入山がかろうじて黙認されているだけなのだ。

国有地もそういう意味では私有地である。

まるで自分の山のように街の人が遊びに来ては汚していく。

道をふさぐように車を停め空缶を投げ捨てる人達はさすがに少ないが、これは登山人口を構成するのに若年層がほとんどいないことが幸いしているのでは無いか。

守らなければならないもの

日本の自然を取り巻く環境は戦後の50年で過去何千年も保たれてきたバランスを一挙に崩そうとしている。今すべてを取りやめても元の自然に戻るには何百年もの歳月を要することだろう。それは出来ない、そうではなく「悪化」のスピードをゆるめる程度の気配りしかされていない。

私達は私達の子孫に対しこの悪行の結末しか残せないのか?「先人はとんでもないことをしてくれた。」と思われて平気なのか?

戦後の復興経済の裏で破壊され続けた自然の営みが絶滅種の選定でより明らかになってきた。広島県はそれらの記録を残せる博物館の建設にもっと前向きな姿勢を見せないと、私達の子孫にはもっと大変な作業や試練を残すこととなるかもしれない。

せめてあなたの子供達には山の素晴らしさ、山が与えてくれる「幸」の豊かさを教えてあげて欲しい。

「自然保護」の掛け声はは団体組織だけが唱えるものでは無い。自然に関わる一般の人達が思い出として持つ「自然に溶け込んできた子供時代」を、未来の社会人、つまり今の子供達に何とか残してやりたいというささやかな希望を実現させて欲しいのだ。

世の中が世知辛くなり、観察会などでも子供の事故や参加者の帰りの事故のことまで心配しなくてはならなくなった。

自分の行動は自分で責任を持つのが当たり前だ。

交通事故が多いからと言って、世の中の車を無くす訳にはいかない。ならば、家にじっとしているのか?

星新一のショートショートにこんなストーリーがある。旅に出ようとした男が飛行機の墜落事故を予知してしまった。旅に出ることをやめたが、乗るはずだった飛行機は彼の自宅に落ちてしまった。

人間いつでもどこでも死ねます。

山歩きや観察会など自然の中で遊ぼうと思う人は自分の力で自分を守って欲しい。そのための勉強、気配りは当然のこと。雨には雨の対策をして初めて雨が楽しくなる。

極論を言えば、今死んで悔いのある人生なら悔いの無いよう、為すべきことは為しておかなければならない。法話のような話で恐縮だが。

人に責任を押し付けるのでは無く、自分の責任で自分を守ること。自分を守れない人が地球を守れるなんて、とんだ思い込みだ。

今しなければならないことを子孫に任せようなどと先送りしてはならない。