QJYつうしん 117号

休日は山にいます 98年11月10日

秋の夜は 哲学するも良し 植物の見る夢を想像してみる

【哲学その1】 夢みたいな話

宝くじに大当たりした。それも続けて3回。

当然、あまりの嬉しさに「会社はいつやめてやろう。ひとつぐらいは内緒にしておこう。」と様々な空想が頭をよぎる。この時点で夢だと気が付けばいいものを、「夢みたいだ。」と、喜びながら目が覚めてしまった。

むなしい。

でも、いやな夢よりましかもしれない。「それにしても、本当だったら良かったのに。」と、さらに思うのが欲張りな性格。どうしようもない。

でも人間はどうして夢を見るのだろう。

と、思っていたら、ふと他の動物でも夢を見るのだろうかと疑問に思ってしまった。イヌがうたた寝をしながらよだれを垂らしているのは食べ物の夢を見ているに違いない。そうか、動物はやはり食べ物の夢を見るかも知れない。

動物はともかく、植物はどうなんだろう。

冷たい雨にうたれながら、タンポポが「明日晴れてよ。」と夢見ることがあるのだろうか。夢を見るのなら、恋もするのだろうか。

「ハチさん、ハチさん、向こうのレンゲ畑のあの背の高い花の花粉を運んでおくれ。」と、こっちのレンゲが思いつめるのだろうか。

植物が夢を見る時、きっと自力ではどうしようもない配偶者の選択をしているんじゃ無いかと思う。

もうこれ以上の想像は「夢」の話で、哲学の分野になりそうだ。

しかし植物が見る夢はきっとより良い種の保全についてのことで、分かり易く言えばセックスの夢を見るに違いないのだ。

新しい種の誕生

では具体的にどんな植物がどんな夢を見るか考えてみよう。こんな馬鹿なことはこの通信くらいしか書けないだろうから。

庭に植えてあったギンモクセイは、かつて山でかっこ良く生えていたヒイラギに恋をした。どちらもモクセイ科で花の時期も同じ頃であったため、二人の間にちょっとしたきっかけがあり、不倫に走ってしまった。できた子の名は「ヒイラギモクセイ」両親の特徴を兼ね備えたラブチャイルド(不義の子)は雄株しか出来なかったが、いまでは世間に認知され愛されている。

世の中には結構この手の不義密通があったようで、新種と思ったら結局雑種だった、ということが良くある。

寂地山のジャクチスミレはスミレサイシンとシコクスミレがこっそり愛し合って生まれたらしい。

ラン科に至っては人間が仲人となって失楽園ならぬ植物園で乱交パーティーである。次から次へ新しいランが生まれる。

そこで植物の夢をかなえてやったらどんな花が生まれるのか考えてみた。

新しい植物

アメリカスズカケノキとスズカケノキを組み合せてイギリスで生まれたのがモミジバスズカケノキ。何と日本で良く見かける。

このように雑種は最低限、同じ科の植物を組み合わせなければならない。しかし、なおかつ女性っぽい植物と男性っぽい植物を掛け合せてこそ夢がある。その例では女郎花(オミナエシ)と男郎花(オトコエシ)の恋は有名ではなかろうか。

出来た子の名はオトコオミナエシ。

これは存在するらしい。まだ見たことが無いが、きっと名前からして男らしい女か、その逆であろう。

想像で作るなら、あのなまめかしい姿のオオハンゲ(サトイモ科)がたくましいクワズイモに抱かれて出来た子供は、きっと日傘をさした見返り美人みたいな姿の植物だろう。

が、そのように実現性がある組み合わせは、少々夢が無い。どうせ考えるなら現実離れしたふざけた想像をしてみたい。

例えば、トイレの紙として役立ったハクウンボクとクマザサを掛け合せてもっと便利なトイレットペーパーを作る。

ハガキの木として有名なタラヨウとフウトウカズラで全国の郵便局の鉢植えを飾る新しい植物。リンゴとミカンで皮をむいて食べるリンゴ。

だんだん話が怪しくなってきたので、もうやめよう。とにかく植物が夢を見るなら人間は是非それを叶えてやって欲しいものだ。植物にも好きな相手はいるだろうし、いつも同じパートナーでは進化が無い。

生物はもともと自身の保全と発展のためにあらゆる努力をしているとみて良い。動物のオスは争ってメスを獲得し、優れたオスのみが交尾に成功する。そうしないのは人間社会のみかも知れない。

すると人間が一番衰退の憂き目に遭うのか。

ならば人間がモラルを棄て、不倫に走るのは生物の根元の行動に戻っているのかな。

【哲学その2】プラス志向

境港市の真光寺という真宗のお寺を通りかかったら、中野光章という人の言葉が掲げてあった。

病気よ

お前のおかげで

僕はふつうの人には

わからない何かを

手にいれることが

できたよ

人間にはプラス志向の人とマイナス志向の人がある。病気というマイナス絶対値を背負ってなおこの考えが出来る人は幸せだ。

その病気を友にして生き抜くならば人生は暗いはずは無い。克服した時はなおさらである。

同じ病気で悩む人の気持をこの人はこの時初めて分かったのかも知れない。それは初めての世界だったり、初めての辛さだったのかも知れない。

だがそれを忍従し、やがて克服した時は自分がどれだけ大きくなっているか、むしろこの人は期待を持って生きているに違いない。

人間生きるからには死は避けることの出来ない壁である。プラス志向を持っていれば死でさえひとつの珍しい経験と思える。

これを寺の前で書き写していたら、何人もの人だかりが出来てしまった。目と目が合って、皆うなずいていた。

【哲学その3】向井千秋さんになる

先日ある人が「ハッブル宇宙天文台」の文庫本を探している、というので見つけてあげた。手渡す前に読ませてもらったが、宇宙のことを考える時人間のちっぽけな存在を対比しないわけにはいかない。

こんな広い宇宙の小さな我々がたかだか100年未満生きていくのに、どれだけ苦悩し、どれだけ涙を流さなければいけないのだろう。型にはまったモラルに押さえつけられ、周囲の生き方を気にしながら、型から外れないよう軌道をいじっている。個性を殺し、進歩をやめようとしている。

型から外れた人が、世の中を明るくしてきたことを忘れているのだ。名だたる発明者は皆、それまでの常識を破ることで新しいものを生んできた。

宇宙のことを考える時、隣近所や人との付き合いで落ち込んでいるのが何とちっぽけな事かと思う。

かつて日本は同じ国の中で争い、戦ってきた。今や国と国が牽制し合う。近々、地球がひとつになって他の星との戦いに備える日が来るのだろうか。いや、その前に流星が地球に衝突して大津波が襲い、大惨事が起こるのだろうか(ノストラダムスの大予言)。

別にそうなっても構わない。

楽しい人生を送って来たから。と、言いたいものだと思う。

もちろん、たった一度の人生を人から強要されるのでは無く、自分の道として生き抜いて欲しい。


{編集後記}11月8日(日)

大山の紅葉を見てきた。いつもより2週間以上遅い。しかし思ったより素晴らしく、さすが紅葉で観光客が呼べる山だ。すごい混雑で渋滞、でも午後から出かけたので渋滞は逆方向だった。

美保関町七類のメテオプラザで隕石の展示を見て、広瀬町・能義平野に寄ってみたらもうコハクチョウがたくさん来ていた。

清水寺の紅葉、さぎの湯温泉と立ち寄る場所は多い。

足立美術館はいつ来ても感激する。